rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

後悔したこと

2011-09-29 22:53:24 | つぶやき&ぼやき
今日、古い知人から電話をもらった。
8月の末に出した葉書の返事かとおもって、話をしていた。
すると、手紙では言えない知らせがあるとのこと。
その方のご主人がお亡くなりになった、知らせだった。
そのご主人にもずいぶんとお世話になり、親しくさせていただいた。
確かに、年齢的には天寿をまっとうされたのだが、しばらく会わなかったことが悔やまれてならない。
ときおり、遊びに行こうかと思いつつ、元気にしているみたいだから大丈夫などと、つい行きそびれていた。
頭の隅では、明日の保証など何処にもないと思っていながら。
今となってはその人に、お線香を手向けることしか出来ないのだ。
だから、すこし予定をやりくりして会える人がいるならば、会いに行こう。
そして、何気ない話をしながら、互いの健在を祝おう。
生きていられることのありがたさを、分かち合おう。
こういう後悔は、とても寂しく、胸が締め付けられるのだった。
その方のご冥福を祈るとともに、奥様にお会いして懐かしい話を語りつくそうと思う。

地中海的軽快な色彩、ニコラ・ド・スタール

2011-09-28 00:00:37 | アート
 コンサート

屋根たち

ニコラ・ド・スタールは、ロシアの亡命貴族の子息。
南仏に流れ着いて描く絵は、地中海の明朗軽快な色彩に彩られている。
だから、描いた画家がロシア人とは思いもよらない。
同じロシアの亡命作家に、ポリアコフやシャガールがいる。
フランスに移り住むと、彼らは明るい色彩の虜となるみたいだ。
あたかも、土地の力を身に受けて育つ樹木のよう。
そして、画家は、絵筆を持ったシャーマンになるのかもしれない。
大地に両足をしっかりと踏み込み、そのエネルギーを召喚して、キャンバスに塗りこめる。
この時、色彩は、その魔力を存分に発揮して、画面に命を吹き込んだ。
ド・スタールは、繊細な青いシャーマンとなり、土地の息吹を画面にしるした。
彼の絵がにおわせる線の細い儚い香りは、ある物悲しさを観る者の心に染み入らせる。
そう、地中海の海の色の蒼さが、明るさの中に冥府の冷たさを隠しているように。
吸い込まれそうな海に感じてしまう、やりきれない哀しみを。

幼心に自立した女性への憧れ、バーブラ・ストライザンド

2011-09-27 15:17:45 | 音楽たちーいろいろ
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小学生の頃だったか、学校のない昼下がり、TVで洋画を流していた。
そのときに観た映画の中に、バーブラ・ストライザンド主演の「追憶」「スター誕生」があった。
女優としての彼女も好きだが、歌手としてもかなり好きだ。
女性らしいしなやかで伸びやかな歌声が、内面の芯の強さとうまく調和して、甘すぎない歌になっているから。
いわゆる美女の基準にはないけれど、凛とした美しさで輝いている姿は、子供心に理想の女性像と憧れを抱いた。
今また、彼女の歌声に癒されている。
そして、また彼女の映画を観たくなる涼しい午後のひととき。

人生の喜びより悲哀とともにある音楽、カズオ・イシグロ”夜想曲集”

2011-09-26 00:34:49 | 本たち
”日の名残り”の作者カズオ・イシグロの短編集”夜想曲集ー音楽と夕暮れをめぐる五つの物語”を読んだ。
どの物語もほろ苦い、音楽と人生の関係を描いている。
ある程度の経験を積んできた者なら、少なくとも1つや2つ思い出の音楽があるだろう。
その音楽を聴くたびに、または思い出を蘇らすたびに、必ず対になる関係を持ったものだ。
人は、音楽に慰められ、思い出のBGMとして彩を与えてもらう。

ところで、受身である聴衆ではなく、音楽を作りまたは演奏する音楽家は、音楽とどういう関係を持っているのだろうか。
自分は、作曲家でも演奏者でもないが、音楽を志すものが全てそれに携わって生きていけるとは、もちろん思わない。
芸術一般にいえることだが、それはかなり難しいことなのだ。
特に現在において、かえって状況は厳しさを増しているように見える。
スタジオミュージシャンや生バンドとして、音楽に携わりながら生計を立てていけた時代は、過去のこと。
夜の世界では、カラオケが席巻して生バンドの座を奪った。
レコーディング技術や、配信技術の多様化で、手軽に音楽を楽しめるようになり、オーケストラやバンドの出番が失われた。
これらは、音楽は民衆の下へ身近になる手段を与えた。
また、音楽分野におけるコンピューターの進出はめざましく、もはや人の手で楽器をかき鳴らさなくても済むようになり、誰もが作曲家に名乗りを上げやすくなった。
これは、音楽を作るうえで、特別に技術を習得した限られた人の占有から、愛好者への参加を容易にしたメリットもある。
しかし、一流の音楽家になれずとも、音楽で生きていける手段が極端に減り、夢見る人の絶対数が減少する
、実に寂しい、そして文化的損失と思うのだ。
受身の聴衆にしても、目の前で人の奏でられる音楽の迫力と魅力を体験しにくい、潤いのない世界になる。
なんというか、誤魔化しのない一期一会の気迫と、本物に触れる感動を。

話は変わるが、”オーケストラ!”Le Concert という映画を観た。
ソビエト時代にあって、国家の意向にそむいたかどで音楽を剥奪された不遇のオーケストラ団員とその指揮者の物語。
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲第7番が、全般を通して絡んでくる。
悪夢の日から30年を経て、不遇の元オーケストラに、その音楽が奇跡を呼び起こす。
演奏者にとって、音楽はただならない力を持っている。
生活に追われ、世俗の垢にまみれ、人生に疲れていようとも、音楽の魔法は顕在なのだ。

単純な臨場感を求めるだけではない、人の感情と存在の重みが伝わってくる、演奏者による音楽の復活を、民衆に身近な音楽とのふれあいを望む。
血の通った、生の音楽の復権。
本当の豊かさを、心の豊かさをもって、人生を豊かに生きてゆけたなら、どんなに素晴しいことだろう。
誰しもが、必ずあるだろう思い出に深く結ばれた音楽が、より精彩を放つように。

食べることの意義、コンビニの功罪

2011-09-25 00:06:19 | つぶやき&ぼやき
昨日、部活に持っていくお弁当のことで、家人が大いに怒っていた。
我が家では、お弁当をいわゆる”買い弁”で済ませることは、まずしない。
しかし、”買い弁”がほぼ占める部活のお弁当事情、家で作ったお弁当を持っていくのに抵抗を感じる中くらいの人は、自分も”買い弁”にしたいと訴えていた。
少しは、彼の気持ちを酌まないと気の毒と思い、ときどきはいいことにした。
そんな折、家人が気を利かせていわゆるコンビニのパンを買ってきた。
中くらいの人が帰ってきて、そのパンのことを知ると、自分の好きなものを選びたかったと不満をもらす。
すると、特に食べ物のことになるとがぜん厳しくなる家人は、烈火のごとく中ぐらいの人を怒り始めた。
もちろん、人の厚意を思いやらないこともあるが、もともと”買い弁”に懐疑的な家人の地雷を踏んでしまったことにある。

”買い弁”を全否定するわけではない。
どうしてもお弁当を作ることが難しいときなどは、臨機応変に”買い弁”をしても構わない。
でも、基本は親の作った”お弁当”が、好ましいのだ。
お金を出せば簡単に手に入れられる”買い弁”では、”食”の重みが違う。
それは、作っている姿を目にすることで、人の労と愛情を直接感じる為に。
店に陳列されている商品からは、人の労と愛情が伝わらなく、”食べ物”に対するありがたみも薄れてしまう。
それは、親も子供もどちらにも言えること。
たとえおにぎりだけでも、親握ったおにぎりを持たせ、子はそれを食べる、大切な流れではないか。

手軽にすぐ買えてしまうコンビニのお弁当にパン、便利すぎる落とし穴のように見えてしまう。
効率や合理性をとれば、コンビニの食べ物という選択肢はある。
だが、それで失うもののほうが、大きいように思えてしまう。
家族だけではなく、単身者においても、「食べること」が、空腹を満たすためだけの作業にすりかわる危険性だ。
家族で食事ならば、皆で顔をあわせ、同じ食べ物を食べて共有する、会話や時間だけではないもろもろのことがある。
食事を作ってくれた人の姿があり、家庭ごとの味という個人の原初的深い記憶を形成し、所属意識をもたせ、精神の安定をもたらすだろう。
単身者ならば、自分で食事を作ることにより、生きていく土台を地固めしながら、健康管理も考え、食べ物の奥の深さ、ありがたさを感じ取れるだろう。
毎度のように、手軽に”買い弁”をしていては、食べることの大切さや楽しみを忘れてしまいかねないのではないだろうか。

コンビニの”買い弁”をめぐって巻き起こった騒動、”食”の意識から意義ばかりではなく、社会の、特に資本主義の病理まで見え隠れしている。
食べなくては生きられない、生き物である人間なのだから、食べ物への軽薄な気風は恥ずべきこと。
そして、たまたま幸運にも明日への命を繫ぐ糧に、不自由しないこの状態が、決して当たり前などと思わないように、気持ちを改めなくてはいけない。
食品廃棄物などと、大きな顔してその言葉がまかり通る世の中が、富の象徴と愚かな考えは捨て去ろうではないか。
日本にあるコンビニの陳列棚にある食べ物が、今も消費期限を過ぎようとしている只中にあって。