rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

もったいない、フェルメール展とデュシャン展

2018-11-29 22:46:13 | アート
家人と久しぶりの美術展へ出かけてきた。
フェルメール展とデュシャン展。
銀杏が見事に色付き、上野の公園界隈は、多くの人で溢れていた。
国立西洋美術館ではルーベンス展、東京都美術館ではムンク展と、どれも鑑賞欲をそそられる企画がかかっていたけれど、そんなに一度には観られない、消化不良を起こしてしまう。
場所は離れているけれども、国立新美術館でも大好きなボナール展が開催されていて、こちらはかなり引力が強かった。
そして、家人の意見も尊重しての上野の森美術館のフェルメール展、東京国立博物館でのデュシャン展を選んで観た。

はじめにデュシャン展。
5年ぶりの東京国立博物館で、しかも初めて入った平成館では、デュシャン展とともに特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」もあったが、時間の都合上デュシャンだけにする。
デュシャンの初期のころから晩年までの作品をざっくりと網羅して、なかなかお目にかかることのできない彼の作品と対面したことは、同じ空間に存在を共有した満足感を得られた。
「チョコレート粉砕機 №2」と「階段を下りる裸体 №2」は、好きな作品で感慨一入。
大ガラスのオリジナルと遺作は、フラデルフィア美術館に赴くより仕方があるまいと諦めもついたが、大ガラスのレプリカの展示の仕方に少々不満が残る。
それは、もう少し所謂裏側の面の鑑賞できる空間にゆとりが欲しかったということ。
ガラスという支持体の特性を、なんとなく蔑ろにしていると思えるからだ。
あとは、家人の感想で、遺作についてのスライド画像の展示方法は、オープンスペースでは、作品の持つ背徳的エロスを霧散させてしまうから、やはり穴から覗くような仕掛けを作るべきではないかというものだ。
もしくは、本作品は、フラデルフィアでお楽しみくださいなど、スパイスの効いたジョークでもよかったのではないだろうかとも。
そもそもデュシャンなのだ、人の想像の斜め上を行く挑戦的なコンセプトありではなかろうか。

さて、フェルメール展。
混雑が予想された企画なので、日時指定入場制となっていて、私たちは13時からの入場だった。
上野の森美術館自体、なんともこれが初訪問。
ふむ、今回は初めての場所ばかり。
時間指定でも30分ほど並んで入場しなければならず、美術館もこじんまりと、これでは中も相当人で溢れかえっていると予想がついて、作品をじっくり鑑賞できないかもしれないと不安が過ぎる。
それは、一歩一歩歩みを進めるごとに濃厚となって、音声ガイダンスへほぼほぼな人が誘導されるところを見ると、もう中の状態が手に取るように予想できた。
案の定、音声ガイダンスのある絵の前は大渋滞。
身長の高い私たちですら、なかなか作品をよく見ることは難しい。
フェルメールと同時代の画家たちの作品が先に展示してあり、その下の階にフェルメールの部屋。
そこの壁面は濃紺の壁、照明は各々の絵に当たるスポットライトが基本の、限定的な光だ。
人だかる絵でガイダンスのあるものは当たり前、きつい照明でさらされる油分の多い絵画は照り光り、ハーフトーンの微妙さを打ち消していた。
せめて壁の色と照明こそ、もう少し気を使ってもらいたい。
そういえば、以前見たフェルメールの展覧会も、壁面は暗く濃い色で、照明もスポットライトのような印象があるけれど、何かフェルメールの展示はこうでなければならない的なものでもあるのかしら。
つぎに、警備の人が少なすぎるのも気になった。
額にガラスも入っていないし、あれだけの絵と人の密集度、性善説に基づいた日本ならではなのかもしれないけれども。
「赤い帽子の女」、画集でしか観たことがないものだったから、これはとてもありがたかった。
暗い部分がこれほどしっかりと描き込まれてたことがわかったが、洗浄して現れ出たものであろう。
ほかの作品もすべてクリーニングされていたようで、しかしそれで失われたものもあるのではなかろうかと、描かれた当時に完全に戻すことは不可能だし、そのあたりのジレンマはどうしようもなさそうだ。

近年展覧会ブームで、来場者10万人超えがあたりまえのように続いている。
だからこそ、ゆったりとした空間で好い光線のもと、絵画を展示するよう、細心の注意を払いながら熟考していただきたいものである。




頑張ってみたよ

2018-11-24 22:26:50 | ベリー類の栽培


どうしてこのタイトル?という感じで始まってみる。
まったくもう、健気に赤く色付いたワイルドベリーの可愛さに、ぼろぼろな気持ちを奮い立たせ写真を撮ったってことかしら。
それから、一粒一粒口に運んで、ふんわりと鼻に抜ける華やかな香りと素朴な酸味と甘さが口の中に広がるのを確かめた。
「妖精の果実」といった趣で、撒き散らされた悪意に曝されてくたびれ果てた私の心と体に、ささやかな癒しをもたらすのだ。
でもなんか、ティースプーンで海水を運んで塩を作るような、風の通り道で砂絵を描くような、そんなイメージの行についている感じの今の仕事、結構しんどい。
もっとも、それもこれも、因果応報、業なのだろうかと、思い当たりつつ諦めもある。
だから、悟りを開くための修行と考え、明鏡止水を心がけ、日々責務にあたりたい・・・んん、頑張ろう。


香るバラ

2018-11-18 21:53:36 | 植物たち
まだつぼみの状態だが、1mくらい先でもその香りはする。
なんと芳しい花なのだろうか。
たしか、ブルームーンといった名だったような気がする。
私の雑な管理によく耐えて、何とか花をつけてくれるいじらしい花。
だから今日は、つぼみにやさしく手を添えて話しかけた、「ありがとう、寒くなってきたけれど、どうか頑張って花を開かせておくれ」と。
花も、もちろん手間をかけただけ、愛情を注いだだけ、よい花を咲かせてくれる。
特に人が作り出した園芸種ならば、なおさらだ。
人の手を離れては生きていけない。
でも、ごめん、なかなか手も気も回せない。
なんとか私が強くなるまで生き延びてと、願うばかりである。

※もちろん写真は昨年の使いまわしなのであった。


皇帝ダリアと初冬の空

2018-11-17 16:38:13 | 植物たち


皇帝ダリアが咲いたのも気付かずに毎日を送っている。
先の水曜日、家人に皇帝ダリアの花が見上げるほどの高さに咲いていて驚いたと聞いて初めて、それがどこにあるのかやっと知るお粗末さ。
此花の球根を知り合いから譲り受けたのは4年位前のこと、義母が植えているのはわかっていても、ついぞその姿を目にすることはできないでいた。
なんと淋しいことであろう。
だから今日こそはと、カメラをもって見に行った。
草丈5mはあろうかというもので、空に向かってすっくと伸びた茎の先に大輪の薄紫の花を咲かせ、風にゆらゆらと揺れていた。
もともと中米が原産地で、1500mあたりの高地に育ち、晩秋が開花期だそうだ。
皇帝ダリアは学名を直訳しており、木立ダリアとも呼ばれている。
名前からは豪華な花をイメージするが、もっと素朴で野趣溢れる姿に、木立ダリアのほうがふさわしく思えた。

散々このブログで、余裕を持って身の回りの美しさを愛でようなどと書いてきたけれども、今の私はまったくといっていいほどに、その言葉は、私を掠めてすらいない。
写真からも、それがありありと伺えるほどだ。
なんとなく対象物をフレーム内に捉え、シャッターを切っているだけ。
感動も遊び心も好奇心も、そこには感じられない。
分かっていた、しばらく前から。
ここ久しく写真を載せないのは、それに気がついていたからだ。
もちろん絵も描けるはずもなく、ただただ疲弊していく自分を見ている。
視点を変えて今の状況を見る器用さは、まだ会得できてはいない。
物事にはほぼ二つの側面がある。
何とかよい方向へ迎えないものかと、目下模索し足掻いているところとしておこうか。






食にツキのない一日

2018-11-11 22:51:55 | 食べ物たち
用事を足しに、一日外に出かけていた。
天気は爽やか、木々も色付き始め、ドライブにはこの上ない。
けれども、食には恵まれなかった。
何かと物入りで激しい金欠のため、食事は最低限度、おなかを満たす覚悟ではいた。
だから、お昼はスーパーに出店しているベーカリーのパンを買い、食べることにした。
大好物のパン・オ・ショコラ、一口かじると何の抵抗も感じない。
これはどういうことかと断面を見ると、見事なまでのデニッシュ生地の巨大な空間が、そこに広がっている。
驚きとともに、これほどの空間を確保できる技に感心したくらいだ。
しかし、サービス価格の100円なので仕方がないと諦めもついた。
片やもうひとつのクロワッサンサンドは268円、本体の半分ほどの切れ込みに、薄いハムと薄いチーズをふんわりと折り挿んであり、これにはいささか残念間が否めない。
つまりどちらもエアリーな食べ物で、私は空気でおなかを満たしたらしい。
さて、夕食は、おなかが減ると頭痛が起きてしまう家人にあわせ、早めでしかも店を物色している余裕はなく、30年以上も続いている某チェーン店に入った。
かつて2度ほどこのチェーン店で食事をしたが、私にはそのたびごとに失望感しか残らなかったので、10年ぶりの挑戦だ。
ああ、しかし悪い予感は裏切られることなく、おそらくこれが最後の利用となるだろう。
たぬきうどんの揚げ玉は、細かく粉砕されていて、うどんの上に広がったその光景はまるで、とてもココには形容できない状態。
味は、どうにか普通だと思うけれど、最初の見た目は食欲をゼロ以下に急降下させるものだった。
家人も元小さい人も、もったいないから頑張って完食はしたけれど、それぞれ注文したものは、言わずもがなのものだった。
食は生きていくうえで切り離せないものだけれど、生命維持だけではなく楽しみ味わうものだろう。
ただここの店では、とりあえずのカロリー補給といった面持ちで食事をする場所なのだと思われた。
今、特に地方都市では、手ごろに美味しい食事を提供できる店がかなりの勢いで淘汰されている。
自動車を停められる駐車場を完備して、どこでもわかりやすい商品を提供できるチェーン店が、そういう店を追いやっているともいえるけれど、消費者が知っているところならば安心と、食への好奇心をある意味なくしてしまっていることもあるだろう。
所謂メディアにのってここが美味しいとうたわれたり、新作メニュー特集など組まれたりすると、ついそれに流され、身近にある地味だけれどもよい店が、見向きもされなくなっているのではないか。
こうくどくど書き連ねている未練がましい私ではあるが、あまりの残念さがまだ癒えないせいなのである。