なぜ、アン・リーが『ハルク』の映画化を引き受けたのかはあの映画を見た後にも、疑問のまま残った。ハリウッドが(というか、マーブルコミックが)あの映画化作品を悪夢として受け止めた気持ちはよくわかる。だが、それなら最初から彼にオファーなんかしなければよかったのだ。何を期待してアン・リーにあの企画を持っていったのか、謎だ。
彼らが期待するものとアン・リーが求めたものとの落差は最初から歴然としていた。それともハリウッドはアン・リーすら商業映画監督として飼い慣らすことが出来ると踏んだのか。それにしてもそこまでして、彼に頼まなくてもいくらでも適任者はいたはずだ。もちろん彼らには『グリーン・ディスティニー』の成功が頭にあったのだろう。だが、アン・リーは単純なエンタメなんか、ここに求めなかった。両者の齟齬は悲惨な映画を生む。
アン・リーはハルクという緑の巨人にアメリカ社会に於ける阻害される少数民族のあり方を投影しようとした。彼が台湾からアメリカにやって来て、チャイニーズであることがアメリカ社会においてどんな意味を持つか、アメリカに適応していくことで見えてくるものは何なのか、というテーマのもと、初期の『推手』から『ウエディング・バンゲット』撮った頃に戻って、もう一度娯楽活劇の中で同じテーマを発酵させようとしたのであろう。だが、異形のものの悲哀なんて何を今更、と思う。しかも彼がこの題材に求めたものは、『スパイダーマン』を初め、もう既に様々な映画の中でで試みられているし、あまりおもしろいテーマとは言えまい。
だいたいそこまでして強引にハルクを自分に引き寄せる意味はない。少なくともあの映画からはそんなものはあまり感じられなかった。そんなことよりもハルクという題材でやれることはもっと別の次元にある。
と、いうわけで今回、前作を完全に反故にして全く別のエンタテインメント大作『ハルク』をリニューアルしたのが本作『インクレディブル・ハルク』だ。
『トランスポーター』のルイ・レテリエを監督に迎えたということが、今回の成功の原動力。リック・ベッソン制作映画の中で唯一成功した『トランスポーター』の魅力はスピード感と重量感のバランスのよさ。凄まじい破壊をほんの小さなところから一瞬でエスカレートさせ爆発させるところにあった。大味なハリウッド大作とは一味違う。
ルイ・レテルエは自分のすべき仕事をよくわきまえている。凄まじいスピードで主人公の逃亡劇が描かれる。エドワード・ノートンはきちんとした芝居をする暇もなく、タイトル・ロールの緑の怪物に変貌するところから、ブラジルへの逃亡。さらにはそこでの様々な出来事を軽く流し、すぐにティム・ロスたちによる執念の追っかけを振り切り、グアテマラへ、さらにはメキシコ経由でニューヨークに再び戻ってきて、その後も怒濤のアクションつるべ打ちを見せる。
本来ならこの手のアクションなんかに出そうもない性格俳優である2人を主人公にして、この映画を作ったことも大きい。その結果これは中身のないただのSFX大作にはならなかった。彼らはただのロボットとしてこの映画にいるのではない。こんなにも単純でろくなストーリーもないものに見えるこの映画の中で、彼らの放つ圧倒的な存在感は映画に奥行きを与える。ある意味で、『ダークナイト』の2人を凌いでいるかもしれない。あの映画には立ち止まるシーンがたくさんあり苦悩するクリスチャン・ベールをじっくり見せたり、狂気の故ヒース・レジャーの芝居を堪能させるだけの余裕があったが、こちらのエドワード・ノートンやティム・ロスにはそれがない。ノートンなんかただ逃げて戦うだけで精一杯、しかも戦い始めると、記憶を失ってしまうのだ。怒りの感情が自分をなくさせてしまう現状の中で、彼が自分自身を取り戻す旅が描かれていく。そこにこの映画の魅力がある。
エンタメとしてド派手な作りをしながらも、人間ドラマとしての味付けもきちんとなされた良質のハリウッド大作の誕生である。
彼らが期待するものとアン・リーが求めたものとの落差は最初から歴然としていた。それともハリウッドはアン・リーすら商業映画監督として飼い慣らすことが出来ると踏んだのか。それにしてもそこまでして、彼に頼まなくてもいくらでも適任者はいたはずだ。もちろん彼らには『グリーン・ディスティニー』の成功が頭にあったのだろう。だが、アン・リーは単純なエンタメなんか、ここに求めなかった。両者の齟齬は悲惨な映画を生む。
アン・リーはハルクという緑の巨人にアメリカ社会に於ける阻害される少数民族のあり方を投影しようとした。彼が台湾からアメリカにやって来て、チャイニーズであることがアメリカ社会においてどんな意味を持つか、アメリカに適応していくことで見えてくるものは何なのか、というテーマのもと、初期の『推手』から『ウエディング・バンゲット』撮った頃に戻って、もう一度娯楽活劇の中で同じテーマを発酵させようとしたのであろう。だが、異形のものの悲哀なんて何を今更、と思う。しかも彼がこの題材に求めたものは、『スパイダーマン』を初め、もう既に様々な映画の中でで試みられているし、あまりおもしろいテーマとは言えまい。
だいたいそこまでして強引にハルクを自分に引き寄せる意味はない。少なくともあの映画からはそんなものはあまり感じられなかった。そんなことよりもハルクという題材でやれることはもっと別の次元にある。
と、いうわけで今回、前作を完全に反故にして全く別のエンタテインメント大作『ハルク』をリニューアルしたのが本作『インクレディブル・ハルク』だ。
『トランスポーター』のルイ・レテリエを監督に迎えたということが、今回の成功の原動力。リック・ベッソン制作映画の中で唯一成功した『トランスポーター』の魅力はスピード感と重量感のバランスのよさ。凄まじい破壊をほんの小さなところから一瞬でエスカレートさせ爆発させるところにあった。大味なハリウッド大作とは一味違う。
ルイ・レテルエは自分のすべき仕事をよくわきまえている。凄まじいスピードで主人公の逃亡劇が描かれる。エドワード・ノートンはきちんとした芝居をする暇もなく、タイトル・ロールの緑の怪物に変貌するところから、ブラジルへの逃亡。さらにはそこでの様々な出来事を軽く流し、すぐにティム・ロスたちによる執念の追っかけを振り切り、グアテマラへ、さらにはメキシコ経由でニューヨークに再び戻ってきて、その後も怒濤のアクションつるべ打ちを見せる。
本来ならこの手のアクションなんかに出そうもない性格俳優である2人を主人公にして、この映画を作ったことも大きい。その結果これは中身のないただのSFX大作にはならなかった。彼らはただのロボットとしてこの映画にいるのではない。こんなにも単純でろくなストーリーもないものに見えるこの映画の中で、彼らの放つ圧倒的な存在感は映画に奥行きを与える。ある意味で、『ダークナイト』の2人を凌いでいるかもしれない。あの映画には立ち止まるシーンがたくさんあり苦悩するクリスチャン・ベールをじっくり見せたり、狂気の故ヒース・レジャーの芝居を堪能させるだけの余裕があったが、こちらのエドワード・ノートンやティム・ロスにはそれがない。ノートンなんかただ逃げて戦うだけで精一杯、しかも戦い始めると、記憶を失ってしまうのだ。怒りの感情が自分をなくさせてしまう現状の中で、彼が自分自身を取り戻す旅が描かれていく。そこにこの映画の魅力がある。
エンタメとしてド派手な作りをしながらも、人間ドラマとしての味付けもきちんとなされた良質のハリウッド大作の誕生である。