プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

土橋修

2014-05-11 19:03:30 | 日記
1967年

交通戦争のさなか、チームに痛ましい犠牲者が出た。若手の土橋修投手(22)で、同投手はオフの間を利用して和歌山で自動車学校に通っていた。ところが十二月十九日夕、学校からの帰り道、和歌山市六十谷の六十谷橋で、乗用車にはねられ頭部打撲、両足骨折の重傷。すぐに和歌山市本町の堀口外科に入院したが、頭を強く打ったのが致命傷となり、二日後の二十一日午後十時二十分、同病院で他界した。同投手はノンプロから二年前球界入り。長身を利してのソツのない投法は高く評価され、三年目の四十一年、一軍入りが約束されていた逸材。人間的にもおとなしく、万事控えめで、同僚、先輩から可愛がられていた。阪神ではもちろんはじめての犠牲者で、球界でも自動車事故で死亡したのは中日の加藤斌投手についで二人目。同投手のメイ福を祈るナインは、あわせて「事故をなくそう」と語りあっている。
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古川明

2014-05-11 14:43:09 | 日記
1971年

古川は二年生(銚子商出身)だが、こちらは投手として大洋のテストを受けて失敗。ロッテは下手投げのバッティング投手として採用され、大沢二軍監督に見出されて三塁手に転向、一躍注目を集めてきたテスト生上りの有望株で、今では「一千万円積まれても手放せないよ」と大沢二軍監督からべた惚れされるほど。打率も三割一分一厘と合格点だが、なんといっても売り物は脚。これまで五試合連続盗塁を含め、前半戦に二十六盗塁。六月には合計十三盗塁をやるなどイースタンきっての走り屋で各チームのバッテリーを泣かせている。昨年の盗塁王山下(巨人)が三十二個、二位の吉岡(ロッテ)が二十六個だから新記録も時間の問題だろう。古川は「上位チームの時にやらなきゃ意味がない。巨人、ヤクルト戦で走りまくって今年は五十盗塁を目標に頑張ります」と大変なファイト。一軍のシーズン百三十試合に対してイースタンの方は、各チーム十六試合総当たりの一チーム六十四試合だから古川のペースはとにかく凄い。年々小さくまとまった選手が多くなった中で、自分の武器をフルに生かす古川のような選手の台頭は一服の清涼剤というところだ。後半戦の活躍ぶりに注目したい。
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牧憲二郎

2014-05-11 11:52:27 | 日記
1972年

「選手権に投げさせてもらい、つくづくと阪急へ来てよかったと思いましたね。独特の雰囲気があるといわれますが、別にアガらなかったです。巨人とはオープン戦で投げているし、球も走っていましたからね」牧(阪急)が日本シリーズ第二戦(後楽園球場)のマウンドを踏んで、感激していた。味方がリードされていたこともあって気楽に投げられたらしいが、2イニングスを0点に押えている。秘密兵器の役割りを果したことになる。南海を自由契約になり、阪急のバッティング・ピッチャーに拾われてから三年目。ことしのオープン戦での好投が認められたものの、その後、一進一退。一時ウエスタンと一軍のかけ持ちで頑張っていたこともあるが、努力が報われた。「選手権で投げるのが夢でしたからね。うれしかったですね。ここまで来れたのも女房のお陰です」と俊子夫人に感謝していた。それというのも、牧がファーム暮らしを続けているときも、ほとんどバッティング・ピッチャーが専門で、一軍のローテーション入りの望みが薄れたときも、「そのうちにチャンスがきます。頑張ってくださいよ」と夫人は栄養に気を配ったり、短気を起こして自暴自棄にならないように、励ましてきたからだ。「家の壁に女房が張ってくれた、心は丸く、気は長くを眺め、嫌なことも忘れて希望をもって生きてきたのがよかったのでしょう」と牧はいう。ちょっとした愛妻物語だ。
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安木祥二

2014-05-11 10:49:11 | 日記
1969年

「ウチの秘密兵器だから技術的な質問にはお答えできません」山根コーチが報道陣にやんわり釘をさしている有望ルーキーが、産経の左腕安木投手である。クラレ岡山から今年入団。岡山関西高では三年生から硬式に転向し、クラレ岡山でもリリーフ専門で通算十勝十敗とそれほど実績はないが、左腕から繰り出すキレのいい速球とシュートは素晴らしく評判がいい。一目惚れした別所監督も「ウチがドラフトで指名した左投手は千藤(拓銀)山口(岩国高)安木の三人。そのうち入ったのは安木だけだけど、この調子なら三人分の働きが期待出来そうだよ」と高い評価ぶり。一メートル七九、七〇キロと長身だがやや細く、体質的には「尻がもっと大きくなれば申しぶんない」(山根コーチ)というところだが、巽、渋谷の両左腕投手が年齢的に限界にきているだけに、首脳陣の期待の大きさもわかろうというもの。「佐伯キャンプではカーブのコントロールをつけたい。森安さん(東映)とは高校の一年後輩。江夏とは同期で同じ年だから、二人に負けないような速球投手になって早く一勝をあげてみたい」とファイト満々だ。浅野、簾内、松岡という若手の三羽烏に割り込んで秘密兵器として台頭するかどうか。春のオープン戦が楽しみなサンケイのルーキー安木である。
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田中調

2014-05-11 04:08:13 | 日記
1970年

森安とともに八百長事件に巻き込まれた田中が、先月二十八日東京球場で行われた対ロッテ十八回戦で、今季初の完投勝利で三勝目をマークしたが、この夜はTV中継もあっただけに完投後の田中は大喜びでこう語る。「いまごろ初完投なんて遅すぎたけど、黒い霧事件があっただけに、テレビを通じてマウンドでお詫びできたと思うとやはりうれしいね。これを踏み台に残り試合に全力投球するだけ。幸いカーブもよく曲がるようになったしシュートも切れるようになった」翌二十九日は、美智子夫人も、東京球場へ観戦にかけつけ、帰りには仲よくそろって都内で内祝いの食事をしてビールで乾杯。田宮代理監督も、「田中のカムバックでローテーションがぐっと楽になった。特にサウスポーなのでロッテ戦にはこれからもきっといいピッチングをしてくれるだろう」とニコニコ顔。
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小川弘文

2014-05-11 03:52:01 | 日記
1971年

開幕の東映二回戦から逆転サヨナラ勝ちを演じて、昨年と違う粘りのあるところを披露している西鉄である。選手層も厚くなり、選手のなかにも気骨のあるものが見られるようになった。その一人がテスト入団の小川だ。九回裏の西鉄の最後の攻撃は二点のハンディを持っていたが、竹之内の長打で一点差とし、なお満塁。代打起用の小川は、ここで死球押し出しの同点。これが逆転劇へのお膳立てとなった。だが、小川の死球は田中の投げるカーブを避けようとするでもなくむしろ呼び込んで左肘に受けたようなもの。「わざと球に当った」と東映の抗議が出たが受け入れられなかった。小川は「別に当りにいったのではないが・・」と死球も勝つためには恐れないといった豪傑ぶりである。監督と意見が合わず広島をおん出た暴れん坊は西鉄に根性を吹き込む男である。
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西村俊二

2014-05-11 03:44:57 | 日記
・内野ならどこでもこなす器用さがあり、軽快なグラブさばきは玄人受けする。コツコツと努力を重ねるタイプで地味ながらチームに貢献をみせている。課題は非力なバッティングで右打ちは得意だが、もう少しミートの技術を進歩させないと定位置は狙えない。十分にレギュラーとしての資質があるだけに体当たりの気迫がほしいところだ。

「1975年・年俸360万」「76年・350万」「77年・370万」「78年360万」「79年・480万」「80年・590万」
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三好幸雄

2014-05-09 20:51:06 | 日記

・広島を自由契約になった後、阪急にテスト入団。信念に生き、努力して生きるをモットーとする。

1973年・年俸180万、74年・210万、75年・340万

1975年
・「早く片目をあけたい」といい続けていた三好の願いがようやくかなえられた。南海4回戦「西京極」で0-4とリードされた3回途中に先発の竹村をリリーフ、味方打線の逆転をバックに好ピッチングを展開し、今季初勝利が転がりこんできた。「4点リードされていたけど、味方打線がきっとひっくり返してくれると思い、ていねいに投げたんですよ」その努力が報われ、昨年4月10日の日ハム戦以来の勝ち星。「ボールにも切れがあったし、コントロールもよかった。最後は少しバテましたが・・・」といかにもうれしそう。半ば敗戦処理的な起用をされながら、味方打線の反撃を信じての勝利。「どんなときでも全力を尽くしてピッチングをする。そうすればいつかは報われるもの。三好の勝利はそんな教訓を改めて投手陣に教えてくれた」と梶本ピッチングコーチも絶賛していた。
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田中勉

2014-05-08 22:29:45 | 日記
1966年

・・・・田中勉投手(二六)
福岡県三池工から東洋高圧大牟田に入社して第三十一、二回都市対抗野球(昭和三十五、六年)に出場、三十二回大会では日立製作所を2安打完封、準々決勝では富士鉄広畑の大工投手と十二回投げ合って引き分けている。この大会後西鉄入りし過去五シーズンで百七十三試合に登板、49勝49敗、この中には9完封が含まれている。1㍍78、75㌔、右投右打。なお、先に完全試合をやった大洋の佐々木党首も都市対抗(日石)で活躍、橋戸賞をもらっている。

五月はパーフェクトの季節なのだろうか。それとも過去十六年の完全試合の確率からみて約千七百試合に一回しか起こらないこの偶然のでき事には連鎖反応というのがあるのだろうか。とにかくまた一人、投手としてこれ以上完ぺきなもののない完全試合を記録した男が生まれようとしていた。七回、八回、大阪球場一塁側のスタンドがひどくざわめきを増す。グラウンドでは・・守る西鉄の野手は気の毒なほど、シャチこばっている。八回先頭打者の野村が田中勉のグラブを強襲した。「あーッ、いかん」-思わず声が出たとたん、船田が鬼のような形相でフォローした。間に合った。ハドリの二塁後方のフライも船田が中堅手の方に回り込んでとった。広瀬は2-3からセンターフライ。待ち受ける玉造の肩から指まで、ハガネをとおしたようにガチガチになっているのが遠目にもわかる。「フライをとるのが仕事」の外野手には、何の変哲もない当りだろう。でもこの場合、ただのフライではない。玉造がグラブの奥深くおさめるまで、だれも目を離した者はなかった。いよいよ九回、代打のブルーム、井上が連続ストレートをカラ振りして三振。二十七人目に打撃コーチ兼任の杉山が止め男を買って出たが、二ゴロ、仰木がおがむようにしてつかむとソーッと一塁投球。「やった」。その瞬間、中西監督とともに、ベンチにいる選手の大半がマウンドへかけ上がった。和田捕手が田中勉をだきかかえてぐるぐる回す。みんながポンポンからだをたたく。一塁側南海ファンもヤジをやめて立ち上がりにくらしい男に祝福を送ったのは美しい場面だった。十一日前、佐々木は大洋の六連敗を食い止め、この夜田中勉は西鉄の五連敗に終止符を打った。これまでいためつけられた分を勝負の神が「完全試合」というすばらしい形でまとめて返してくれた点で、二つのケースは似ていた。やられたチームが広島と南海、ともに打撃好調のチームというのも、野球のふしぎさに輪をかけていた。「六回にいつもヘバるんですがね。シュート、フォーク・ボールは使いましたが、カーブはほとんどなし。ストレートで押していったのがよかったのですね」と和田捕手。「小細工しないのが、彼の持前のピッチングですよ」と中西監督。本当にそうだ。質問とフラッシュの雨を浴びる田中勉は、おそらく何と答えたかおぼえていないだろう。だが、その答え方はしっかりしていた。「シュートがよくきいた」「最後の杉山さんがいやだった」「何が何だかわかりません。うれしいという意識だけはたしかです」といっていた。「完全試合を意識したのは四回から」だそうだ。佐々木も同じようなことをいっていた。多少おこがましいように聞こえるかもしれないが、投手というものは試合開始の第一球を投げるとき「きょうは一本も打たれないぞ」とだれだって思うのだろう。それに失敗するのは投手につきまとう宿命のようなものだが、佐々木が、そして田中が二十七の難関を幸福にも突破できたのだった。
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森安敏明

2014-05-08 21:09:19 | 日記
1966年

背番号32番が小さく見えるほど、大きな背中の東映森安敏明投手が、公式戦初のマウンドに登った。さてウォーム・アップの第一球を投げようとふり向いたとき、なんとホーム・プレートには六人の審判員が、彼の方を向いて並んでいた。試合前の国旗掲揚のセレモニーを忘れていたのだ。一回を十三球で投げ切ったとき、水原監督のアドバイスを帽子をとって不動の姿勢できいた。しかし、こんな虫メガネのような観察で、ういういしさを発見しない限り、これが十八才の少年投手であるとは信じにくかった。

木樽(銚子商ー東京)堀内(甲府商ー巨人)牧(高鍋高ー南海)ら今シーズンはおおぜいのルーキー投手が両リーグにはいった。木樽が甲子園で名を売ったのに対し、岡山関西高の森安は、センバツの優勝校・岡山東商の平松(日本石油)の名にかくれていた。しかし昨年の新人選択会議で東映が希望順第一位にあげ、産経とかち合って抽選でとった大物。オープン戦で随一の実績をあげ、予想どおりこの夜公式戦登場一番乗りを果たした。そのうえ完投、完封、初勝利・・。森安にはなまじっかの脚光を浴びたことのない無冠の男の力強さがあり、早くも「新人王はオレだ」といわんばかりだった。豊かな未来を持つ森安の公式戦第一球は、胸もとをつくシュートのストライクであり、第一打者広瀬を外角スライダーで三振にうちとった。スリー・クォーターからくり出す右腕は、ムチのようにしなり、投手の森中を含めて五人の左打者をならべた南海打線も、しきりに空を切った。二回野村のバットが折れそうになりながら辛くも右前へはじき返したのが、ただ一本のヒットらしいヒットだった。新人殺しでは定評ある南海の古強者たちが、逆にバタバタと新人にナデ切られていった。

野村を迎えたとき西園寺が、小池を迎えたときは種茂が、森安のところへかけよった。弟のデビューを盛り立てようと、兄貴分たちは心を使った。その兄貴分たちは、気持ちはそうでも、実際はなんどか弟の足を引っぱった。凡飛をテキサス安打にし、五回は宮原が飛球を落として一死二、三塁のピンチに森安を追いこんだ。堀込の痛烈な一塁ライナーがとんだときは、東映ベンチも東映ファンも息をのんだ。しかし一瞬併殺で終わったとき、森安は「当たり前さ」というようにベンチへ帰っていった。こうして森安は、新人王の先輩、尾崎をしのぐ末恐ろしいデビューを飾った。新人投手の初登板シャットアウトは、両リーグを通じて村山(阪神)以来七年ぶり、二十五年に二リーグ制になってから通算7人目の快挙だ。
黒山のような記者団の前で「試合の前に教わった打者のクセを思い出しながら、慎重に投げました。でもまだ打者の胸もとへのストレートののびやコントロールが足りません。いや、あがっていたんですよ。まあ65点の投球ですね」と話す口調が、また落ちついていた。おどろいたことに、ほとんど汗もかいていなかった。童顔に無精ヒゲが五㍉ほど。年に似合わず、この少年の力強さの象徴のようにのびていた。
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佐藤文彦

2014-05-08 20:44:47 | 日記
1983年
・ドラフト外、契約金300万。昨秋の川崎球場での公募テストに合格。家業の電器店で働くかたわら、クラブチームで活躍していた。当分は打撃投手をしながら実戦のマウンドを目指す。
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西脇興司

2014-05-07 22:02:02 | 日記
1966年

三年前、西鉄の西脇はウエスタン・リーグで本塁打王のタイトルを獲得した。西鉄待望の大型打者と期待されたものだが、その後一軍へ往復キップを手に入れてからは持ち味の長打力がすっかり陰をひそめてしまった。「エヘヘ、そりゃね、宗旨変えをしたからですよ。ボクのようにアナの多い打者がホームランをねらってバットをブンブン振り回していたらどうなるか、また元のファームへ逆戻りするしか道がないじゃないですか」
六月十二日、近鉄の鈴木から奪った本塁打がプロ入り五年目で記録した公式戦初ホーマー。その後二本目はまだ出ていない。それどころか好敵手に対して人一倍の闘志を燃やしている。「とにかく出場のチャンスをつかむことが一番。三好、下須崎とライバルが多いし、いまのうちは好調なので一度ヘマをすれば次のチャンスがなかなか回ってこないし、シャープにヒットを打つことが目標」と宗旨変えですっかり面目を新たにした生き方に徹している。たしかに現在の西脇は好調で、ベテラン連が少しも力を落とさず、とても二軍の若手が入り込む余地はなさそうだが、それだけに、スキあらば、と狙っている若手がいることは、これからの西鉄の大きな強味だ。
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金本秀夫

2014-05-07 20:59:51 | 日記
1968年

阪急にサイケ調のエースがいる。プロ入り七年目の金本だ。ことしもシーズン中のトレード六月末までにあちこちから口をかけられたが。球団はその都度やんわり断った。金本がいいのか悪いのか、どうにも結論を出しかねる状態がつづいているからだった。ウエスタン・リーグにおける金本の成績は16試合で三勝五敗。七十七回投げて防御率3・51。まずは上の部類に入る投球内容だ。制球力は不安定という定評があるが、これも平均二イニング弱に1個。一八三センチの長身から投げ下ろす速球にかなりの威力がある。それでいてサイケ調といわれるのは、もう一つつかみようのないところがあるからだ。みごとな投球内容を示したかと思えば、その翌日には制球難で自滅したり、典型的な投げてみないとわからん投手。投手陣が手薄なところから最近金本を使ったら・・・という声も高いが、西本監督にしてみれば戦国レースの現在、サイケ調投手はあぶなっかしくて器用に踏み切れぬというのが本音らしい。それでもファームでは好投したと連絡があるたびに頭をひねっているのは、相手がサイケ調だけに、難解なのだろう。
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佐藤敬次

2014-05-07 20:52:02 | 日記
1970年

九月はじめから十二日間のロードゲームに加わった佐藤敬投手はイースタンで五勝した逸材だが、連日バッティング投手ばかり。将来の大器といわれるピッチャーだけに「もっと使い方があるんじゃないか」との声もきかれていた。当の佐藤敬は「二軍戦に投げると疲れます」と二軍の方がよさそうな顔つき。近藤コーチは「投げさせてみたいが、現在は1試合もおろそかにできないから・・・」と弁解しているが、相手チームも「なかなか迫力のある投げ方をする」と佐藤敬に注目している。何とか素直に伸ばしてやりたいものだ・・。
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三橋豊夫

2014-05-06 18:43:36 | 日記
1971年

一軍の善戦に刺激されたか、このところ首位の座で頑張るヤクルトにまた明るい材料が一つ。それは大型左腕と期待をかけられているルーキー三橋が、巨人戦で初完封をやってのけたこと。巨人五回戦(浦和)で先発した三橋は、一回、阿部の二塁打と二つの四死球などで一死満塁のピンチをつくったが、ここを切り抜けてから立ち直り、以後は大きなカーブをコーナーに決めて巨人打線を散発の三安打に押え、初勝利(通算一勝一敗)を見事な完封で飾った。一メートル八二、七五キロと大型新人の三橋は「第二の金田」と言われる注目株。まだ荒けずりなため、一軍入りは会田、大木らに先を越されてはいるが、将来性なら三橋が上といわれている金の卵だ。埼玉・鴻巣高から日通浦和を経てプロ入りしたもので、この地元での初勝利は「故郷へ錦を飾った」というところ。三橋は「行けるところまで行こう・・と投げているうちに完封になってしまって・・。この前負けた巨人に、それも地元で勝ててこんな嬉しいことはありません」と大喜び。「一日も早い一軍入りが目標」という三橋に、案外チャンスが早く回ってくるかも知れない。
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