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映画・演劇のレビュー

『エリジウム』

2013-09-23 07:18:36 | 映画
『第9地区』のニール・ブロムカンプ監督待望の最新作である。前作に引き続き今回も貧困地区の現状をしっかりとドキュメンタリーする。娯楽SF大作というパッケージングからの逸脱はできないけど、その枠内では冒険している。前作の3倍と言う製作費は前作の3倍窮屈な映画を強いられる。しかし、その中でちゃんと健闘している。

 自分の作りたいビジュアルを潤沢な製作費なら可能にする。もちろんそれは理想郷のエリジウムを作るためではなく、25世紀の貧困地区ロサンゼルスをリアルに再現(!)するためだ。メキシコロケは過酷だっただろうが、あれが現実だ。この映画が描く現実は象徴的に今の世界を描くことでもある。スラムを舞台にして(というか、地球全体がスラム化した世界の話なのだが)それでも生きなくてはならない庶民の姿を描く。映画としては単純な話で、一昨年の『トータルリコール』を想起させる。(あの映画は公開時は、あまり注目されなかったが、隠れた傑作である。)

 埃っぽいスラムを舞台にしての追跡劇も前作を思い出させる。だが、映画としては前作の凄さには及ばない。壮大な話ではなく、単純な話をいかに感動的に描くのかが、ポイントだったのだが、書割然とした話に説得力を与えるだけのディテールを書き込めていない。主役にスターを使うことのメリットもあまりない。マット・デイモンは健闘しているけど、スターのオーラが出過ぎていて素材としてこの映画の中に嵌らない。せっかくのドキュメンタリータッチが損なわれる。もちろん、それは彼のせいではない。監督の計算ミスだ。彼が主役としてちゃんと嵌るように映画全体を設計しなくてはならなかった。それはジョディ・フォスターも同じだ。エリジウムの長官として政治の中枢にいて、現状を憂える。だが、クーデターを机上で設計するだけでなにもしない。そんな彼女は簡単に殺されて映画から消えるのは当然だろうが、そんな役なら彼女をわざわざ呼んできた意味はない。終盤でちゃんとマット・デイモンと対峙して、この映画の核を担って欲しかった。

 自分の命を賭けて世界を救うというストーリーは構わないけど、肥大化した人口をこれからどう賄うのか。富裕層だけが幸福に生きれる社会は貧困層の犠牲を前提に作られたものだ。その構造が崩れてしまうと安定していたはずの世界の秩序は損なわれる。その時、どうなるのか。この映画はまるでそんなその後への言及はない。だから、見終えて少ししらける。正直に感動なんかできない。もちろん、それが狙いなのかもしれないが、それならもう少しこの先への道標を提示して終わらせるべきだった。

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