靖国神社の最寄り駅、九段下は神保町から東京メトロ半蔵門線に乗って一駅である。
この二つの駅間は営業キロで0.4kmしかなく、徒歩で移動することにした。
靖国通りは日本武道館でコンサートを見た帰りに御茶ノ水まで歩いたことは何度かあった。
しかしそれ以外はほとんど行ったことが無く、見知らぬ風景である。
途中に九段会館や昭和館などがあり、程なく日本武道館の“玉葱”が見えてくる。
靖国神社に行く前に、田安門から北の丸公園に行ってみることにする。

木々はすっかり秋色に染まっている。
お堀に架かる橋を渡ると田安門で、そこを抜けると日本武道館が見えてくる。

この日はコブクロがコンサートをやるようで、既に午前中から警備員がうろうろしていた。
駐車場には機材や大道具を運んできたと見られるトラックが何台も停まっている。
既にファンと思われる女性が前で記念写真を撮っていたりする。
パトカーも巡回していた。
再び靖国通りに戻り、子爵品川彌二郎卿像を一瞥してから歩道橋を渡り、
靖国神社の正面に至る。
第一鳥居と云われる大鳥居の右側には社号標がある。

ここを潜ると正面に大村益次郎銅像が建っている。
説明板には以下のように書かれている。
大村益次郎は大村益次郎は文政七年(一八二四)、
周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。
広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、
嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。
さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、
幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。
ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、
石州口の戦いを指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。
戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。
ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、
京都出張中の明治二年(一八六九)九月、不満士族に襲われて重傷を被り、
同年一一月五日大阪にて歿した。四六歳。
明治二年六月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、
社地選定のため同月一二日、この地を視察したことも記録に見え、
靖國神社創建者としての功績は大きく、明治一五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、
宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
大熊氏廣は明治九年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、
イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、同15年に首席で卒業する。
卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治一八年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、
この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。
パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、
さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。
大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。
大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。
陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、
上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。
後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、
文部省美術展覧会審査委員を務めた。
第一鳥居から第二鳥居までの間では、フリーマーケットが行われていた。
どうも靖国神社とフリーマーケットというのが結びつかない。
道路を挟んでその先に第二鳥居がある。

第二鳥居を潜ると大手水舎が左にあり、正面に神門がある。
神門には菊花の紋章がつけられている。
神門の先には桜の木が植えられており、その先に中門鳥居がある。

ここに植えられている桜の木は、東京の開花宣言に使われる標準木である。
中門鳥居の先に拝殿があるが、ここから先には立ち入らなかった。
公式参拝も私的参拝もしなかったのである。
神門を潜って右に能楽堂があり、その奥に“遊就館”という展示施設がある。
靖国神社が集めた遺品や史資料を収蔵しているものである。

拝観料は大人800円だが、玄関ホールまでは無料である。
玄関ホールにはC56型31号機や零式艦上戦闘機などが展示されていた。

蒸気機関車C56型31号機は大東亜戦争当時にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道にに使用された機関車で、
戦後タイの国鉄で使用されていたものである。
泰緬鉄道の関係者が拠金してタイの国鉄から譲り受け、靖国神社に奉納されたものである。
解説には以下のように書かれていた。
泰緬鉄道C56型31号機関車
この機関車は昭和十一年日本車両で製造され、
石川県七尾機関区を走行していた機関車である。
大東亜戦争において九十両が南方に徴用されたが、
タイで活躍し、この三十一号機は、
泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。
戦後は、タイ国有鉄道で使用され、
昭和五十二年に引退することになったが、
泰緬鉄道建設に関係した南方軍野戦鉄道連隊関係者が
拠金してタイ国有鉄道から譲り受け、
昭和五十四(一九七九)年、靖國神社に奉納された。

零式艦上戦闘機はその名の通り、空母に搭載して戦地へ赴く戦闘機で、
一般的には「零戦」の愛称で親しまれている旧日本軍の戦闘機である。
解説には以下のように書かれていた。
三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)
昭和十五年すなわち紀元二六〇〇年に正式採用された
「零式艦上戦闘機一一型」は、「ゼロ戦」の愛称で親しまれる。
初陣は昭和一五年九月。
中国、重慶においてソ連製中国軍機との空中戦で、敵の大半を撃墜。
見方に損害なしという空前の戦果をあげ、
その格闘性能と航続力で世界最強を誇った。
ここに展示されている五二型は、
初期型より主翼の両端を短く円形に整形されている。
そして発動機の栄二一型エンジンに、
推力式短排気管を採用して速度がかなり向上し、
零式戦闘機の中では最も多く生産された。
ここを出てから能楽堂などを見学し、靖國神社をあとにした。
そのまま徒歩で神保町まで戻る。
ここから御茶ノ水を目指すわけだが、その前に「キッチン南海」で昼食を取る。
ここは以前から何度も訪れている洋食店である。
この二つの駅間は営業キロで0.4kmしかなく、徒歩で移動することにした。
靖国通りは日本武道館でコンサートを見た帰りに御茶ノ水まで歩いたことは何度かあった。
しかしそれ以外はほとんど行ったことが無く、見知らぬ風景である。
途中に九段会館や昭和館などがあり、程なく日本武道館の“玉葱”が見えてくる。
靖国神社に行く前に、田安門から北の丸公園に行ってみることにする。

木々はすっかり秋色に染まっている。
お堀に架かる橋を渡ると田安門で、そこを抜けると日本武道館が見えてくる。

この日はコブクロがコンサートをやるようで、既に午前中から警備員がうろうろしていた。
駐車場には機材や大道具を運んできたと見られるトラックが何台も停まっている。
既にファンと思われる女性が前で記念写真を撮っていたりする。
パトカーも巡回していた。
再び靖国通りに戻り、子爵品川彌二郎卿像を一瞥してから歩道橋を渡り、
靖国神社の正面に至る。
第一鳥居と云われる大鳥居の右側には社号標がある。

ここを潜ると正面に大村益次郎銅像が建っている。
説明板には以下のように書かれている。
大村益次郎は大村益次郎は文政七年(一八二四)、
周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。
広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、
嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。
さらに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、
幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。
ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応二年、第二次長州征伐の折に、
石州口の戦いを指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。
戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。
ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、
京都出張中の明治二年(一八六九)九月、不満士族に襲われて重傷を被り、
同年一一月五日大阪にて歿した。四六歳。
明治二年六月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、
社地選定のため同月一二日、この地を視察したことも記録に見え、
靖國神社創建者としての功績は大きく、明治一五年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、
宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。
大熊氏廣は明治九年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、
イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、同15年に首席で卒業する。
卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治一八年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、
この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。
パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、
さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。
大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。
大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。
陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、
上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。
後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、
文部省美術展覧会審査委員を務めた。
第一鳥居から第二鳥居までの間では、フリーマーケットが行われていた。
どうも靖国神社とフリーマーケットというのが結びつかない。
道路を挟んでその先に第二鳥居がある。

第二鳥居を潜ると大手水舎が左にあり、正面に神門がある。
神門には菊花の紋章がつけられている。
神門の先には桜の木が植えられており、その先に中門鳥居がある。

ここに植えられている桜の木は、東京の開花宣言に使われる標準木である。
中門鳥居の先に拝殿があるが、ここから先には立ち入らなかった。
公式参拝も私的参拝もしなかったのである。
神門を潜って右に能楽堂があり、その奥に“遊就館”という展示施設がある。
靖国神社が集めた遺品や史資料を収蔵しているものである。

拝観料は大人800円だが、玄関ホールまでは無料である。
玄関ホールにはC56型31号機や零式艦上戦闘機などが展示されていた。

蒸気機関車C56型31号機は大東亜戦争当時にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道にに使用された機関車で、
戦後タイの国鉄で使用されていたものである。
泰緬鉄道の関係者が拠金してタイの国鉄から譲り受け、靖国神社に奉納されたものである。
解説には以下のように書かれていた。
泰緬鉄道C56型31号機関車
この機関車は昭和十一年日本車両で製造され、
石川県七尾機関区を走行していた機関車である。
大東亜戦争において九十両が南方に徴用されたが、
タイで活躍し、この三十一号機は、
泰緬鉄道の開通式に参加した機関車である。
戦後は、タイ国有鉄道で使用され、
昭和五十二年に引退することになったが、
泰緬鉄道建設に関係した南方軍野戦鉄道連隊関係者が
拠金してタイ国有鉄道から譲り受け、
昭和五十四(一九七九)年、靖國神社に奉納された。

零式艦上戦闘機はその名の通り、空母に搭載して戦地へ赴く戦闘機で、
一般的には「零戦」の愛称で親しまれている旧日本軍の戦闘機である。
解説には以下のように書かれていた。
三菱零式艦上戦闘機五二型(A6M5)
昭和十五年すなわち紀元二六〇〇年に正式採用された
「零式艦上戦闘機一一型」は、「ゼロ戦」の愛称で親しまれる。
初陣は昭和一五年九月。
中国、重慶においてソ連製中国軍機との空中戦で、敵の大半を撃墜。
見方に損害なしという空前の戦果をあげ、
その格闘性能と航続力で世界最強を誇った。
ここに展示されている五二型は、
初期型より主翼の両端を短く円形に整形されている。
そして発動機の栄二一型エンジンに、
推力式短排気管を採用して速度がかなり向上し、
零式戦闘機の中では最も多く生産された。
ここを出てから能楽堂などを見学し、靖國神社をあとにした。
そのまま徒歩で神保町まで戻る。
ここから御茶ノ水を目指すわけだが、その前に「キッチン南海」で昼食を取る。
ここは以前から何度も訪れている洋食店である。