雪の日、都会では傘をさしているのをみかけるけれど、山里や山奥では
傘はおろか、歩いている人をみかけることすらない。
このあたりに入り込んでくる人は道に迷ったか、何かを物色している不審
な者だけで、雪が降ろうと雨が降ろうと歩いているのは親分とその付き添いだけだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/62/a86370102a68159769303246010e1f41.jpg)
粉雪が冷たいみぞれに変わり、寒さに冷たさまでが加わって、あと少しの辛抱と
念を押されているような気がする。
人がこぞって訪れる場所には市がたち、すくなからず栄えると昔から決まっている
が、そもそもこの地は人を寄せつけないところだから、いつまでたっても栄えは
しない。
別荘地ブローカーが我が家の写真を勝手に撮り、周辺の土地を売ろうと企んでる
らしいが、このところ見に来る人さえ途絶えている。軽井沢や那須のようには
いかないということが、彼らはわかっていない。
人が棲む場所とそれ以外の場所の間には境界線があるのだが、それはふだん人には
見えないから、土地さえあれば金になると思っているらしい。
この時期、ごつい車に乗って眼を光らせている男達はたいていが猟が目的である。
熊が出る、の注意書きの立て札が大風に飛ばされて「熊」と書かれたところだけ
なくなっているので、彼らはここに何ものが棲むのか知らないし考えてもいない
のだろう。実際、怪我人が出たあとに札は立てられたのだった。
ネオリアリズムのヴィットリオ・デ・シーカや、ギリシア、テオ・アンゲロプロスの
映画のシーンがふと眼に浮かぶ。
イタリアやギリシアは日本人にとっては憧れの観光地といった印象が強いと思うが
輝く海や丘、白い壁と太陽が創り出すコントラスト、そして重厚な石造りの建築物、
異文化は好奇心を満たしてくれよう。けれど、長い歳月、そこで理不尽に流された
貧しい者たちの血と涙を知っていたら、その景色はまた違って見えるはずだ。
塀の向こう側を吹く風がなぜ荒涼としているかに思い至れるはずだ。
不幸の中を生きるには、人は耐えるしかない。
耐えている人の表情は、あるいは諦め、あるいはいまだ嘆き、あるいは凍りついている。
しかし、生きている証がないわけではない。
ある瞬間、瞳のなかに炎のようにゆらめく光。
うつむくとそれはまた見えなくなる。
愚かであろうと、知能が並より低かろうと、顔が醜かろうと、親が貧しかろうと
始めから押さえつけられている人は子どもの時から耐えている。
耐えて生きているのが普通の日々である。
だがそれは弱い者と決まったわけではない。
ただ単に弱いだけではない。
始めから恵まれて幸福な暮らしをしている人より、知っているのである。
耐えるということが生きる力となることを。
翳る日、ほんの一時射しこんだ太陽に気づき喜べるのは、そうした人々だ。
幸福にみえる人が神さまの近くに居るわけではない。
(この何の値打ちもない谷間の土地にて、
くしゃみしながらそんなことを考えるうさこである‥)