1967年
交通戦争のさなか、チームに痛ましい犠牲者が出た。若手の土橋修投手(22)で、同投手はオフの間を利用して和歌山で自動車学校に通っていた。ところが十二月十九日夕、学校からの帰り道、和歌山市六十谷の六十谷橋で、乗用車にはねられ頭部打撲、両足骨折の重傷。すぐに和歌山市本町の堀口外科に入院したが、頭を強く打ったのが致命傷となり、二日後の二十一日午後十時二十分、同病院で他界した。同投手はノンプロから二年前球界入り。長身を利してのソツのない投法は高く評価され、三年目の四十一年、一軍入りが約束されていた逸材。人間的にもおとなしく、万事控えめで、同僚、先輩から可愛がられていた。阪神ではもちろんはじめての犠牲者で、球界でも自動車事故で死亡したのは中日の加藤斌投手についで二人目。同投手のメイ福を祈るナインは、あわせて「事故をなくそう」と語りあっている。
交通戦争のさなか、チームに痛ましい犠牲者が出た。若手の土橋修投手(22)で、同投手はオフの間を利用して和歌山で自動車学校に通っていた。ところが十二月十九日夕、学校からの帰り道、和歌山市六十谷の六十谷橋で、乗用車にはねられ頭部打撲、両足骨折の重傷。すぐに和歌山市本町の堀口外科に入院したが、頭を強く打ったのが致命傷となり、二日後の二十一日午後十時二十分、同病院で他界した。同投手はノンプロから二年前球界入り。長身を利してのソツのない投法は高く評価され、三年目の四十一年、一軍入りが約束されていた逸材。人間的にもおとなしく、万事控えめで、同僚、先輩から可愛がられていた。阪神ではもちろんはじめての犠牲者で、球界でも自動車事故で死亡したのは中日の加藤斌投手についで二人目。同投手のメイ福を祈るナインは、あわせて「事故をなくそう」と語りあっている。