このブログでは、あまりシリアスな話はしないようにしているのですが、この事件に関してだけは、書きたくなってしまいました。
水道局員を装って住居に侵入、母を強姦して絞殺、傍らで泣く幼児までも絞殺した凶悪残忍な殺人事件だったが、犯行時18歳の少年だったということで、一審、二審とも判決は無期懲役。これを不服とした検察側は上告、最高裁は広島高裁に審議を差し戻し、高裁は今週この元少年に死刑を言い渡した。
無期懲役は終身刑ではない。一般的に20年程度で刑期を終える。
この元少年の場合は既に9年間拘置されているので、無期懲役ではあと10年程度で出所する可能性があるということになる。
果たしてそれでいいのか、娑婆に出しても大丈夫な程度に、この元少年は更生できるのか、これが今回の差戻し審のポイントだったはず。
しかるにこの少年は、「殺意はなかった」「甘えたかっただけ」「死体に暴行したのは魔界転生の復活の儀式」「幼児はどらえもんが何とかしてくれると思った。」などと、実に醜悪な猿芝居を始めた。
反省、更生の意思は皆無、極めて危険、そうとしか思いようがない。
これを聞いた10人が10人、こんな男を二度と町に放してはいけないと考えたはずで、高裁の死刑判決は、国民感情を反映した妥当な判決だったと思う。
許せないのは、この少年の弁護士団である。
この元少年の途方もないうそを黙認した。もしかしたら指南したのかもしれない。
裁判に勝つという自らの目的の達成のためには全く手段を選ばない、実に醜悪な人たちと思わざるを得ない。
かつて中央青山という大手の監査法人があったが、カネボウなどの企業の粉飾決算を黙認したということで、解散に追い込まれた。
会計監査人という正義の執行者が、雇い主の私益のために大義を曲げれば、社会的に存続できなくなる、それが今の世の中のルールである。
弁護士も法の正義の執行者のはず、このルールの例外であってはならない。
この元少年の弁護団、直ちに上告をしたそうである。
最近モンスターペアレンツということばを耳にする。
社会通念上異常ないちゃもんを学校に突きつけるこまった人たちの事であるが、このことばが使われるようになってからは、学校側の被害は減少傾向にあるそうである。
彼らのような弁護士たちは、モンスターローヤーと呼ばれるにふさわしい。
そう呼ばれることにより、自分たちの行為、行動が社会通念上異常であると言うことを悟って欲しい。
大義なきものは、社会からの退場を余儀なくされる、今の世の中はそうなっているはずである。
水道局員を装って住居に侵入、母を強姦して絞殺、傍らで泣く幼児までも絞殺した凶悪残忍な殺人事件だったが、犯行時18歳の少年だったということで、一審、二審とも判決は無期懲役。これを不服とした検察側は上告、最高裁は広島高裁に審議を差し戻し、高裁は今週この元少年に死刑を言い渡した。
無期懲役は終身刑ではない。一般的に20年程度で刑期を終える。
この元少年の場合は既に9年間拘置されているので、無期懲役ではあと10年程度で出所する可能性があるということになる。
果たしてそれでいいのか、娑婆に出しても大丈夫な程度に、この元少年は更生できるのか、これが今回の差戻し審のポイントだったはず。
しかるにこの少年は、「殺意はなかった」「甘えたかっただけ」「死体に暴行したのは魔界転生の復活の儀式」「幼児はどらえもんが何とかしてくれると思った。」などと、実に醜悪な猿芝居を始めた。
反省、更生の意思は皆無、極めて危険、そうとしか思いようがない。
これを聞いた10人が10人、こんな男を二度と町に放してはいけないと考えたはずで、高裁の死刑判決は、国民感情を反映した妥当な判決だったと思う。
許せないのは、この少年の弁護士団である。
この元少年の途方もないうそを黙認した。もしかしたら指南したのかもしれない。
裁判に勝つという自らの目的の達成のためには全く手段を選ばない、実に醜悪な人たちと思わざるを得ない。
かつて中央青山という大手の監査法人があったが、カネボウなどの企業の粉飾決算を黙認したということで、解散に追い込まれた。
会計監査人という正義の執行者が、雇い主の私益のために大義を曲げれば、社会的に存続できなくなる、それが今の世の中のルールである。
弁護士も法の正義の執行者のはず、このルールの例外であってはならない。
この元少年の弁護団、直ちに上告をしたそうである。
最近モンスターペアレンツということばを耳にする。
社会通念上異常ないちゃもんを学校に突きつけるこまった人たちの事であるが、このことばが使われるようになってからは、学校側の被害は減少傾向にあるそうである。
彼らのような弁護士たちは、モンスターローヤーと呼ばれるにふさわしい。
そう呼ばれることにより、自分たちの行為、行動が社会通念上異常であると言うことを悟って欲しい。
大義なきものは、社会からの退場を余儀なくされる、今の世の中はそうなっているはずである。
社会や、事件、世界観などに対して発言する”勇気”はもっていたいものです。
私はかつては社会的発言を書こうと志していましたが、最近は走ることに特化しようとしていますね。それでも心にひっかかったことは、時々書きます。
この件については、結果(判決)は納得、しかし弁護のあり方などについては、コメントする気になれません。被告の弁護は、誠意をもってやればやるほど、世間一般から恨まれるものでしょう。別に光事件の被告の弁護団に肩を持つ気はありませんが、どんなに非道な被告であっても弁護をしなければならない「立場」というのは、あると思うのです。その立場を十分理解できないシロウトの私には、コメントできない。
ところで、裁判員に選ばれたら、どうしよう!? 怖いです。
書かなきゃ良かったかなーなんて思ってます。
でも、ドラえもんを冒涜するのは許さん。
悠歩さん
もし弁護士さんが、この元少年の言うことが全面的に真実だと確信して弁護していたのなら、それは自身の公正さと信念に基づいているわけですから、何も言いません。
但し、元少年の言うことをうそだと感じていたなら、またはうそをつくことを指南していたとしたとしたら、この弁護団に大義はなく、やはり非難したいです。
それが職業倫理というものではないかなー。
陪審員に選ばれたら、、、覚悟を決めてやるしかないんじゃないかな。