先週の「劇団有遊人」に続くカナリア条約の若手支援プロジェクト参加作品。これがとても面白くて、期待通りの作品だったことが嬉しい。まだまだ若手でこれから面白い芝居を作ってくれそうな才能がたくさんある。この企画でそういう集団を発掘して欲しい。
これも近大の劇集団のようだ。今、関西の小劇場を支えている才能は一時期の大阪芸術大から完全に近大にイニシアチィブが移ったようだ。恐るべし近大。というのは、冗談だ。僕がたまたま面白いと思う才能が近大出身と言うだけの話だし、僕は今はあまり新しい集団の芝居を見ていないから、僕の言うことなんか信用できない。
だが、この集団は信用していい。とても誠実なのだ。作、演出を担当するしろなつみさんと平山ゆず子さんの(女性ふたりによる共同演出ってめずらしい。大体小劇場の芝居では共同演出というのが、あまりない。)目指す方向性が明確なのもいい。目の前にある自分たちの問題から目をそらさない。地方から大阪に出てきて、ここで暮らしながら、ここと地元との距離にとまどう。そんな心情をささやかな芝居として提示する。
今回の作品は3話からなるオムニバス・スタイルなのだが、それぞれのエピソードは完全に独立しながらも、微妙なところでリンクする。冒頭と最後に「のぼりの電車」というエピソードが2話に別れて描かれる。それも含むと4話である。電車が語る。始発から終点まで乗ったひとりの男について語る。彼は故郷を出て、都会に向かう。母親と離れ、ひとり暮らしをする。この象徴的なエピソードに挟まれた3つの話はそれぞれ、とてもささやかなスケッチだ。こちらはリアルな話。でも、少しずつファンタジーに移行する。
1話(『記憶』)は、父親が亡くなり、田舎の家に葬式で戻って来た長男家族の話。いや、実質は長男の嫁と次男の嫁の話だ。この2人の会話を中心にして話は展開する。というか、別に話は展開しない。死んでしまった義父の日記を読む。そこにはこの家で育った彼女たちの夫たちの子ども時代や義父の雑感が書かれてある。それを一瞬垣間見るだけだ。2人の女。それぞれの置かれる立場が、ここに描かれる一瞬の時間、出来事の中で見え隠れする。都会に出て暮らす夫婦と、田舎に残って暮らす夫婦。それぞれの想いが一瞬交錯する。
2話(『夏の日の終わり』)は、都会の大学に出た2人の女と地元で暮らす同級生の女が、夏休み再会し、懐かしい小学校の校庭で話をする夕暮れの話。3人の会話だけ。それぞれのおかれた今の状況。これからのこと。20歳、21歳という微妙な年齢。
3話(『幸福の会話』)は、田舎に戻って来た夫婦のもとに、見知らぬ女が訪ねてくる話。夫婦と書いたが夫は出てこない。身重の妻のところに女が来る昼下がり。女は実は死んだ夫の母親の若かりし日の姿。幽霊なのだが、そんなことどうでもいい。会ったこともなかった義母と初めて過ごす時間。
1,2話がしろなつみで、3話と前後の話が平山ゆず子、という役割分担。3の話が、いずれも明確な終わりを持たないのもいい。オチはない。というか、そんなもの必要ない。3話の死んだ義母というもの、それがオチにはならない。自分がなぜ、ここにいるのだろうか。そんなこと、わからない。でも、ここにいるには確かな理由があるのだろう。そのことを考えるのが日々の暮らしなのだ。だから、ここには答えはない。それでいい。
これも近大の劇集団のようだ。今、関西の小劇場を支えている才能は一時期の大阪芸術大から完全に近大にイニシアチィブが移ったようだ。恐るべし近大。というのは、冗談だ。僕がたまたま面白いと思う才能が近大出身と言うだけの話だし、僕は今はあまり新しい集団の芝居を見ていないから、僕の言うことなんか信用できない。
だが、この集団は信用していい。とても誠実なのだ。作、演出を担当するしろなつみさんと平山ゆず子さんの(女性ふたりによる共同演出ってめずらしい。大体小劇場の芝居では共同演出というのが、あまりない。)目指す方向性が明確なのもいい。目の前にある自分たちの問題から目をそらさない。地方から大阪に出てきて、ここで暮らしながら、ここと地元との距離にとまどう。そんな心情をささやかな芝居として提示する。
今回の作品は3話からなるオムニバス・スタイルなのだが、それぞれのエピソードは完全に独立しながらも、微妙なところでリンクする。冒頭と最後に「のぼりの電車」というエピソードが2話に別れて描かれる。それも含むと4話である。電車が語る。始発から終点まで乗ったひとりの男について語る。彼は故郷を出て、都会に向かう。母親と離れ、ひとり暮らしをする。この象徴的なエピソードに挟まれた3つの話はそれぞれ、とてもささやかなスケッチだ。こちらはリアルな話。でも、少しずつファンタジーに移行する。
1話(『記憶』)は、父親が亡くなり、田舎の家に葬式で戻って来た長男家族の話。いや、実質は長男の嫁と次男の嫁の話だ。この2人の会話を中心にして話は展開する。というか、別に話は展開しない。死んでしまった義父の日記を読む。そこにはこの家で育った彼女たちの夫たちの子ども時代や義父の雑感が書かれてある。それを一瞬垣間見るだけだ。2人の女。それぞれの置かれる立場が、ここに描かれる一瞬の時間、出来事の中で見え隠れする。都会に出て暮らす夫婦と、田舎に残って暮らす夫婦。それぞれの想いが一瞬交錯する。
2話(『夏の日の終わり』)は、都会の大学に出た2人の女と地元で暮らす同級生の女が、夏休み再会し、懐かしい小学校の校庭で話をする夕暮れの話。3人の会話だけ。それぞれのおかれた今の状況。これからのこと。20歳、21歳という微妙な年齢。
3話(『幸福の会話』)は、田舎に戻って来た夫婦のもとに、見知らぬ女が訪ねてくる話。夫婦と書いたが夫は出てこない。身重の妻のところに女が来る昼下がり。女は実は死んだ夫の母親の若かりし日の姿。幽霊なのだが、そんなことどうでもいい。会ったこともなかった義母と初めて過ごす時間。
1,2話がしろなつみで、3話と前後の話が平山ゆず子、という役割分担。3の話が、いずれも明確な終わりを持たないのもいい。オチはない。というか、そんなもの必要ない。3話の死んだ義母というもの、それがオチにはならない。自分がなぜ、ここにいるのだろうか。そんなこと、わからない。でも、ここにいるには確かな理由があるのだろう。そのことを考えるのが日々の暮らしなのだ。だから、ここには答えはない。それでいい。