ブラスカル

元マラソンランナーですが、今や加齢と故障でお散歩専門、ブラタモリっぽく街歩きをしています。

終戦記念日に想うこと

2010-08-15 09:20:07 | 歴史
「先の大戦」と言っても、もうピンと来なくなりました。
私自身、「アムロ・レイがジオン公国の赤い彗星シャア・アズナブルと戦った、あの戦争のことですか?」と思ってしまいます。
戦後65年、過去が歴史になりつつあります。

私が子供の頃は、大東亜戦争は紛れもなく過去でした。
上野公園には傷痍軍人の物乞いがいて、少年向けの雑誌には「ゼロ戦レッド」とか「紫電改のタカ」とか戦記漫画が連載されていました。

6年前に102歳で亡くなった私の祖父は、日中戦争(祖父は支那事変といってました)に昭和12年に出征、昭和16年に除隊、帰国の後、昭和20年に再度徴兵され国内に駐屯していました。
父は大学生として、学徒動員される先輩達を見送ったそうです。
あと5年時代がどちらかにずれていたら、今私はここにこうして存在していなかったかもしれなかったわけで、僥倖と想わざるを得ません。

祖父は軍人ではなく、召集令状で戦地へ赴かされた市井の人です。
明るくて、外交的で、酒好きな人でした。
随分と戦争の話を聞かされました。同じ話を何回となく聞いたので今でも記憶に残っています。
武勇を自慢するでもなく、悲惨さを殊更に強調するでもなく、また、戦争そのものを肯定するでも否定するでもなく、ただ非日常的な体験談として話してました。

駐屯地は北京でしたが、常州まで進出したことがあるそうです。
時系列は分かりませんが、常州といえばあの大虐殺があったとされる南京の目と鼻の先です。
祖父の性格からして、話を多少脚色している可能性はありますが、私が祖父から聞いた話は、今となっては歴史上の一級資料になりえるかもしれません。

一番多く聞いたのが、鉄砲の弾が胸をかすった話。
トラックの荷台で伸びをしたら弾が胸を掠めた、あの時伸びをしなかったらおそらく死んでいたという話。
確かに祖父の胸には鉄砲の弾が胸を掠ったような傷跡がありました。

捕虜を逃がして殴られた話。
占領地でも抗日戦線が後ろから弾を撃ってくるような状態があったようで、基地にはゲリラ容疑の捕虜がたくさんいたそうです。
そのうち一人を連行中に、いきなり体当たりを食らわされて逃げ出された。
鉄砲を構えたが、直感的にあの人はゲリラではないと思ったのでどうしても引き金を引けず、その日は顔の形が変わるくらい上官から殴られたそうです。

現地の子供に飴玉を上げると、大層喜こばれたという話。
父が、祖父が手紙に書いてきたので、飴玉をたくさん慰問袋に入れて送ったと言っていたので本当の話だと思います。

軍刀の話。
帰国するときに、ある下士官から「自分は職業軍人なので生きて日本に戻れないだろう。この刀は鎌倉時代の由緒あるものなので、刀だけでも日本に帰らせてやりたい。」と託されたそうで、その刀は、ぼろぼろに錆びて実家にあります。
父は、「あれはオヤジが欲しくてその人から買ったんじゃないの。」って言ってましたが。

大学生くらいの時でしょうか、一度だけ従軍慰安所の話を聞いたことがあります。
当時は「従軍慰安所」という言葉はなかったのでしょう、祖父は「ピー屋」といっていましたが、単に「売春宿」の俗語のようです。
今でも低開発国へ行けばありそうな売春宿といった風情、祖父によれば、店の女性は日本人と韓国人、安くはなかったそうです。
当時の自分は情緒的な反戦主義者だったっと思いますが、祖父に対する非難めいた気持は沸いてきませんでした。
「赤紙一枚で日常を奪われ異国の地で明日死ぬかもしれない生活を強いられている時に、目の前に売春宿があれば、そりゃ行っちゃうよな。」と思いました。

今日は、お彼岸で終戦記念日、祖父の墓、千鳥が淵の戦没者慰霊碑、靖国神社に手を合わせてこようと思います。
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