rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

不撓不屈の友愛が世界を救う「ナルト」

2015-02-05 23:22:44 | 本たち
「ナルト」が、15年をかけた全72巻が完結した。
戦を請け負うことを生業とする戦闘集団の忍者の苦悩、殺し合いが生む憎しみという負の連鎖、人としての存在意義と他者と係わり合うことの懊悩、孤独の恐怖と危険性など、普遍的テーマがナルトには描かれて、それも人をひきつける大きな要素だ。
主人公ナルトのライバルうちはサスケは、負の連鎖に囚われている世界の擬人化ともいえる存在。
平和の中にあったちょっとした愛の渇望が核となり、次々と襲い掛かる不幸によって猜疑と憎悪がまとわりついて大きく成長し、救いの言葉も差し伸べられる手も阻んで何者をも寄せ付けない冷たく冷え切った魂となった。
その魂を解きほぐすのは、絶望的なほどに困難を極める。
無上の愛の権化でもない限りまず無理だ。
しかしナルトは、ついにサスケを底なしの闇から救い出し、負の連鎖を断ち切ること成し遂げた。
いや、ナルトが最初から愛の化身であったわけではない。
自分を信じる気持ちと諦めない心、向けられた人のやさしさに気がつき心を開くことができたから、闇に足元をすくわれなかったのだ。
二人の始まりは似通っていても、その受け取るものと進む道は大きく違えてしまった。
光と闇は表裏一体、ナルトとサスケがそうであるならば、実際のところ闇を追い払うことはできなく、闇に呑まれないようにするしかない。
そして救う方は、救われる方の何倍も大きな忍耐と大きな愛を持たなければならないとは、なんと途方もないことか。
ナルトはとりあえずハッピーエンドではあったけれど、現実の世界はいっそう闇に引き寄せられつつあるようで、つい遠い目をしてしまった。
誰の心にも居るはずのナルトとサスケの葛藤は、いまやサスケが優勢のように思えてならない。

レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」

2014-11-30 22:34:14 | 本たち
久々に本を読んだ。
厚さ4センチはあろうかというレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」、買ってしばらく積んでおいた本だ。
読みだして10行ほどでもうこの作品が並みのものではないことを期待させる力を発揮し始めた。
とはいえ、そうそう読書に時間をかけていられない状態で、4~5ページ読み進められるかどうかの日が続いた。
そのうちに雨の日が多くなり、しかも学校が休みの日ともなればなるべく子供の傍に居るようにしているので、本を手に取る機会も増えて一気に読むスピードはアップする。
ページを繰るごとにチャンドラーの作った世界に引き込まれていく。
自分があたかも1950年代アメリカのラスベガス、荒野の徒花にいて、事の成り行きを目撃しているような感覚を持つ。
目も眩むような上流階級の隔絶された別世界、排気ガスと酒や排泄物の入り混じった饐えた臭いが立ち込めるダウンタウン地を這うように生きる人々、アメリカのいや人の集まるところに必ず起こる腐敗した構造。
人は生きながらに腐って死んでゆくのをとめられない。
砂粒ほどの期待を持ち合わせてはいないのに、自らの理念に基づいてロマンを追い求める主人公に、安息のときはやってこない。
彼のロマンと理念は、違う立場から見ればただの傲慢かもしれない。
しかし、実際のところ人は理解しあうことはできないし、埋めがたい溝を不断の努力で縮めるしかないのだ。
現実は過酷だ。
ネバダの砂漠、荒野のように、何者も寄せ付けず、うたかたの夢を見て徒花を咲かすのが関の山だろう。
物事の終わりには、前にも後ろにもただただ何もありはしない。
人の死すら、風塵となって消えてしまう。
それでも、どこか絶望だけでは終わらない人のたくましさが、図太さといっていいかもしれないが、全編に一本の糸となって通っている。
これがなかったならやわなハードボイルド小説で、魅力は激減したと思うのだ。
ともかくも、二度三度読み返してみようと思える作品であることは間違いない。

澁澤龍彦「滞欧日記」、そうでしょやっぱりロッホナー

2014-09-26 23:10:37 | 本たち
周知のことだが、テレビがあまりにつまらないので、たった10分ほど近くにあった本を手に取り読んだ。
澁澤龍彦「滞欧日記」、しばらく前に読んだから、細部は忘れてしまっている。
文庫版の43頁、シュテファン・ロッホナーを「北欧における天使の画家」と讃えていた。
そうそう、そうでしょ、やっぱりロッホナーはいいでしょう。
ああ、ミュンヘンのアルテナ・ピナコテークに行きたい。
生ロッホナーに会いたい。
重厚な室内に当たり前のように収まっている、ロッホナーを見たい。
無性に美術館巡りがしたくなる。
日常を忘れ、美と幻想だけに埋没したくなる、そんな本だ。

当ブログ「おとぎの世界へ、シュテファン・ロッホナー」をご覧あれ。

余韻が醸成する幸福な絶望、タブッキ「島とクジラと女をめぐる断片」

2014-02-23 23:31:31 | 本たち
アントニオ・タブッキの小品集。
舞台は、ポルトガルから遥か1000キロメートル東の大西洋に浮かぶポルトガル領アソーレス諸島。
かつては遠洋漁業や捕鯨の基地として使われていた。
今は美しい海と温暖な気候で保養地として人気があるという。
この島々と海とそれらに流れてきた時間を、クジラが繫ぐ。
クジラは、人と時間を合体させた象徴でもある。
深い愛と悲しみに満ちた海を彷徨うクジラ。
この本は、じっくりと時間をかけ、噛み締めるように味わい読むべきもの。
少し読んでは本を閉じ、目を閉じて心にしみ込ませる。
すると次第に透明で深い青が、私を包む。
一人大海原を行く私は、長く長く咆哮する。
当て所ない旅のもたらす孤独の声。
受け取る者のないメッセージ。
私の海は、まだ広がり続け深くなっていく。
絶海の孤島とも思えるアソーレス諸島そのものが、彷徨うクジラ、人生をあらわしているような気がしてならない。
そして読み終えたとき、言いようのない幸福が、絶望となるのだ。
結局のところ、刹那しか人は捉えて生きられないのだろうか。
まるで、愛の交歓が、生と死を併せ持つのに似ているように。
だがまだ、この本の余韻は私の中で醸成され続けている。






閉ざされた世界、逆説的な、ジャン・コクトー「恐るべき子供たち」

2014-02-11 00:46:15 | 本たち
誰しも憧れたことがあるはずだ、大人が介入しない子供だけの世界を。
大人の振りかざす常識に縛られることなく、奇想天外自由奔放で自分達が作るルールに則った空間を夢見たことがあるだろう。
物置や押入れ、庭の片隅などに作る秘密基地が、子供にとっての独立国。
そこには、おもちゃやマンガに秘密の本とラジオ、食料となるお菓子やジュースは欠かせない。
日常からの離脱だ。
そのとき自分はレジスタンだったり、密命を帯びた忍者、正体を伏せているヒーローなど、なりきるものは無数にある。
一人でも、友だちが加わって複数ならバリエーションが増えるというもの。
「20世紀少年」の空き地で繰り広げられる少年たちのあの様子を思い出していただければ具体的か。
あと必要不可欠な装置は、宝物箱、あるいはタイムカプセルだ。
当事者にしか価値のわからない、よそ者にはガラクタとしか思えないものが選ばれた品々なのだ。
この神聖な空間と宝物は、成長と共に子供のいる世界に侵入した日常によって忘れ去られ、子供たちは大人の領域に足を踏み出すことになる。
時々ふと過ぎる子供の頃を懐かしむ気持ちによって、かつてそれらが世界の中心だったことを思い出す。
しかし、「恐るべき子供たち」のポールとエリザベートは、頑なに子供の世界に閉じこもる。
何者も彼らの世界に踏み込むことは叶わない。
せいぜいぎりぎり境界を踏むことしかできず、彼らの顔を外に向けるのだ精一杯だ。
よしんば、片方が外界へと踏み出そうとするならば、もう一方が均衡の乱れを感じ阻止しようと他を排除する行動を起こす。
やがて双子星のような二人は、互いの強い引力で衝突し消滅への運命を辿るのだ。
目に見えない硬質の結晶が膜となって、彼らを包み込み閉じ込めているように思えた。
子供の世界と大人の世界は、相反するかのように見えるが、実はそうでないかもしれない。
価値の基準は違っても、他との違いを受け入れず排除するという心の作用は変わっていないのではないか。
偏見嫉妬、子供だから純粋、大人は欺瞞など、簡単に言い切れないと感じている。
「恐るべき子供たち」は、逆説的な物語として私には捉えられたのだった。