今日は、数年ぶりにスマホなどで撮りためた写真をハードディスクなどに振り分けて保存した。
欲を言うならば、厳選して保存したかったのだが、量があるのでそこまでの手間をかけられない。
それでも、デジカメの時よりは撮る量も減り、なおかついつも手元にスマホがあるから画像を選別してあった。
今データの一般的な保存は、クラウドの利用だろう。
けれど、我が家において、その利用はほぼしていない。
個人的なものであること、そして結局のところ個人的であるがゆえに、そんなに長く保存をしなくてもいいものだからだ。
思わぬ天災に見舞われて、すべてが消失してしまうかもしれないからこそのクラウド利用ともあるけれど、それはそれとして受け入れようと家人と話し合っている。
それに、簡単に撮れる写真は、量も格段に多くそれに伴って見返すことも少ない。
どれほど必要なのかと自問すると、とてもその執着度が高いといえなかった。
先日、お正月で帰省していた元小さい人が、義母と蓄積された写真を見返していた。
私と家人の結婚式の写真を、意識的に初めて見た彼女は、両親の若かりしころの姿に驚いていた。
せいぜい、彼女と未来に現れるかもしれないその子どもくらいが、自分の遺伝的ルーツを辿る時に必要なほどだろう。
おそらくもっとも人にとってふさわしい保存は、データでの画像ではなく、リアルな紙ベースの写真にするのが、思い出を紡ぐ行為にあっているような気がしている。
もしかすると、かえってそれが、価値の高いものになるかもしれない。