シルクロードの出発地、古都 西安。 玄奘三蔵も長安の都を出発し、西域諸国を訪れている。 李白、杜甫、王維、白居易ほか、多くの詩人、文人が活躍した。 唐代の国際都市・長安へ日本からも7~9世紀、16回にわたり遣唐使が入る。 玄宗の側近として活躍した阿倍仲麻呂や吉備真備、高僧空海らがいた。1369年西安府となる。 (ガイドブックより
奈良や京都をおもわせる古風な佇まいが心をやすめる。 西安市の花、柘榴は紅一点… 緑に映えて。 白花もあり、 いずれも八重咲き。 ふだん見るのは一重の漏斗状ばかりなので驚いた。
11:00 兵馬俑坑博物館
秦の始皇帝、兵馬俑の映像はよく見ていた。
精巧な人馬の像は数えられないほど多く、 秦王朝の強大な軍隊の縮影をみるよう とある。
発掘順に、1号坑(1974年3月、農夫が柘榴畑で井戸掘作業中に、偶然みつけた。6000件の陶俑、陶馬と戦車50台。 最大の坑)。 1号・2号・3号坑合わせて8000件出土。
俑の、人物の顔、体つき、それぞれ個性的、 性格などわかりそうなほどだ。 髪型など異なる描写。微笑んだり、 活発そうな人、 考え込んだり、驚いた表情など。 経歴や年齢まで写している。
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おなじものがひとつもない。
当時は色が付いていた。 かすかに色が残る像もある。
像の上は松の木でふさいであった。 ゴツゴツ見えるのが松。 炭化したのもある。
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1号坑 圧倒する数と坑の広さ。 壁際の見学者が 蟻に見える
![修復を待つ像](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/06/12d0d9589025e972fb625bbdedbbfc86.jpg)
1号坑発見より 20年後に発掘がはじめられた 2号坑からは、 青銅製の銅車馬が見つかった。
粉々に砕けていたのを復元。 部品3000個余を組み立てたそうだ。
よくぞ ここまで !!
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始皇帝巡行用で、 御者は四頭の馬を御し、長衣束帯を身につけて豪華。 秦始皇帝陵はまだ開けられていない。 入口さえ見つからないという。 風水の角度は最高の位置。 地下宮殿にたどり着くのは、 いつのことだろう。 車窓から緑したたる小山を望んだ。 墳墓の周りに 柘榴畑が延々つづく。 鮮やかな花が全てをみつめていたのだ。
さいごに発見者の楊さんに会った。 おだやかな優しい感じ、 図録にサインをもらう。
ほか 兵馬俑のレプリカを購入。
大雁塔は大慈恩寺境内にある。 インドより経典を持ち帰った玄奘三蔵が翻訳した仏教経典600部あまりを納めるため建立。 高さ64m、7層。 文人墨客が好んで登り、多くの詩を残している。
手許の唐詩選(岩波文庫)をみれば 岑参(シンジン)という詩人の作に
塔の勢いは 地から湧き出たかのように、ただ一つ、高く、天上の宮殿までも とどかんばかりに そそり立つ。 この塔に登り立てば、俗世からぬけ出たことになろう。 … 空につき出た姿は 中国全土を圧し、けわしい高さは鬼神が作りなしたかと思われる (前野直彬注解)
とある。 当時は高いものが何もなくて、 清寂な趣のなかに立つ7層は荘厳で、 たいそう感激したのでしょう。 今はどこも建設ラッシュ、 玄奘三蔵像のうしろにもクレーンが写っている。
むかしむかし職場の後輩たちとさいたま市岩槻の慈恩寺へ。 そのころは何も知らないでいたがルーツはここ。
これまで 自分宛のメモ