プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

川口孝秀

2014-05-06 16:57:31 | 日記
1968年

韓国ブームにあやかったわけではないだろうが、川口孝秀投手(PL学園三年生)=右投げ右打ち、一メートル八二、七〇キロ=の入団がアッという間に決まった。入団前にほとんどマスコミに騒がれなかったのは、PL学園が甲子園にも出場せず、在学中は目立たぬ存在であったからだ。「大阪にいい投手がいる」との情報をキャッチした球団は長谷川、高木時雨コーチをすぐ派遣し、実地に投球をやらせてみたところ「これは将来性のある逸材だぞ」と折り紙をつけ、すぐ入団の運びになった。川口のことをいち早く知りながら、一足出遅れた広島が「してやられた」と口惜しかったというおまけもついている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小金丸満

2014-05-06 16:32:02 | 日記
1971年

「一軍入りが目標だったのにピンチヒッターにさえ一度も出られなかった。この口惜しさを来年は必ず晴らしますよ」こういう小金丸(ロッテ)は、いま長崎県壱岐津島の郷里で毎日走り込んでいる。電電四国から前田康と一緒に今年ロッテ入り。入団発表の席では足を組み、平然とタバコを吹かして「なんとズブトイ新人。いい根性や」と、永田オーナーや報道陣を面食らわせたが、キャンプから公式戦に入るにつれて、だんだんおとなしく?なって、結局はイースタン暮らし。憧れの一軍戦には一度も出場出来なかった。イースタンでは二割一分七厘の三振三十七。せめてもの救いはイースタン一位の九本塁打(イースタンは十本以上でないとタイトルの対象にならない)をマークしたこと。「一軍にはとうとう上がれなかったけど九ホーマーで自信はついた。オフの間は当分走り込んで体の切れをよくしたい。そして腕力ばかりに頼らない、変化球を打てる確実性のあるバッターが来年の目標」と意欲的で、左の手の平には直径二センチぐらいの素振りの副産物のタコが出来ている。矢頭コーチは「まともに当ればスタンドへほうり込む長打力には魅力がある。しかし、今年は体の切れが悪く、変化球について行けなかった感じ。来年は不足している右の代打として台頭してくると思う」と大きな期待をかけている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里見進

2014-05-06 16:23:21 | 日記
1971年

プロ野球にも変りダネがいる。縁の下の力持ち役を認められた選手、意地を通す男・・その中から来季、面白い話題になりそうな変わりダネ選手を拾ってみた。トレード会議の結果、ロッテから南海への移籍が決まった里見進捕手(二七)は考える野球を推進してきた野村南海の頭脳プレーの網にかかった選手だ。三十七年群馬県の高田高からロッテ入り、以後の九年間、わずか八十六試合に出場しただけで、打率も二割に満たず、今季は一試合、それもあて馬という、目につかぬ下積み選手だった。トレード会議はチーム保有選手の五分の一をリストアップすることになっている。ロッテは員数を合わせるためにこの里見の名前を名簿に乗せた。それを南海が指名、かっさらって行ったときには、情報網の確かさにアッと驚いたものである。里見は、球団幹部、選手の間で信望があり、頭もよかった(ロッテ・田村営業部長の話)ので合宿寮長兼ファームのコーチ補佐をしていた。縁の下の力持ちとして、ロッテは里見の存在価値を認めていたのである。そんな里見に目をつけ、しかもロッテ野球の秘密を里見からカギ出そうとした南海のねらいに、ロッテ関係者は「まさか指名されるとは思っていなかった。正直いって出すのは惜しい」(田村営業部長の話)とくやんでみても後の祭りだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋二三男

2014-05-06 16:14:53 | 日記
・福本「阪急」、弘田「ロッテ」と並ぶ小男大プレーヤーの1人。米国の野球留学時代、コマネズミのような俊敏な動きを見せることからミッキーの愛称で親しまれた。選球眼もよくチャンスづくりの名人、又、流し打ちを得意とする。

年度別年俸「1978年、320万」「1979年、320万」

1979年ファーム成績
63試合・214打数53安打・打率248・本塁打1・打点11

1971年
・山椒は小粒でも・・を地で行くハツラツとしたプレーを見せているのがルーキー高橋二「西鉄」だ。3月16日、阪神とのオープン戦「岡山」。背丈の高い田淵と肩を並べることになった打席では、後ろにミットを構える田淵の184センチの体が高橋二を覆いかぶさっているようで、いかにも心もとない。阪神ベンチの村山監督からも思わず「小さいなあ」と声がもれたほどだが、上田投手に4回まで無安打に抑えられていたこの試合、高橋二は遊ゴロを足で内野安打にして気を吐いた。この打球を処理した藤田平が「あいつの足が速いのにはおどろいた」とびっくり顔するほどだったが、「新人王がダメなら盗塁王へ挑戦してみますか」と口の方は体に似合わずデッカイ高橋二である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田秀秋

2014-05-05 20:37:48 | 日記
1959年

四週間にわたる暖国湯之元でのスプリング・キャンプを終えた中日ナインは、二十八日、一、二軍に別れて、それぞれ湯之元を出発、杉下監督以下の一軍は対大毎とのオープン戦に、二軍は宮坂二軍監督を総帥に次のキャンプ地別府へむかった。キャンプでは例年にみられない意欲的な練習法、つまり実戦向きの練習でかなりの効果を上げ、前評判も上々だっただけに、中日のオープン戦によせる期待は大きかった。ところが、二日熊本でおこなわれた大毎とのダブル・ヘッダーは、第一試合が5対0、第二試合も3対2で連敗、オープン戦のスタートは、はかばかしいものではなかった。
四回からは地元出身の新鋭成田がマウンドを踏み、スタンドからヤンヤの喝采を浴びたが、立ち上がりに小森に棒球を呈して柵越えされ、五回にも榎本、田宮らに打たれてしまった。しかし、以後は持前の威力あるシュート、カーブを駆使してミサイル打線を無得点に封じ新人としてはまず立派な成績だった。「シュート、カーブのコンビネーションさえマスターできれば、第一線登用は間違いない。さすがは三羽烏の一人」と杉下監督は勝敗とは別に大変な喜びよう。試合後、成田は、「プロは恐いですね。ちょっとでもコースを間違えようものなら、とたんに柵越えだ」と頭をかいていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野母得見

2014-05-05 09:15:09 | 日記
1959年

ところで、予定表にない、もう一人のエースが登場するかも知れない。ことしからラジオ解説者になった西沢氏(元中日)が、「スピードがあるし、それに、なかなかいいシュートを持っている」という左腕の野母だ。野母も「オレもことしが勝負だと思っている」ともらしているように、今シーズンへの意気込みはいままでになかったほどのものがあるがたしかにキャンプからオープン戦にかけて、ずっと好調なピッチングをみせている。左腕特有の、サイドからくい込むようなストレートにもノビがみられるし、ブレーキの大きいインドロも威力がある。ひところのようなスピードをのぞむのは無理な注文かも知れないが、これでもうひとつの球速が加われば、まず大丈夫だろう。「誰でもいいんだ。オレが・・という気持になってくれさえすれば、それでいいんだ」こういうコーチ陣にこたえる意味でも、今シーズンの野母の左腕は注目される存在である。サディナと野母の二人が少なくとも期待どおりの働きをしてくれれば、予定表はスムーズにチェックされていくのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ティロットソン

2014-05-04 21:36:57 | 日記
1971年

南海待望の青い目の助っ人ティロットソン投手が来日した。いささか太りすぎの感じで、記者会見の席上、座ったとたんにボタンが千切れるという一幕があったが、これは「昨年の松にアルバイトでテレビや洗濯機のセールスをやっていたので身体は鍛えていないが、もともと身体作りには時間がかからない方なので、開幕には充分に間に合わす」とのん気なもの。
武器は速球とスライダー。「日本の野球のことはたっぷりと聞いてきたから、どんなものかは大体わかっている。だからある程度の自信はある」と大見得を切っていた。「スタンカとまではいかんが、大きな戦力になりそうや」と野村監督もひと安心。地味だったハドリやブレイザーにくらべて、ティロットは阪神にいたバッキーばりの陽気な外人。ことしの南海はティロットの加入でムードも変わりそうな気配もする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高橋幸広

2014-05-03 22:49:26 | 日記
1970年

中島スカウトがこのほど岐阜短大付・高橋外野手と入団交渉をした。まだ条件提示はしていないが高橋自身が「中大に進学するのはやめてプロで勝負したい」というので入団は決定的。この高橋を入団させれば近鉄は投手として育成したいようだ。同スカウトは「一メートル八五の身長を生かしたい。中学時代までピッチャーだったが湯口(巨人)がいたので外野にまわっていたのだ。きっといい投手になると思う」と大変な惚れ込みよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三宅昇

2014-05-03 21:27:03 | 日記
1971年

今年入団したルーキーの中にどえらい怪力の持ち主がいる。それは西濃運輸からプロ入りした三宅がその話題の選手である。なにせマシンのバッティング練習で真っしんにミートしながら、たてつづけにバットを三本折ったあと「最近のバットは弱くなりましたねと、自分の怪力を棚に上げて涼しい顔をしていたのだから、首脳陣がどえらい力があるヤツや」と舌をまくのも無理はない。そこで、三宅につけられたニックネームがゴジ二世。ところで、この話を聞いたゴジ一世こと石井晶がわざわざ三宅の怪力ぶりを見物にやってきて「うん、なるほどすごい力だ。オレが阪急に入ったときはあいつほどではなかった」とシッポを巻いたのだから一世をしのぐゴジ二世である。「早く石井さんのようにレギュラーになりたい」三宅の抱負に石井晶は照れっ放しだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楠本秀雄

2014-05-01 23:32:23 | 日記
1970年

ドラフト三位で指名されて入団した小西酒造の楠本秀雄外野手(21)=1メートル73、72キロ、右投げ右打ち=は徳島県立小松島西高の出身。この学校は、創立して日が浅く野球部が誕生したのも五年ばかり前。そんな関係で同校のプロ入り第一号が、楠本というわけ。学校側は、プロ選手の誕生に大よろこび。しかも入団先が名門タイガースとあって、このところ生徒間でタイガース・ファンが続出。「小松島という土地は、南海ファンが多いのですが、楠本君がプロ入りしたので、タイガースの人気がぐっと出てきました」とは、地元のファンの話で、このところ楠本の話で持ちきり。「来シーズンは、後援会でも結成して、船でノボリを押し立てて甲子園浜に上陸。応援にかけつけようと計画している」というファンも出るありさま。小松島は楠本、楠本。ちなみに同選手はベース一周十四秒四の俊足。ことしの都市対抗で三割二分、優秀選手に選ばれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東出康博

2014-05-01 23:14:07 | 日記
1971年

島本の台頭に刺激されたか、同じ和歌山出身でプロ入り三年目の東出が大器の片リンを見せはじめた。若手中心の秋のオープン戦、甲子園での対阪神戦で代打に指名された東出は、阪神の一軍半平山から内角よりの速球を物すごいライナーで左翼席に叩きこんだ。「一軍でもあれだけのホームランを打てる奴はザラにいないぜ」と穴吹コーチは大喜び。この試合、島本も四打数二安打と頑張ったが、東出の豪快な一発の前には影が薄い。「やっぱり先輩は凄いですね」と後輩の島本に冷やかされて東出は「どや、オレを見習えよ」プロ入りはじめてふんぞりかえったのである。「根性もまずまずや」と未完の大器と惚れ込んでいた穴吹コーチも愛デシの成長に目を細めた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原野一博

2014-05-01 22:23:23 | 日記
1971年

「バッティングピッチャーなんてもうやりたくない」と原野投手が、このほど任意引退し競輪選手への道を選んだ。原野投手は山口県の竜谷高校出身でことしで四年目。上背はあまりなかったが下半身のバネは抜群、サイドからの速球には目を見張るものをもっていた。しかし、プロに入ってからは芽が出ず、ここしばらくはくさり切っていた。原野自身はずい分前から競輪選手になることを考えていたようだが、藤井寺の合宿を出るときは誰にも詳しい事情を言い残していなかった。だから合宿の同僚も「消息はさっぱりわからないが、競輪選手になりたいといっていたのは事実です。一体どこへ行ったのですかね」と首をひねっていたものだった。その後、原野は京都の友人宅に仮り住まいして、第二の人生を力強く踏み出していった。いま、原野は京都競輪界の指導者飯村直次理事長の指導を受けているが、テストで初めて乗った自転車は意外にのびたという。抜群の下半身が競輪選手にぴったりだったのかもしれない。一流アマレーサーは千メートルを五十四秒で走る。この記録にはやや遅れをとったが、平均レーサーの五十八秒より数段速い五十五秒を出したというから有望。これから練習すれば速度はさらにますはずだ。だが、競輪選手になるには自転車学校に入学しなければならない。そのテストは厳重で一年に一度しかない。この試験にパスするまでペダルを踏み続けるという。野球選手から競輪選手に転向して成功したのは元巨人の西野忠臣選手ただひとりだが、自転車振興会も大乗り気で「原野君の育成には努力を惜しまない」といっている。原野は流れる汗をぬぐおうともせずにこういった。「もう野球に未練はありません。一生懸命やったつもりだが、ぼくのような無名選手に出場の機会はめぐってこなかった。入団する時は名選手になろうと思ったが、いまではその夢も消えてしまった。すべてを忘れて競輪に打ちこみます」新しい職業に飛びこもうとする若者の表情は生き生きとしている。「競輪界にはA級、B級とありますが、やるからにはもちろんA級をめざしますよ」こう語る原野を期待をもって見守りたいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大沢勉

2014-05-01 21:55:49 | 日記
1971年

捕手難を嘆いている東映でルーキー大沢捕手の株が上がっている。田宮監督、毒島コーチも「強肩で脚も速い。バッティングが一寸荒っぽいが、これさえ直ればなかなかやりそうだ」と、一日から始まった伊東キャンプではつきっきり。種茂に続く捕手として、大沢の台頭に大きな期待を寄せている。この大沢、秋田県能代高からノンプロ日鉱日立を経て入団したもので、日鉱時代は常時クリーンアップを打ち、昨年の都市対抗では日立製作所の補強選手として活躍した。昨年のアベレージは三割三分、本塁打十三本。パンチのある大型捕手として、将来性は十分というところ。大沢は「ノンプロや高校時代の仲間だった千葉(広島)や山田(阪急)にだけは負けたくない。当面は種茂さんに追いつき、追い越すこと。最後の大目標は野村(南海)さんです。とにかく一日も早く先輩投手のクセを呑み込んで、一軍入りをしたい」と大張り切りだ。「ハッスル・プレー」を売り物にする田宮・東映のアキレス腱と言われる捕手陣だけに、期待のルーキー大沢の成長が楽しみである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉橋寛

2014-05-01 20:45:36 | 日記
1971年

プロ野球ーサラリーマンープロ野球と再度のプロ入りでカムバックを狙っている大洋の倉橋がきびしいスタートを切っている。二十六日の対ヤクルト戦(大洋・多摩川)の春季教育リーグで初先発したが、いきなり二点を取られて敗戦投手。この倉橋、仙台育英高校から四十年に南海入り。三年間在籍したが、公式戦には登板しないまま、自由契約。その後、サラリーマンに転向していたが、プロ野球選手への夢を捨てきれず、昨年十一月、川崎球場で行われた新人採用テストを受け合格したもの。一メートル七三、六九キロと中柄でスピードも普通。二十四歳という年齢的なハンデを背取っての再起は前途多難だが、「もう一度、プロで勝負したいと思ってテストを受けたところ、幸いにも合格しました。精いっぱい、自分の力をぶつければ、たとえ、失敗しても悔いは残りません」と闘志満々だ。移籍選手でも見事に再起した例は多い。くじけずに頑張ってほしいもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大河原栄

2014-05-01 20:38:53 | 日記
・1974年、都市対抗野球の準優勝捕手。冷静な判断と強肩が売り。地味ながら着実に力をつけてきている。

1980年・年俸420万、81年・460万、82年・520万、83年・550万

ファーム成績
1981年・打率250、本塁打0
1982年・打率308、本塁打5
1983年・打率305、本塁打4「打率ウエスタン6位」

1980年
・10月19日の静岡球場で左腕・都がヤクルト相手にプロ初の完投勝ちをした。Wヘッダーの第2試合ということもあり、前試合にマスクを被った木俣に代わり、この試合で都の女房役をつとめたのが大河原であった。新日鉄八幡から中日入りして2年目。木俣のカゲにあって、なかなか出場機会に恵まれないが、都とバッテリーを組むと不思議に都の左腕が息を吹き返す。実は昨シーズン、都が初勝利をあげたのが、ところも相手も同じ、静岡球場のヤクルト戦「9月20日」。このときの捕手もやはり大河原で、彼の構えたミットに投げ込む都は、グイグイと速球で勝負したのが成功した。中日を代表する捕手といえば間違いなく木俣があげられるが、こと都に関していえば大河原と組んだとき、妙にウマが合って見違えるような投球をやってのける。「きょうの都はストレートが、じつによく走っていたので、それを生かすようにしてリードしただけなんですよ。ボクのリードがいいなんて、そんな・・」地味な人柄の大河原は、照れくさそうに話す。さて、来季は近藤監督が就任する。この人はコーチ時代から、バッテリーの呼吸を非常に重視する人だった。味方の投手や相手のチームの状況によって、若くて生きのいい大河原を積極的に活用していくはずである。「木俣の後継者」として大河原捕手の急成長が期待されるわけだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする