rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

アール・ブリュット礼讃、ジャン・デュビュッフェ

2013-02-28 12:38:03 | アート

the teddy bear

近頃、アンフォルメルに惹かれる傾向にある。
ジャン・デュビュッフェは、フォートリエやヴォルスと並ぶ、アンフォルメルの芸術家だ。
彼は、ヨーロッパの既存の美的価値観に疑問を抱き、子供や未開人、精神障害者などによる芸術こそ真の芸術と考えた。
アール・ブリュット、生の芸術とした。
そして、その作品を集めた美術館を開設もする。

デュビュッフェの作る作品は、一見粗暴に思えるが、よく観るとユーモアがこめられている。
その点では、悲愴感に満ちたフォートリエやヴォルスと決定的に違うのだ。
彼の立体作品を観てみたい、その空間感を楽しみたいと、ますます思うようになってきた。
かつては、デュビュッフェのことをあまり気に留めていなかったのに、時の流れとは不思議なものであるよ。







bedouin on a donkey

いまさらながらの”JIN"実写版

2013-02-27 23:31:38 | 映画
テレビでドラマ化された”JIN"は、放送当初から熱烈なファンだった。
初めは、何の気なしにテレビをつけてチャンネルを変えていると、花魁姿の中谷美紀が映り、その美しさに見惚れていた。
ついで、江戸時代か明治初期と思われる東京の古い写真と現在のその様子が交互に変わるオープニングと思しき映像となって、ますます興味が湧いてくる。
そのまま見続けると、豪華なキャストに負けないくらい作り込まれた映像と脚本に魅了され、たぶん第二話だったと思うが、それを見終わった。
もうすっかり”JIN"の虜となり、毎週日曜の午後9時が、週のカウントの締めとなる。

いままたDVDを借りてきては見ているのだが、中くらいの人も”JIN"の虜となり、二人で感動場面や、登場人物の良いところを語り合っている。

”JIN"の好きなところは、登場人物たちが真面目で懸命に生き抜いている姿にある。
緒方洪庵、山田純庵、勝海舟、東修介などのサブキャラがきちっと立っていて、それが物語に厚みをもたらしているのだ。
主人公はもちろんのこと、愚直なまでの正直さ、己の信じる道のためには命を賭すくらいの覚悟の美しさは、ストレートに心に響いてくる。
何度と泣く目が潤むけれど、それは安易なお涙ちょうだいとは隔絶している、魂の美しさに心震えるからなのだ。
まさに魂のユートピア。

あとは、終わりがきちんと描かれていて、ハッピーエンドを予感させるものになっていること。
主人公の慙愧の念が引き寄せたタイムスリップが、自分の過ちを悔いながら自分のできる精一杯を周りの人に助けられ励まされながら行い、明るい未来を引き寄せる力に繋がっていく。
つまりは、そのきっかけになったことを修正できるようになり、慙愧の念は昇華されることとなった。
無私無欲で己の未熟さを知りながら、慢心することなく努力を怠らなければ、世の中は明るく笑って過ごせるようになると。

小さな自分は、とても憧れてしまうのだ。
哀しいくらいそんな世の中に。
いつの日にか、世界がそうなればいいのにと、願わずにはいられないでいる。

流れはどっちに向いている

2013-02-26 23:24:27 | 随想たち
どうやらこのままTPP参加になりそうな雲行きだ。
もっとも、TPPの話が出た時点で、こうなることは予想できた。
時代の流れには逆らえないということか。

つらつら考えるに、TPPに参加しようとすまいと、もう既に根幹の部分はシロアリ被害と同じような具合になっているから、最後の仕上げがこれなのだと思われる。
自分は、”種”に興味があり、これを制するものは”食”を制する、つまりは”世界”を制すると常々考えていた。
だから、こと作物の種に関しては、外国に依存することなく、自国で品質改良を行い、それに関連する肥料や病害虫対策も、一貫して自国でまかなうべきであると思っていた。
苗種業界を心から応援していた。
しかし、どうやらその中身がいつの間にか入れ替わっているらしい。
よく考えれば、園芸種の苗種、たとえばチューリップ、球根は毎年買って植えつけないとまともな花が咲かない、それはいくら人工交配で作り出したものにせよ、あまりにも軟弱すぎる、生命の使命をなしていないとは奇妙ではないか。
経済効果優先で、一代限りの苗種礼賛でもあるかのように、わざと種の存続の遺伝子を削除しているといぶかってしまう。

たとえば教育。
没個性教育を止めて個性ある人材の育成をと始めた”ゆとり教育”、しかし、箍を緩めすぎたのか、学力の低下は著しく10年で見直しとなった。
いまは、それの揺り戻しが振り切れるところまでいき、詰め込みの最たる内容となっている。
これはまるで、愚民製造システムではないか。
教育に対して良識ある者はいないのか。

経済や国のシステムにしても、腐った膿がどぼどぼと漏れ出ていていながらも、ブルーシートを被せて見えないこと見なかったことにしている。

どうなのだろう、自民とその他連合、民主とその他連合、自民とその他連合と代わっても、深部では何も変らないのか。

流れはどっちに向いているのか考えるに、亡国への一途を辿っているとしか思えない。
そもそも、日本は一独立国家なのかも疑わしいが。




ナンバープレート・ウォッチング

2013-02-25 22:37:59 | 旅先から
家から一歩踏み出したら、それは既に旅になる・・・ということで、昨日家族で買い物へ出かけたときのこと。
車で1時間15分くらいの目的地までの道中、家を出て程なくのたまたま目の前の車のナンバーが7のぞろ目だった。
それで、家人と車のナンバーにまつわるあるエピソードを話していた。
車のナンバーに”830”をつけている人は、矢沢栄吉のファンが語呂合わせをしてつけている場合が多いというもの。
ならばと、ただ外を眺めているのではなく、今日の課題としてナンバープレートの数字にこだわりをもつ車がどの程度あるかを注意して見ることに決めた。
すると、あるあるある、たとえば”7””77””7-77””77-77”と一つの数字だけの場合、ハイフンの左右対称に”10-01”や”25-25”とする場合、ハイフン左右それぞれがぞろ目”11-22”、連番で”12””123””1234”のパターン、キリ番の”50””500””5000”とか、先にもあったような語呂合わせもあるかもしれない。
感覚的に、少なく見積もっても5台に1台の割合でこだわりの番号を付けた車に遭遇した気がする。
希望番号制度が採り入れられてから、待っていましたとばかりに好みの番号を選んでつけるようになったのだろうが、その割合の多さに正直驚いた。
もっとも、どんなところにも楽しみを見出せるのはとてもいいと思うので、こだわりのナンバープレートをつけて楽しく安全運転するのに異論はまったくない。
でも、自分がそうするかというと、何せへそ曲がりだからあえて番号を選ぶことはない。
そんなのだから、景気のいい話がまわってこないのだと家人と二人、苦笑いをしていたのである。

土埃で霞む大地

2013-02-24 23:37:09 | つぶやき&ぼやき
今日は、朝から強い西風が吹きつけ、午前11時には畑の土を巻き上げて、辺りは茶色に霞んでいた。
そう、春恒例の砂嵐ならぬ土埃嵐だ。
畑沿いの道を車で走っていると、突風によって土が地吹雪状態になり、視界を遮り、容赦なく車体を打ち据えていく。
ここはサハラ砂漠か、まるで映画「ハムナプトラ」のワンシーンにある砂の壁が至る所に出現しているのだ。
年々この土埃嵐はスケールを増しているように思われる。
昔は、夏の農繁期が終わってからの畑では、冬野菜を育てたり、麦を作ったりして、何かしらの作物が畑に根付いていた。
しかし、農業に従事する人手が減ったことと、手間隙かけてつくった麦は、外国産の格安のものに取って代わられて、広い面積を覆う麦を誰も作らなくなった。
したがって、農閑期がはっきりとできて、作物がない畑の土はむき出しとなり、雨が少ない2月から3月いっぱいにかけて強風が吹き付けると、今日のような土埃嵐になる。
また、人手不足は作る作物の片寄りも生み、同じ土地にきまった作物を作る悪循環が連作障害を起こし、品質の低下につながってしまうのだ。
この20年くらい、農業で生計を立てるのが見通しが暗く後継者が育ちにくいのと、農家の婚姻率がことさらに低下し、出生率はみじめなほどに、耕作放棄地が年々増えているように見受けられる。

今佳境に差し掛かっているTPP。
よく農業を引き合いに、安い外国産の農産物が日本の農業に脅威であると取り沙汰される。
そこで、農業株式会社にして大規模な集約的農業で、低コストを目指し、安い外国産に対抗せよなどと言う方々もおられるようだが、狭い土地、ひしめき合う地権者はまず大きなハードルだ。
それをクリアして大きな耕作地を造成しようと、雑木林を切り倒す。
ただただ広がり続ける耕作地は、実は不毛な土地への第一歩となるのは、アメリカや中国を例にとればいいだろう。
もし、我が地域において大規模農業が行われたならば、春恒例の土埃嵐と集中豪雨によって、柔らかくふかふかなの肥沃な表土が削られて、やせ細った土くれの土地になる。
経済も大切だが、目先の効果ばかりに囚われていると、深刻で意外な影響が、あらわれるかもしれない。

そうだな、多くの経済評論家たちは、TPPに参加して全面開国に踏み切り、グローバル経済の波に乗って経済成長をするのが最良と言っているようだが、辺境のハイジンは参加には時期早々というか、今の日本の状況はどれをとっても他国と同等に戦うことすらおぼつかないと思っている。
日本の男女と家族のあり方、就労環境、教育システム、税金、ひいては多民族国家になったときのシミュレーションなど、変革し、国民を啓蒙しなくては大きな混乱が起こるだろう。
改革には痛みを伴うとよく言われるけれど、実際痛みを経緯するのは下々の者たち。
辺境のハイジンは、声なき叫び、悲鳴がそこかしこで上がっているように思われてならないのである。

容赦なく吹き荒れる土埃の嵐は、マッドマックス的世界の予兆なのか・・・