rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

イチゴの苗を植える、ブラック菜園?

2013-10-31 22:37:23 | 植物たち

植えつけられたイチゴの苗 1/11/2013

何年ぶりかに、イチゴの苗を買ってきた。
主にジャムに使うため、酸味のある品種の「ジャンボイチゴ」と「女峰」の2種類を4つずつ。
8株の苗でどの程度のイチゴが生るかちょっと見当がつかないけれど、元肥も鋤き込んだから期待してしまうのだ。
しばらく前は、畑でイチゴを栽培していたのだが、ビニールのマルチングはしたくないし、縦横無尽に領土を拡大する野生化したイチゴに稲わらでするのもなかなかできず、わんさと群がるアリたちにかなりのご馳走を提供する羽目になっていたので、ここ最近はプランターで栽培していた。
だから今回も、プランターで育てる。
古参の野生化したイチゴの苗も6株ほど、ブルーベリーのプランターに間借りしているから、また勝手に交配したりして、どんなことになるか楽しみでもある。
もっと面倒をよく見られれば、イチゴもブルーベリーもたくさん生って甘みも増すのだろうと思いつつ、不精に腰痛持ちが拍車をかけて放置栽培といった塩梅だ。
それもまたよしと、生物の持つ生命力を引き出すには、多少とも苛酷な環境が必要であろうというもの。
率直な話、他力本願の都合のいい考え方であって、つまり、イチゴに甘えているのであった。
私に選ばれてしまったのが運のツキと、イチゴには諦めてもらおう。
これがいわゆる、ブラック菜園なのか?


出待ちの花の苗たち 1/11/2013




遅い決断

2013-10-30 11:55:26 | 随想たち

ツゲの根方で丸くなる 30/10/2013

福島の原子力発電所事故による被災地のなかでも汚染が深刻な地域の扱いが、長いこと保留状態となっていた。
このたび政府与党が、全員帰還を断念して、線量に応じて3つの区域に分類し、帰還の可能性のある地域の速やかな除染と、帰還困難地域の移住援助に方針を転換するべきだという案を取りまとめ、政府に提出する運びとなるようだ。

生まれ育った場所を離れること、生計の基盤を失うこと、自分が築き上げたコミュニティーが離散すること、どれも失くしてしまうにはダメージは計り知れない。
この2年7ヶ月、元の場所に帰る望みを抱いて辛抱してきた人たちの落胆は、いかほどなものか。
被災者の心情のある一面を鑑みれば、スパッと帰還困難と紋切り型で宣告するのが躊躇われるのも理解できるが、しかし、だらだらと決断を先延ばしにすることにより、被災者が希望と絶望の間で身の振り方を決めかねて、新たな生活に踏み出し送れるという負の面も持ち合わせている。
2年7ヶ月が、被災地の行く末を決めるのに、長いか短いかと考えれば、遅いという感を抱いてしまう。

日々の生活と、人の命は待ってはくれない。
被災した人たちは、皆が若くてどこでも生活の糧を得て暮らせる適応能力があるという同じ条件ではないのだ。
いま、政府にこの提案が提出されたからといっても、提案が受け入れられ実際に動き出すには今しばらくの時間がかかるだろう。
この成り行きを注意して見ていきたい。




健気に 30/10/2013


戸惑える薔薇 30/10/2013


星はいつでも降り注いでいる

2013-10-29 22:29:00 | 空・雲・星・太陽たち
昨夜の9時10分頃だろうか、カシオペア座の下辺りを東の空に向かって流れ星が、一つツーゥッと軌跡を描き光を増しながら走っていった。
絶妙な偶然、外に出てすぐ、冷え込み具合で空には星が瞬いているだろうと見上げたそのときに、目撃できたのだ。
二匹目のドジョウと欲を出し、しばらく空を見上げていたが、流星群が飛来しているわけではないので次の流れ星には出会えるはずもない。

地球には、いつとなく隕石が飛来しているのを、再度実感できた。
そう思いながら、昼間の空を見上げていても、明るく輝く光を目にすることはまずできないだろう。
私は、その点幸運だった。
1997年の1月7日午後4時ごろ、たまたま南西の空を見ていたら、夕方の光に照らされたからなのか明るく光る雲を視界に捉えた。
変わっていると思いながら見つめていると、それはやがて閃光を放ち突然消えて、後には煙を思わせる雲が薄っすらと残っていたように記憶している。
あとで見たニュースで、その正体が分かった。
それは、つくば近辺に隕石が爆発落下し飛散したというもの。
どうやら関東一円で爆発音と閃光を目撃できたらしいのだが、そのとき空を見上げていなければならないので、やはり千載一遇というべきものなのだ。

夜に見える流れ星や白昼の隕石爆発の閃光は、地球以外の広がりを分かりやすく認識させてくれる。
いつも足元ばかりに気を盗られ近視眼的に鬱屈している自分は、流れ星たちが、「目を覚まし目を開けてよく見渡してみろ、些細なことに煩わされていては偉大な奇跡の瞬間を逃がし続けるぞ。」と進言してくれるように思える。
こうして今在るこの奇跡を、謹んで享受しよう。

今頃になっての着物の虫干し

2013-10-28 22:14:33 | 趣味たち
昨日に引き続き今日は、やや雲が多めではあったが爽やかな陽気だった。
来月、結婚式に列席するための黒留の下に着る長襦袢の半襟を縫いつけておこうと、和ダンスを開けた。
そこで、秋になったら着物の虫干しするはずが、厳しい残暑と台風などによる天候不順でなかなかできなかったことを思い出し、思い切って手持ちの着物の半分を虫干しすることにしたのだ。
色無地、紬の紫、紬の藍色、道行コート、窓を開け放した部屋のなかでゆらゆらと風に揺れる姿は、なんとも美しい。
生来の不精と育児などで着物を着る余裕もなく、おかげで箪笥にじっと眠っているこれらの着物たちが気の毒ではある。
それに、自分で着付けられない不自由さが、いっそう着物と距離をおく原因でもあって、着付けの本を買ってはあるものの、まだ一度も練習出来ていないという始末。
しかし、こうやって着物を手で触り、眺めていると、着物に対する愛情がむくむくと湧き起こってくる。
まだ一度も手を通していない青磁色の紬も、着て欲しいと箪笥の中で待ちわびているではないか。
汗ばむ季節は去った。
本を見ながらたどたどしくても、着物に袖を通してみようかしら。



華麗な色彩の魔術師、ティエポロ

2013-10-27 23:04:16 | アート

Apollo suppli



ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロは、18世紀に活躍したイタリアルネサンス最後期の画家。
なんでもフレスコ画が得意らしく、天井画に壁画が、教会や貴族などの館に多く残されている。
その色彩は、軽く透明感があり、建物の天井や壁面を飾るのに相応しく、見事なほどに圧迫感を与えないでいる。
また、天井に描かれるものは、見上げたその先も空間が広がるような仰視法を使った視覚的トリックを盛り込んで、より開放感を与え、それが教会ならば祈りがそのまま神の御許に届くような効果を及ぼすのだ。

ティエポロの絵が、あまりにもきれい過ぎるので、自分としてはあまり注意を払っていなかった。
しかし、ひとたびよく見るならば、自分の至らなさを恥じることとなったのだ。
もちろんなんといってもその色使いだ。
一見平板に思える狭い明暗の幅の中で豊かな色を感じさせたり、または色のコントラストをつけることによって画面にリズムや流れをもたらすなど、学ばなくてはならないことがたくさんある。
彼の絵を直接見る機会は、壁画という物理的に移動できないために、そう得られない。
けれども、画集を買い求め、じっくりと見てみたい、そんな気持ちが今湧き起こっている。



Three angels Appearing to abraham


Sarah and the Archangel


Madonna of the Goldfinch