rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

桜便りは突然に

2014-03-31 17:11:17 | 旅行

桜開花宣言2014年 31/3/2014


ミモザも忘れずに 31/3/2014


茶臼岳 31/3/2014

恒例の那須旅行、2泊3日に行ってきた。
初日と2日目とすばらしく晴れて暖かい陽気に恵まれ、黒羽の河原で遊びながら那須への道中を楽しみ、次の日は雪の融け切らぬ山道を軽くトレッキングした。
殺生石から「恋人の聖地」という展望台まで冬枯れのコナラなどが密生した傾斜地を登る。
ところどころ残雪が足元を悪くしているけれど、大人と変わらない背丈の小さい人はものともせずどんどん進んでいき、かえって体力が落ちてきた私が息を切らしていた。
今はまだ行き交う人もまばらな山道も、一ヶ月もしないで新緑を楽しむ人たちで賑わうことだろう。
バス停の何もなっている「恋人の聖地」展望台には、白く雪を残す茶臼岳や朝日岳、眼下に広がるパノラマに心を洗う人たちがいる。
4年前にこの場所で写真を撮ったのと同じ時期にちなんで、皆で記念撮影をする。
数年後、成長した子供たち、歳を重ねた自分たちを振り返るにはいいものだ。
それから、汗を流し筋肉の疲労を取るために、日帰り入浴で「大丸温泉」へ行く。
オフシーズン最後の週末とあって多くの利用者があったように思えたが、それでもゆったりと湯に浸かれ癒されたのであった。

帰りの日は、朝から雨が降っていた。
窓の外を流れる雨に濡れた景色を見ていると、どうやら季節が一気に進んでいるようだった。
家に帰り着いたのは日もすっかり暮れたあとで、庭の様子に気がつかなかった。
朝、カーテンを開けてみると、桜の気がほんのりとピンクに霞み、花がちらほら咲き出している。
東側の窓から見える桜はさらに花を開かせていて、すでに2分咲きだ。
旅行に出かける前はまだ小さなつぼみだったのに、たっぷりの陽射しと暖かな陽気が開花を促進させたのだろう。
一日といわず、季節は瞬く間に進んでしまう。
ぼんやりしていては見逃してしまう、これからの一ヶ月半は目と耳と心をしっかりと開けておかなくては。


しみじみと懐メロ、アラン・パーソンズ・プロジェクト

2014-03-27 11:29:25 | 音楽たちーいろいろ


The Alan Parsons Project - Don't Answer Me



The Alan Parsons Project- Eye in the Sky

おなじみキッチンでの音楽について。
家人の音楽ライブラリーから思いつくままアレンジした音楽を、キッチンでかけ流している。
その中に、アラン・パーソンズ・プロジェクトのこの2曲が入っている。
30年以上も前の曲。
すでにれっきとした懐メロ。
当時、好んで聴いていたわけでもないのにしみじみとする。
FMラジオやテレビの深夜の洋楽番組を貪欲にあさっていたとき、しばしば耳にしていたのか。

まださまざまな情報が簡単に手に入る時代ではなかったから、自ずと情報源は限られて、同じ時代を共有できる確率が高い世代の私は、今の情報が氾濫し多様化が著しい我が子の世代をある面で不憫に思う。
最近、中くらいの人と小さい人が、お笑いの”ノンスタイル”やラップのフリースタイル”鎮座・ドープネス”などを動画サイトで共有して意気投合しているのを見ると、彼らが長じての話題の鍵を作っているところだとほほえましく思う傍ら、その鍵の広がりに期待ができないぶん寂しさを覚える。
時代を振り返る鍵となるには、リアルタイムでの共有という必要条件を満たさなくてはならないと考えるから。
そうすると、今の子供たちは過剰情報社会において富める貧者といえる。
人生を生きていくうえで、自分の中に大切な記憶を持ち、ときどきそれを共有できる人がいることが、なくてはならない個人の財産であると思うのだ。

慌て萌え出す命たち

2014-03-25 23:30:36 | 植物たち
一気に5月下旬の暖かさになって、植物たちは大慌てで新芽を萌え出し蕾を膨らませる。
水仙は黄色の花を咲かせ、ビオラはこぞってお日さまに愛嬌のある顔を向けた。
しかしいいことばかりではなく、昨日枯れ芝の間からのぞいていた雑草を抜いたのに、一晩で元の木阿弥に。
これから8ヶ月間は、雑草とキリのない攻防戦が繰り返される。
太ったトカゲが植木鉢の間をちょろちょろ走り回るのは歓迎しても、青い舌をちろちろ出しながら這う蛇も活動期に入るので、緊張しながら庭に出るようだ。
これで去年のように遅霜がなければ、花や動物たちに作付けした農作物が被害を蒙らずに済むのだが、こればかりはどうもできない、あとは祈るだけ。
明日は雨が降るというから、さらに生き物たちは活気付くだろう。
それもいい、命よどんどん萌えあがれ!

感謝の薔薇

2014-03-24 22:13:11 | 植物たち

感謝の薔薇 24/3/2014

小さい人の卒業式の演出でもらった感謝の印の真紅の薔薇。
こうして写真に撮り文を添えておけば、いつまでも残る。
子供たちはあまり意識しないで花を渡したのだろうが、実はこれはとても尊い行為で、特に母親にとっては心からうれしいものなのだ。
花は一輪で充分、美しい花を見ると心が和むだけでなく、子供たちの気持ちと多くの思い出の結晶として花に勝るものはないように思う。
私は、この真紅の薔薇をキッチンに飾っている。
一日のうちかなり多くの時間を過ごす場所に飾るのが妥当であろう。
花を見るたびに、小さい人が無事成長している喜びで頬が緩む。
花は、命ある不要の美で、つまり理想や願望、期待やメッセージを象徴する器になりえるものだ。
そういう意味で、花ほどニュートラルなものはないように思える。
だから、あと数日は私の目を楽しませてくれるこの薔薇の命を、ここに延命させよう。


寄り添うことしかできない

2014-03-23 23:46:16 | 随想たち
かつて私が暮らした街を、小さい人と歩いた。
麗らかに春の陽射しが降り注ぎ、そこかしこに咲く満開の梅の花の香りが空気に優しさを含ませている。
小さい人に街のことを話しながら歩くが、なぜだか車から降りたときから小さい人の機嫌は悪く、周りの景色を見ることもなくただついてくるだけだ。
もしこの街に興味を持って楽しく歩けるならば、私の好きな旧跡に誘おうと思っていたけれど、これでは互いに辛いだけと早々に駅前に引き返す。
新しい文具を買う約束をしていたから文具屋に行ってみるも一向に選ぶ気配もなく、どこかカフェに入って休むことにした。
温かい飲み物とケーキを頼む。
小さい人がケーキを一口ずつ食べ進むにしたがって表情がほぐれ言葉が出てきた。
どうやらおなかが空いていたらしい。
昼食をあまり食べていなかったのが原因のようで、おなかが満たされてからというものすっかり機嫌が良くなって、先ほどとは別人だ。
呆れてしまうようなことだが、親といえども小さい人の体と心の内を全て分かり切り得るものではないので、ただ気をめぐらすだけ。

人の心とは猛獣で、本人さえもこの猛獣の制御をなしえるものではない。
しかもこの猛獣の姿は目には見えないから、他人にとっては扱いが非常に難しい。
いつなんどきこの猛獣の機嫌を損ねてしまうや知れぬ。
傷つけてしまったなら、どこをどうどのくらい傷つけたか皆目見当もつかず、専門のカウンセラーも力をもってしても治癒は困難と思われる。
いや、心ばかりではない、人の体の痛みも他人にとっては分かり難いもの。
同じような怪我や病気にしても、その痛みは完全に理解し共有できはしないだろう。
痛みは非常に個人的で、他人はただそれに寄り添うことしかできない。
痛みを持つ者とそれを持たざる者には、埋めることのできない大きな溝がある。
その溝を狭く浅くできるのは、寄り添おうとする者とその者の気持ちを酌もうとする痛みを持つ者の歩み寄りしかないのではないか。
しかし、痛みを持つ者にその余裕が得られない場合には、寄り添おうとする者の気持ちは届かない。

時折自分が取り返しのつかない痛みを小さい人たちに与えていないか気がかりになる。
だから、できるだけ寄り添えるよう心がける。
空気のように、木のように、水のように、大地のように、星のように。
つかず離れず、そっと寄り添うしかないと思うから。