緑がまだ若さを残すそぼ降る雨の日に、ジョゼフ・コーネルの展覧会へ行った。
DIC川村記念美術館は、今回で二度目。
ここのコレクションは、なかなかに充実し、くわえて美術館の空間も余裕があり美しく、展覧会を見終わった後の気持ちのほてりを静めるにお誂えな散策できる広大な庭もまた好ましい。
何より、大好きなマーク・ロスコの作品で満たされたロスコの部屋が、私にとっての神聖な場所なのだ。
そして、これらの美で高揚した気持ちを持ちながら、今回のお目当てジョセフ・コーネルの空間へと足を踏み入れた。
始めに迎え入れてくれたのは、小品ながらいかにもコーネルらしい懐古趣味の漂う版画と思しき作品群だった。
版画など作っていたのだろうかと目を近づけてよく見ると、実に丁寧に切り抜かれた印刷物を張り合わせたコラージュ作品だ。
なんともちまちまと根気の要る作業で、しかもしわにならないよう注意深く貼り付け、合成した痕跡を消すかのような念の入るようだ。
まるで生きているかのような完全さを留める蝶の標本を、見ている気分になる。
それから順を追って進んでいくと、これぞコーネルといったボックスアートが、白く広い空間に行儀よく佇んで待ち受けていた。
これらの作品は、正面だけを見るものではない。
360度ぐるりと箱の側面裏までも、その細部への並々ならぬこだわりを堪能しなくてはならない。
この箱は、コーネルの好きなもので作り上げられた、彼の思考の箱庭とも言うべきもので、失われたすばらしき世界へのオマージュに満ちている。
少年の日々、星空を眺めて夢想したこと、南国異国への憧れ、無垢な少女への思慕、文字で表現しないマルセル・プルーストのように。
彼は、マルセル・デュシャン、マン・レイ、アンドレ・ブルトンなど、ダダイズムやシュルレアリズムの芸術家たちと交流があったが、これらの影響を強く受けたというよりも、ひたすら自分の内面的世界に生きていたように思う。
だから、自分よりちょっと前の時代のモチーフを拝借することで、ノスタルジーがもたらす思い出フィルターをワントーンかけ、生々しさを軽減し、不滅の標本を作ったのではないだろうか。
コーネルは、とてもまめなタイプだったようだ。
彼の作品を構成する素材の収集物が、展示されていた。
なんとなく、彼が現れて今から作品を作り出す、そんな気配をとどめていたのだった。