10歳のわたくし。
一番素直だった頃、そしてまた素直を失う下り坂に足をかけた頃。
その小さなわたくしを、おぼえているのはわたし自身であった。
先生についた嘘。
ごまかしはそのままとがめを受けずに済んだ。
あれから数十年、嘘の刺がささったままである。
ときどき、その痛みが情景とともに思い出された。
唐突に、それはやってきて、からだを固くさせる。
とりかえしのつかない悲しみに打たれるわたしを嘲笑って、消えるのだった。
ある日、故郷の姉から知らせが届いた。
H先生に会いました、ご病気ではありますが‥、あなたのことばかり
憶えておいでで、わたしの話など少しも出てこなくてがっかりだったけど
あなたはとてもかわいがられていたんですね。
先生の名が時を超え、はっきりと目の前に現れ、小さな10歳の女の子に
なってしまったわたしは、滂沱の涙。
なぜ涙が出てくるのだろうか、と思ったりする歳をとった女も少しいて
涙はしばらくして止まった。
生きているとは思わなかった。
取り返しがつかないと思っていた。
あの子はとてもいい子、あの子はわたしを慕ってくれて、泣いて引き止めて
くれたのよ、と先生は言ったのだった。
年々、胸にささった刺が太くなって、悲しみも深くなっていたのは
先生がわたしを叱らなかったからだった。
叱らずに、やさしくやさしくやさしく。
わたしは先生に抱かれていたのだった。
素直だった10歳の女の子を先生は憶えていらっしゃるのだった。
「どうしているのかしら?いま‥。
なんにもしてあげられない、わたしはこんなになってしまって‥」
そうおっしゃったのよ、教師なのね、いつまでも。姉が伝えた言葉が
さらにわたしを打って、刺は輪郭を無くすほどに広がる。
もうわたし自身が刺になってしまったようで、あの教室の隅の情景が
ぼんやりとかすれていくのだった。