プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

佐藤政夫

2014-05-20 22:30:03 | 日記
1970年

「巨人での一年間は、本当にあっという間だった。こんどはロッテで一から出直したい。ロッテには左投手が少ないし、ボクの力を買ってくれたんだから、精一杯頑張ります」と佐藤政(前巨人)は張り切っている。佐藤政は、今秋行われた第一回のトレード会議(選抜会議)でリストアップされ、ロッテが指名して移籍が決まったもの。佐藤は、東北高時代、四十三年の夏の甲子園大会に出場後、電電東北を経て、昨年、巨人がドラフト五位で獲得した。左腕からのシュートとカーブが武器の変化球投手だが、今シーズンは、新浦、関本らの若手の外に倉田、菅原、吉村、小坂ら一軍選手がだぶついたために出番がなく、イースタンでは、六試合十二イニングに登板しただけ。しかし、内容はよく打者四十六人に被安打八、自責点一、防御率0.75という好成績を残している。一メートル七六、六十八キロとやや非力だが、ロッテは左の救援投手に育て上げようと期待を寄せている。昨年、ロッテ巨人の間で交換した川藤ー千田があまりパッとしないだけに、佐藤政にはひと踏ん張りして欲しいもの。植村コーチの指導で二年目の移籍投手佐藤政がどんな成長ぶりを見せるか、来シーズンが楽しみである。
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岩下正明

2014-05-19 21:57:29 | 日記
・粘り強いバッティングは代打に最適。小柄だがミートの巧さはチーム有数である。今後は守備を鍛えてレギュラー獲りも視野に入れる。

年俸「81年・450万」「82年・550万」「83年・700万」

1980年
・公式戦が開幕してから数日。この段階で地味ながら早くも首脳陣の評価を高めているルーキーがいる。ヤクルトスワローズの岩下正明外野手。1955年、1月生まれの25歳。開幕第2戦「中日戦」3回に早くも「投手・神部に代え、代打・岩下・・」ヤクルト・武上監督の話題の「影武者先発」神部のカゲにかくれて、それほど注目されなかったが、キャンプ以来「実戦的な選手だ。一日も早く使ってみたい」と武上監督が惚れ込んだ岩下がいたから、あの思い切った「影武者先発」から尾花ー松岡というリレーができたのかもしれない。プロとしての初打席。三沢の2球目のスライダーを岩下は見事、左中間に流し打つ2点二塁打。足が震えるような緊迫した場面で二塁ベースへ誇らしげにスックと立った。小さい頃からひそかに抱き続けていたプロへの夢が現実になった瞬間だった。一昨年の都市対抗で三菱重工横浜から補強され決勝戦で4打数4安打、東芝初優勝に補強として活躍してからその夢は一気に実現性を帯びた。昨年暮れのドラフト会議のわずか1週間前、ヤクルトのスカウトから声がかかったのだ。「上位指名はできないかもしれない。しかし必ず4位までには指名することにしている」それを胸を膨らませる期待で待ちながら、また一方でこの男はしたたかなことも考えていた。「今年がプロ入りのチャンスは最後の年。たとえ指名されなくてもテスト生としてプロの門を叩いてみよう」そして実現したプロ入り。スワローズのユニフォームを着て早くも3日後のトスバッティングで主砲・若松の目にとまった。「とにかくセンスが実にいい。ぼくがプロに入った時の実力より岩下の方がはるかに上だ」と若松が最大級の賛辞を送った。加えてバッティングフォーム。背格好が似ていることもあって「若松二世」のニックネームを頂戴したのだった。初の海外キャンプでもセンスあるバッティングはすぐに頭角を現し、武上監督から「外野の一番手」との折り紙をもらったほどだ。ヤクルト首脳陣の構想には大杉が万が一、不振のときは杉浦が一塁に入り、岩下の先発出場もありうる・・・と、その実力を買っている。だから岩下には、プロ入り初打席で2打点つきの二塁打を打ちながら代走・渋井に代えられたことが「自分恥辱」だと思う。「ああいうところでベンチに引っ込むところが、まだボクのだめなところだと思う。これからは走ることも守ることも監督やコーチに認められるような選手にならなければ・・」だが、岩下のプロデビューは、他の無名ルーキーには羨ましい限りの「輝くばかりの出発」といっていいだろう。
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小形利文

2014-05-19 21:48:52 | 日記
1971年
・八重沢、杉田と並んで東映からジュニア・オールスターに選ばれた小形外野手は、今年の2月にテストで入団した異色選手。6月には阿部「巨人」、問矢「ロッテ」と激しい首位打者争いを演ずる腕の上げようで「大した掘り出し物。将来、中心打者になる力は十分」と首脳陣を大喜びさせた。「金の卵」。九州の小倉工から新日鉄八幡へ入社、右翼手で1番、3番を打って活躍していた。2年続けて阪急からは「ドラフトで指名する」と声をかけられたが、会社の意向で立ち消え、それではと今度は小形が今年の2月「一度はプロで力を試したい」と退職願を出し、その足で東映のテストを受けたものだ。目をかけている高木二軍コーチは「まだ変化球打ちに難はあるが、将来性は十分。三拍子そろっており、2,3年後にはウチの中心選手になりますよ」と大変な惚れ込みようだ。小形は「あと2年はファームで実力を蓄えたい」といっているが、契約金ゼロ、月給9万円の小形が、3千万円選手の荒川「ヤクルト」や杉田「東映」に果たしてどこまで肉迫していくか。テスト生の根性を見せて欲しいものだ。
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小谷正勝

2014-05-18 20:00:27 | 日記
1968年

ドラフト会議で第一番目に指名した国学院大・小谷正勝投手(21)=1㍍79、74㌔、右投げ、右打ち、明石高出=の入団が決まった。小谷投手は東都野球リーグの二部随一のエース。右腕から投げ下ろす速球とカーブは一部専門家の間で高く評価され、巨人前川スカウト部長もたいそうご熱心だった。ところが、東部二部の悲しさ、その名前すら知らない人がほとんど。大洋はドラフト会議ができてから昨年の松岡(明大出)といい、ほぼ無名に近い選手をトップにランクしてきた。小谷もその例にもれないわけだ。しかし、いざ交渉してみると、本人の「自信がない」ということにプラスして、ノンプロ日立製作所(日立市)に誓約書を提出しているほど。父親の浪蔵さん=牧畜業=をはじめ周囲はほとんど反対。別当監督が説得をしても駄目で、一時は絶望と思われていた。それを入団に向けさせたのは藤井二軍監督(前スカウト部長)らスカウト陣の総力の結集といえる。十二月も押し迫った二十四日に、「日立側の了解さえ得られれば」の態度軟化をみせると、関西駐在の高松スカウトが日参。一方、小谷は七日に上京すると日立側に働きかけ、十日、十一日、十二日と迫畑顧問、多賀人事部長、先輩の渡辺氏らに了解を求めにいくといった熱心さに、日立側もついに折れて入団となった。
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上領義晴

2014-05-18 19:36:40 | 日記
1969年

花やかな入団発表もなかった。しかし、晴れてことしから、あこがれの巨人のユニホームを着て自主トレに励んでいる新人選手がいる。呉港商業を出て、手薄な捕手の練習生に採用された上領である。練習生というのは、なかなか首脳陣の目にとまらず、いつとはなしに消えてしまうのが常であるが、上領の場合半年間の地道な努力が、寮長兼二軍コーチにカムバックした武宮に認められたのであった。「高校でもレギュラーでなかったくらいだから、技術的にはまだまだ問題にはならないヨ。でも素質はあると見ているんだ。練習には熱心だし、生活態度も合宿の模範生だヨ。この半年の努力を買って支配下選手にしたんだが、彼なら奮起するだろう」が、武宮コーチの推奨の言葉である。
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平林二郎

2014-05-18 18:06:44 | 日記
・主に代走、守備要員としての出場が多い、控え戦力としては欠かせない存在だ。フィールディングと走塁の技術は素晴らしく、後はスイッチヒッター転向を機に非力なバッティングをどう向上させるかである。

年俸「77年・480万」「78年・360万」「79年・420万」「80年・420万」「81年・450万」

1971年
・ジュニア・オールスター当時23盗塁をマークしていた盛田「中日」が一軍入りしたスキに、スルスルと抜け出し、文字通り鮮やかなスチールで逆転、34盗塁を記録した、5年目、平林「阪急」の活躍は見事だった。元来、その俊足は定評があったが打撃が非力。脚力兼備の阪急で一軍入りはまだ遠いが、地道に力を蓄えている。
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斎藤喜

2014-05-17 16:05:04 | 日記
1968年

口が悪いのは、いま売り出しの斎藤喜内野手、ベンチの隅でゲームを観戦していたが、どう思ったのか、「ドラキュラ!」と大声で叫んだ。ドラキュラといわれたのは、西鉄に今年から移籍した岡本捕手、それほど酷い顔でもないのだが、斎藤喜にいわせると、「横顔がドラキュラに似ているのでつい・・・」と悪口をいったものの、その悪口があまり度を過ぎた個人攻撃と気付いて、頭をかいていた。これを聞いたナインが、「ノッポ(斎藤喜のアダ名)よ。岡本のこわさを知らんな。もし本人の耳にでも入れば、ただではすまんぞ」とおどかされて「申し訳ない。しかも、これも先輩方々の日頃のおしえ方がいいからですよ」と開き直っていた。
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松本俊一

2014-05-17 06:29:31 | 日記
1968年

記録男金田や稲尾のような大投手にとっては公式戦の1勝などそれほど感激はないだろう。だがプロ入団十年目で初勝利をあげたとなれば話はガラリと変わってくる。その投手の名前は東映・松本俊一投手(27歳)だ。松本にとって生涯最高の思い出になるだろう日は、開幕一週間目の十四日。場所は大阪球場だ。相手は今季優勝の最右翼にあげられている南海だった。この試合まで東映は三連敗の二勝四敗、およそオープン戦の好成績とは程遠い戦績に甘んじていた。「おい松ちゃん!投げてみろ・・」大下監督の思いがけない大声に、一瞬松本はわが耳を疑った。松本は腹にいっぱい力を入れると、マウンドまでスパイクの歯を立てて歩いた。スコアは六対二と南海が四点のリード。南海の三連勝はだれもが九分九厘堅いと思っていた。恐らく大下監督自身も・・・。
だが、松本はそのときこう自分にいって聞かせた。「オレはことしで十年目の選手だが、昨年限りで整理されてたかもしれない。それがプロで生きのびたのはピッチャーに転向したためだ。土橋さん(二軍コーチ)の期待に報いるためにも腕がちぎれるまで投げてやろう・・」と。松本は歯を食いしばって投げた。腹がすわってみると、不思議なほど心のゆとりがでてきた。ストレートも得意のスライダー、カーブもよく決まった。広瀬、キーオ、国貞など三イニングスで五個も三振を奪い無失点に押えた。いままで逆境に生きた松本に勝利の女神も微笑みかけないではいられなかったのだろう。七回宮原の左前タイムリーで三点目を入れ、六対三と詰め寄ると、八回には大杉が新山から劇的な満塁逆転大ホーマー。八回からは僚友の宮崎が二イニングを締めくくり、勝利は松本に転がり込んできた。「ありがとうミヤ(宮崎)」。プロ入団十年目でつかんだ初白星に、松本はこれだけいうのが精いっぱいだった。
松本は、昭和十五年九月十七日、久留米がすりと筑後川で有名な福岡県久留米市のかまぼこ屋さんの長男として生まれた。久留米人気質は昔からずる賢いことで知られている。だが松本はまるで正反対のおとなしいお人好しだった。松本を投手として育ててきた土橋コーチにいわせてみれば「青野や岩下など後輩にどんどん先を越されていくのに、ちっともカッカしているように見えん。もっと競争心を持たなくてはプロの世界では生きられん」である。それでも、松本が久留米商高から、三十四年東映に入団したときは、大型内野手として首脳陣から期待された。「背番号1」を与えられたことを見てもわかるだろう。ところが、軽快な守備に比べて打てないのだ。昨年までの九年間の通算打率1割8分4厘では守備要員にしか使えない。それでも、昨年は投手兼内野手として二足のわらじをはいてはいた。ところがことしの伊東キャンプから、どこを認められたのか投手一本になった。「ピッチャーをやったのは江南中学三年のときちょっとだけ。久留米商高で硬球を握ったときは三塁手だった」こう自分の体験を語る松本は内野手として壁にぶつかり始めた三十八年、知人から山口県宇部市厚南区第二原の女性を紹介された。この女性と清い交際が甘い愛に結晶し、ふたりが結ばれたのは翌三十九年一月十五日の成人の日だった。現在の幸子夫人だ。「ことしからピッチャーに決まったんですが、あれほど無口だった主人がそれは明るくなったんですよ。毎日練習から帰るとその日の出来事を冗談まじりに話してくれるんです」川崎市新作1333のアパートで、幸子夫人は主人の初勝利に目をうるませながらこう話す。横ではひと粒種の宣彦たん(三つ)がプラモデルを相手に遊びにこけている。「とにかく二年ほど前は、久留米の実家に帰って、かまぼこ製造と卸しの商売を受け継ぐんだといつも話していました。それがことしはピタリとやめてしまいました。それどころか、毎日のように、宣彦にTV映画サンダーバードに出てくる新兵器のモデルを買い込んできてパパがピッチャーでがんばって、もっと沢山買ってあげようねって約束するほどなんですよ」十四日の南海戦に十年目の初勝利をマークした松本が、川崎の留守宅で待つ幸子夫人の耳に、主人から喜びの電話がはいったのは、なんと翌朝の十時ごろだったという。「このアパートは呼び出し電話でしょう。だから夜遅く電話をかけると管理人に迷惑がかかると思ってあくる朝まで延ばしたんですよ。無口で大変な照れ屋さん。それが主人なんです」こういう幸子夫人自身も「プロ野球夫人になってほんとうによかった」と喜ぶ。
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村上義則

2014-05-16 20:38:27 | 日記
・松本、竹田に次ぐサウスポーとして期待されている。中継ぎ候補だ。


1976年「年俸220万」
・敗戦投手の目にさわやかな喜びの涙があった。「久しぶりにいい汗をかきました。ほんとに・・・」その声は震えがちだ。5月9日のウエスタン南海戦、村上はリリーフで2イニングに登板、昨年4月12日「阪急戦」以来のマウンドに立った。結果は打たれたものの再起へ十分に見通しのつくピッチングだった。1年前、プレー中に起こったアクシデント。投手にとって生命線ともいえる軸足首の複雑骨折。「もう二度とマウンドに立てないのでは・・・」本人だけでなく、周囲もそう思わざるを得なかった。モンモンとした日々。入院生活が続いた。だが、村上は耐えた。「せめてもう一度・・。ボクから野球を取ったら何が残るか」1ヵ月後には歩き始め、引きずるようにして散歩の距離を伸ばしていった。そして軽いランニングからダッシュ・・。思い切って走れるようになったのは、今年もキャンプが始まろうかという時期だった。遠かった再起への道のり。マウンドの感触が、村上には懐かしくてたまらなかったに違いない。初勝利はもうすぐそこに来ている。
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沢幡誠士

2014-05-15 21:07:23 | 日記

プロ入団時
・茨城・大宮高校時代は1試合平均13三振を奪うという関東ではトップレベルの存在だった。プロ1年目の秋、アメリカの教育リーグメンバーに参加。制球力のよさは、若手投手の中では右に出るものがいないほどだ。これを武器に活路を見いだせば個性のあるマウンドが踏めるだろう。課題としては、もう少し体重を増やし、カーブの切れに磨きをかけること。いずれにせよ、3,4年後のカープを背負って立つ大器である。

ファーム成績
1979年・1勝5敗・防御率4,41
1980年・0勝1敗・防御率2,84
1981年・1勝2敗・防御率3,81
1982年・0勝0敗・防御率6,43
1983年・1勝0敗・防御率2,82

1983年「阪神時代」
・右の本格派として期待されてきたが芽が出ず、昨シーズン終了後自由契約。阪神のテストに合格した。まだ23歳だし、心機一転すればコントロールのよい投手だけに、ショート・リリーフで使えるかもしれない。
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三浦政基

2014-05-14 22:36:18 | 日記
・入団1年目「1973年」のシーズン、小気味いいノーワインド・アップ投法で6勝をあげたときは大変な投手が現れたと騒がれたものだったが、その後、思ったより伸びない。今後は中継ぎに活路を見いだすが、変化球が低めに決まれば期待できそうだ。カーブが武器。

年俸「1977年・280万」「78年・360万」「79年・360万」

1981年
・三浦政基投手「南海」は6月4日の日ハム戦「後楽園」で、1球も投げないのにセーブを稼いだ。9回ウラ、日ハムは二死後、クルーズが本塁打を放ち7-8と1点差につめ寄り、さらにソレイタが右前安打したところで南海の4番手に三浦が登板してきた。三浦は打者・古屋に投げる前に、ソレイタに代わる一塁走者・井上晃のリードが大きいの見て、けん制球でアウトにし見事ゲームセット。これで三浦の「0球セーブ」が記録された。この三浦は5月6日の西武戦でも、2球投げただけでセーブを記録している。
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野上俊夫

2014-05-13 20:45:18 | 日記
1967年

第二試合で甲府商の望月投手が果たせなかったノーヒット・ノーランを、つづく第三試合で市立和歌山商の野上投手が三重相手になしとげた。この野上を近畿地区大会準決勝で16安打を浴びせてノックアウトした近大付属が、左腕サブマリンという風変わりな甲府商・望月投手の魔球にあやうくノーヒット・ノーランの瀬戸ぎわまで追い詰められたことを思うと、なにか因縁じみた気もする。「ひのき舞台で不名誉な記録だけは残したくなかった。それだけに白石がよく打ってくれました」と近大付属の豊田監督が語っていたように、三重の榊原監督もそうした気持でいっぱいだったと思う。その願いも空しく三重はついに一本のヒットが出せなかった。三重の打者が技術的に未熟だったことは否定できないが、高校選手は総体的に野上のような左腕でカーブを巧く使い分ける投手は苦手である。しかもこの日の野上はストレートの威力があり、内角低めにビシビシと決まっていた。このために得意の上から落ちるカーブが非常に効果的だった。三重はこのカーブにタイミングをはずされ、内角の速球につまっていた。しかし野上が最高のピッチングを示すことができたかげには、井田という好捕手がいたことを忘れてはならない。井田は一か月前、右足首にヒビがはいり、つい最近ギプスをはずしたばかり。ビッコをひきひきのプレーは痛々しい感じだった。この傷ついた井田が、六回に先制のホームランを左翼へかっ飛ばしたのだから驚きである。「内角をねらえ」のベンチの指示どおり、内角低めにきたストレートを打ったものだが、腰がよくはいり、打った瞬間にホームランとわかる豪快な当たりだった。この一撃が野上をどれほど元気づけたことか。 野上が「井田のサインどおりに投げたのがよかった。やはり井田が受けてくれると投げやすい」といったことばが、バッテリーは一心同体であることをあらためて痛切に感じさせた。井田はキャプテンで攻・守のかなめの重責を、負傷しながらもよく果たし、市和歌山商に勝利をもたらすとともに、野上に快記録を達成させた。
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小野坂清

2014-05-13 20:32:35 | 日記
1967年

東映は一回一死後、連安打の岡嶋、毒島をおいて張本が中越えに二塁打を放ち、大杉の右前打で張本もホームをふんで3点、二回には敵失で1点を追加して優位に立った。だが、ねばりの出てきた近鉄は四回二走者をおいて土井が嵯峨の初球真ん中へのスライダーを中堅左へたたき込んだ。近鉄は五回にも代わった田中を二死満塁と攻めつけ、高木が押し出しの四球を選んで試合をふり出しに戻した。好リリーフした近鉄の左腕小野坂は、カーブをうまく混ぜた軟投で東映をかわしていたが、八回二死後に直球がタマひとつ真ん中へ寄ったところを大杉に本塁打(二試合連続)され、九回に疲れたところを連打されたが、外角のシュートとスタミナが今後の課題だ。
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山崎章弘

2014-05-12 20:31:54 | 日記
・高校3年時「兵庫育英」、公式戦16本塁打。同夏の県予選では毎試合2つ以上の敬遠をされていた。プロ3年目「1982年」ジュニア・オールスター出場。

ファーム成績
1980年・打率207・本塁打4
1981年・打率250・本塁打2
1982年・打率306・本塁打3
1983年・打率271・本塁打1

1981年
・ことし巨人の多摩川グラウンドで最もドなられた男、それが山崎だ。「一日に必ず、2回以上は叱られた」そして、そのグラウンドで最も練習した男も山崎である。ポスト山倉として昨年ドラフト2位で入団したぐらいだから、素質はドカベンこと香川「南海」より上、というふれ込みだった。なにしろ、ホームランを打ったボールがゆがんでしまったというエピソードの持ち主。実際、宮崎キャンプではポンポンとサク越えを連発して、鈴木伸、林とともにドジャースの留学生にも選ばれた。しかし、シーズンに入ると株は暴落。カーブは打てない、おまけに肝心の守りはお粗末。何でもないキャッチャーフライを捕れず「あんなの見たことない」と周囲を驚かせ、ちょっとキレのいい変化球はたて続けにパスボール・・・。肩はよくてもスローイングは遅いときては、投手陣の信頼も薄かった。そこへ、同期のライバル、与那城「都城」の登場だ。肩の故障が治って試合に出始める。「負けられない」ようやくノンビリ屋の闘志に火がついた。親友の上野が腰の故障で退団したことも発奮材料になった。「プロは記録を残してこそ。このままファームにいてはダメだ。2,3年先には山倉さんと競い合うようになりたい」連日、与那城らとともに、ベテラン杉山からリード、キャッチングなど捕手としての基礎訓練。この英才教育が実を結びつつある。ホームランを連発するパワフルな打撃は消えたが、確実性が増した。イースタンの試合でもマスクをかぶり続け、投手陣の信頼も取り戻した。ポスト山倉として今季、一番成長した男、それが山崎だ。
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大塚徹

2014-05-11 21:52:24 | 日記
1975年・年俸300万
「南海時代」
・39年に産経アトムズに入団したが、ほとんど代打生活。47年、ホークス移籍後も相も変らず代打ひと筋に生きている。気は滅法強い。

1970年
・「毎日野球をやるのが、こんなにも楽しいとは思わなかった」トオルこと大塚外野手が7年目でつかんだレギュラーの生きがいを明るい表情で語った。この男、400勝投手・金田が在籍中たわむれの相撲で「金田天皇」をズッデンと投げ飛ばした怪力と度胸の持ち主。野球センスもあり歴代の首脳陣にも期待をされていた。ところが、入団後数年はどうも落ち着かず、私生活で再三のルール違反を犯した。あるときはコーチにこぶが出るほど殴られ、又あるときは数ヶ月も自宅謹慎を命じられるほど脱線が多かった。1番ショックだったのは飯田監督のころに命じられた自宅謹慎で「ふるさとの川でつり糸をたれながら自分の将来を考えました。でも、もう一度野球がやりたくでどうしょうもなかった」そうだ。その後、謹慎が解け大塚は再びヤクルトのユニフォームを着ることができた。捕手から外野へポジションは変ったが、いつかレギュラーになってみせると努力したのであった。
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