7.福島交通飯坂線の往復と磐越東線の旅
JR福島駅は単式1面1線と島式2面4線、更に5番線を切り欠いた6番線があり、
さらに新幹線が島式2面4線の高架ホームを有する。
阿武隈急行と福島交通飯坂線は東口側の1番線単式ホームの東側に島式の共有ホームを設置、
西側を阿武隈急行線、東側を福島交通飯坂線がそれぞれ使用、改札を共有する。
さらにJRとの間には連絡通路があり、簡易Suica改札機も設置されている。
阿武隈急行線は東北本線と直通するために交流電化されているが、
福島交通飯坂線は直流電化されているため、ホームを共有しているだけで線路が交わることはない。
11:43に阿武隈急行の8100系2両編成が到着すると、
隣には既に11:45発の福島交通飯坂線7000系2両編成が停車していた。
福島交通7000系は元東急7000系で、中間車両に運転台を設置したため、
かなりのっぺりした印象を与える。
それでも東急は子会社に車両メーカーを有しているためか、
元東急の車両が地方の鉄道で第二の人生を送っていることが多く、
のっぺりした中間車両の制御車化も慣れたものである。
隣の車両に飛び乗り、そのまま飯坂温泉までの23分の旅を楽しむ。
飯坂温泉駅は頭端式2面1線の地上ホームで、乗車ホームと降車ホームが分けられている。
駅前の十綱橋からは高低差があり、改札を出て階段を昇ったところに駅舎がある。
駅前には松尾芭蕉の銅像と十綱橋の由来が設置されている。
十綱橋の由来には以下のように書かれている。
十網橋由来
みちのくの とつなの橋に くる綱の
絶すも人に いひわたるかな 千載集
平安の頃、この地に藤じるで編んだ吊り橋がかけられていた。
文治五年(一一八九年)大鳥城主佐藤元治は、
義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、
この橋を自らの手で切り落とし、 石那坂の合戦に赴いた。
その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、
摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。
明治六年(一八三七年)盲人伊達一、
天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ、
「摺上橋」と命名されたが一年ほどして倒壊、
同八年に宮中吹上御苑の吊り橋を模して十本の鉄線で支えられた
吊橋が架けられ「十網橋」と名づけられた。
大正四年(一九一五年)橋の老朽化に伴い、
当時としては珍しい現在の十網橋が完成された。
昭和四十年(一九六五年)に大補修が加えられ、
飯坂温泉のシンボル的存在になっている。
飯坂の はりかね橋に 雫する
あづまの山の 水色のかぜ 与謝野晶子
27分の乗り換え時間で上り列車に乗り換え、また23分かけて福島まで戻る。
福島到着は12:58だったが、既に13:30発の郡山行きが停車していた。
この列車で49分かけて郡山まで南下する。
疲れからか列車の中で爆睡し、駅員に起こされて慌てて下車した。
郡山に到着した時には14:19となっており、ここで昼食を取ることにする。
雨を想定して予定変更したが、もともとの予定では槻木で昼食を取ることになっており、
夜中に予定を変更したために郡山で訪問すべき店までは調べ切れていなかった。
そこで東口から辺りを散策し、「麺家くさび」で野菜元気盛り味噌豚骨麺918円喰う。
郡山駅まで戻って15:11始発の磐越東線に乗り込む。
磐越東線は郡山といわきを結ぶ非電化路線で、キハ110系が充当されていた。
2両編成のキハ110系で1時間31分の旅となり、
16:42に漸くいわきまで到着する。
JR福島駅は単式1面1線と島式2面4線、更に5番線を切り欠いた6番線があり、
さらに新幹線が島式2面4線の高架ホームを有する。
阿武隈急行と福島交通飯坂線は東口側の1番線単式ホームの東側に島式の共有ホームを設置、
西側を阿武隈急行線、東側を福島交通飯坂線がそれぞれ使用、改札を共有する。
さらにJRとの間には連絡通路があり、簡易Suica改札機も設置されている。
阿武隈急行線は東北本線と直通するために交流電化されているが、
福島交通飯坂線は直流電化されているため、ホームを共有しているだけで線路が交わることはない。
11:43に阿武隈急行の8100系2両編成が到着すると、
隣には既に11:45発の福島交通飯坂線7000系2両編成が停車していた。
福島交通7000系は元東急7000系で、中間車両に運転台を設置したため、
かなりのっぺりした印象を与える。
それでも東急は子会社に車両メーカーを有しているためか、
元東急の車両が地方の鉄道で第二の人生を送っていることが多く、
のっぺりした中間車両の制御車化も慣れたものである。
隣の車両に飛び乗り、そのまま飯坂温泉までの23分の旅を楽しむ。
飯坂温泉駅は頭端式2面1線の地上ホームで、乗車ホームと降車ホームが分けられている。
駅前の十綱橋からは高低差があり、改札を出て階段を昇ったところに駅舎がある。
駅前には松尾芭蕉の銅像と十綱橋の由来が設置されている。
十綱橋の由来には以下のように書かれている。
十網橋由来
みちのくの とつなの橋に くる綱の
絶すも人に いひわたるかな 千載集
平安の頃、この地に藤じるで編んだ吊り橋がかけられていた。
文治五年(一一八九年)大鳥城主佐藤元治は、
義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、
この橋を自らの手で切り落とし、 石那坂の合戦に赴いた。
その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、
摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。
明治六年(一八三七年)盲人伊達一、
天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ、
「摺上橋」と命名されたが一年ほどして倒壊、
同八年に宮中吹上御苑の吊り橋を模して十本の鉄線で支えられた
吊橋が架けられ「十網橋」と名づけられた。
大正四年(一九一五年)橋の老朽化に伴い、
当時としては珍しい現在の十網橋が完成された。
昭和四十年(一九六五年)に大補修が加えられ、
飯坂温泉のシンボル的存在になっている。
飯坂の はりかね橋に 雫する
あづまの山の 水色のかぜ 与謝野晶子
27分の乗り換え時間で上り列車に乗り換え、また23分かけて福島まで戻る。
福島到着は12:58だったが、既に13:30発の郡山行きが停車していた。
この列車で49分かけて郡山まで南下する。
疲れからか列車の中で爆睡し、駅員に起こされて慌てて下車した。
郡山に到着した時には14:19となっており、ここで昼食を取ることにする。
雨を想定して予定変更したが、もともとの予定では槻木で昼食を取ることになっており、
夜中に予定を変更したために郡山で訪問すべき店までは調べ切れていなかった。
そこで東口から辺りを散策し、「麺家くさび」で野菜元気盛り味噌豚骨麺918円喰う。
郡山駅まで戻って15:11始発の磐越東線に乗り込む。
磐越東線は郡山といわきを結ぶ非電化路線で、キハ110系が充当されていた。
2両編成のキハ110系で1時間31分の旅となり、
16:42に漸くいわきまで到着する。