想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

隠れびと

2011-04-03 09:35:41 | Weblog
      (待ち遠しい春です、'10.5.16 撮影)

「古典や古伝書を学んでいいことは何ですか?」と聞かれるので
いいことがあると思ってるんじゃないんだけど、と思う。
必要だからなんです、知っていないと諸々わからないことだらけ
だからなんです、そう答えるしかない。

叡智というのは古いものからしか受け取れないんだということを
言いたいけれど、たいていの質問者は一言で聞いて、短くて話して
もらいたがる。要約がお好みだ。昨今のなんでも約める流行などが
許される国民性である。役所仕事でもやってるんだから。
もひとついえば文節が長いとわかんなくなくらしくて‥アホになって
きた。

長いかな‥、簡単なことしか言ってないんだが、エイチと言っただけで
止まってしまう。しかし叡智は知恵とは違うから叡智だ。

知恵は三人寄ればその内の一人が思い浮かんだり、それにあと
二人分足せばさらにいいのが浮かんだりするけれど、エイチは
深奥のところにあるものなので寄るか寄らないかは関係ない。

思いつきを知恵だと思ってすぐに実行したがる、実行するために
理屈をつける。理屈では「わたしの思惑」は隠されてしまうので
聞こえのいい言葉だけが並ぶのである。
同じくらいの浅知恵の者たちがそれに騙され、理解できる範囲で
あることに安心して本題から逸れていくのに気づいていない。

世の悪事はそうして実行されてきた。被害者がそれに気づいて目覚め
そうになると、力で押さえ込んできたのは歴史に明らかである。
歴史というと大げさだが一個人の人生にも家庭にもこういう事は
日常茶飯事で、考える力を放棄すれば浅く軽く事は運ばれる。

騙されないで生き抜くためには、せっかくの命をまっとうする
ためには、そして命をつなぎ、さらに命同士共に等しく一つに
なるためには、騙されてはいけない。
騙されないし騙さないために、叡智は必要なのである。

新しいものは黙っていても目の前にあるし向こうからやってくる。
しかし古き正しきものは自ら求めて探求しなければ得られない。
古今の賢人は独り、その道を歩いてきたのであるし、それをひけらかし
たりはせずひっそりとしていた。
目立ちたがりには叡智は無縁であるともいえる。

目立たぬ人を必死で求めて、探しあてたらそこに学ぶしかない。
うさこはカメから目を離さないのであるね。
カメはほんとうに隠れているので。

カメはいっとくけど、ハンサムである。
うさこはいっとくけど、めんくいである。
めんくいの定義は麺類が好きの類いでもある。
しかしパスタじゃなくて蕎麦、それも会津蕎麦が一等好きである。







コメント
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