9日、10日の新聞に、明日香浄御原宮(あすかきよみはらのみや)、嶋庄遺跡の発掘記事が、2日連続で載っていた。
明日香浄御原宮は、壬申の乱に勝利した天武天皇、持統天皇の宮殿である。後の藤原京、平城京のような、中国の様式に習ったものではなく、日本古来の宮殿の様式だったことが、この発掘でわかった。
嶋庄遺跡は、もともとこの地にあった蘇我馬子の邸宅跡であるが、蘇我総本家が滅びた後、天皇家がこの地を接収し、天武・持統の子供である草壁皇子の邸宅(東宮御所?)などが建てられていたらしい。
いずれにしても、このあたりが、7世紀頃の日本の中心地であったわけだ。
私が、歴史を本格的に好きになったのは、この嶋庄遺跡のすぐ側にある「石舞台古墳」見たころからだと思う。
蘇我馬子の墓と言われるこの古墳は、5,6世紀の天皇の前方後円墳と比べればはるかに規模も小さく、しかも蘇我総本家が滅亡後罪人扱いされたからだろうか、盛り土がすっかり取り除かれ、玄室が剥き出しになってしまっている。
しかしながら、巨石を使ったこの剥き出しの玄室のみごとさといったらない!なぜ7世紀の日本人が、これほどのものをつくれたのだろうか。
私は、東京生まれ、東京育ちだが、入社後6年間は大阪勤務で、会社の独身寮に住んでいた。
関西の女性をデートに誘おうと思っても、あいにく自分は、あまり土地勘がない。関西のいい女は、京都とか神戸は、男に何度も連れて行ってもらっているので、自分よりはるかに良く知っている。
それならば、穴場は奈良だ。でも奈良の史跡は、京都よりも古いし、有名じゃないし、建物跡とか、何とか塚とか、はっきり形を留めていないものが多くて、知ったかぶりをするには、相応に勉強をしなければならない。
結果、奈良方面にデートに行くたびに、自然と日本古代史に詳しくなっていった。
石舞台古墳も、女の子と二人で行ったのだが、あの頃は、もう、彼女と、遺跡と、興味は半々位だったような気もする。
季節もちょうど今頃だった。ちょっとまだ肌寒いが、春の気配が感じられる明日香村。石舞台古墳の前で、二人で撮った写真、そして。。。
はるか昔の、でも、今でも心に残っている、若かりし頃の一風景ではあります。
明日香浄御原宮は、壬申の乱に勝利した天武天皇、持統天皇の宮殿である。後の藤原京、平城京のような、中国の様式に習ったものではなく、日本古来の宮殿の様式だったことが、この発掘でわかった。
嶋庄遺跡は、もともとこの地にあった蘇我馬子の邸宅跡であるが、蘇我総本家が滅びた後、天皇家がこの地を接収し、天武・持統の子供である草壁皇子の邸宅(東宮御所?)などが建てられていたらしい。
いずれにしても、このあたりが、7世紀頃の日本の中心地であったわけだ。
私が、歴史を本格的に好きになったのは、この嶋庄遺跡のすぐ側にある「石舞台古墳」見たころからだと思う。
蘇我馬子の墓と言われるこの古墳は、5,6世紀の天皇の前方後円墳と比べればはるかに規模も小さく、しかも蘇我総本家が滅亡後罪人扱いされたからだろうか、盛り土がすっかり取り除かれ、玄室が剥き出しになってしまっている。
しかしながら、巨石を使ったこの剥き出しの玄室のみごとさといったらない!なぜ7世紀の日本人が、これほどのものをつくれたのだろうか。
私は、東京生まれ、東京育ちだが、入社後6年間は大阪勤務で、会社の独身寮に住んでいた。
関西の女性をデートに誘おうと思っても、あいにく自分は、あまり土地勘がない。関西のいい女は、京都とか神戸は、男に何度も連れて行ってもらっているので、自分よりはるかに良く知っている。
それならば、穴場は奈良だ。でも奈良の史跡は、京都よりも古いし、有名じゃないし、建物跡とか、何とか塚とか、はっきり形を留めていないものが多くて、知ったかぶりをするには、相応に勉強をしなければならない。
結果、奈良方面にデートに行くたびに、自然と日本古代史に詳しくなっていった。
石舞台古墳も、女の子と二人で行ったのだが、あの頃は、もう、彼女と、遺跡と、興味は半々位だったような気もする。
季節もちょうど今頃だった。ちょっとまだ肌寒いが、春の気配が感じられる明日香村。石舞台古墳の前で、二人で撮った写真、そして。。。
はるか昔の、でも、今でも心に残っている、若かりし頃の一風景ではあります。
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