rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

種を蒔く人 見習いにしても

2020-05-30 22:04:26 | 随想たち
毎日、種を蒔いている。
そこがどんな形をした土地のどのような土質かもわからず、ほぼ霧の中、種を蒔き続ける。
これらの土地には、幾人かの人々が訪れて、それぞれ、時には共同作業で種を蒔く。
いつ芽を出すとも知れない種を、ひたすら蒔き続ける。
時々土地が変わったり、しばらく訪れることがかなわなかったり、定期的に行ったり、毎日の場合もある。
ふっと霧が晴れて足元を見ると、小さな芽を発見できたときは、大きな喜びに包まれる。
その芽は、誰が蒔いたかわからない種のものであっても、種蒔きに従事した者ならば皆等しく発芽を喜ぶのだ。
そして、大きく育ってほしいと切に願いながら、水をかけ、肥料を施し、虫の食害や病気にならないよう気を配る。
果てしない労働。
しかし、誰かがそれをしなければ、土地は力を失ったり、地力を持て余して荒れ放題になったりと、大きな損失につながるのだ。
ある時期が来れば、蓄えた力を上手に使えるようになる土地もたくさんあるけれど、力の使い方をなかなか習得できない土地や、深い霧が一向に晴れなくてどうにもできないでいる土地が、いつまでもあるのも確かなこと。
種を蒔く人の応援を呼びたくてもままならないことも多い。
その土地の存在を忘れ去られてしまう不運が見舞うこともある。
種を蒔く人の見習いとして、己の力不足だけでない、どうにもならない状況があることに、憤りと深い悲しみを感じている。
それでも、諦めるわけにはいかないと、毎日種を蒔き続けていこう。
絶望と希望を両肩に担ぎながら。


心を飛ばしたいときに Maroon 5 - She Will Be Loved

2020-05-29 22:33:06 | 音楽たちーいろいろ
Maroon 5 - She Will Be Loved (Official Music Video)


特別にマルーン5が好きなわけではないけれど、この曲だけは、たぶん私の耳と心に心地よい音域とメロディーを満たしているのだ。
理屈抜きでこの曲を思い浮かべると、心がふんわりと軽くなって、沈んでやりきれない気分を拭い去ってくれる。
この一週間ほど、ハードでヘヴィー、心身ともにくたくたになっている。
その厳しさを緩和しようと、無意識にこの曲を脳内で再生する回数が劇増しだ。
どうにか週末までこぎつけた。
ありがとう、マルーン5。
よく聞くことだけれど、音楽に助けられた一週間だった。

番いツバメ

2020-05-24 23:03:17 | 生き物たち


久々の青空、初夏の訪れを知らせる使者、ツバメが気持ちよさそうに飛び交っている。
我が家に引き込んでいる電話線は、ツバメたちのお気に入りの休憩所、毎年のようにここで羽を休めている。
今日は、番のツバメがその場所を陣取っていた。
昨年の子ツバメかもしれない。
どこか具合のいいところに巣を作りたいと思いをめぐらせているのか。
時々飛び立っては、家の周りをぐるぐる回る。
そして、ツイっと開けてある玄関をくぐって家の中に入り、あちこちめぐっては外へと出るのを繰り返す。
家の中に人がいたなら、玄関だけで外へ出る。
これを幾度となくやっているうちに、とうとう二階へと迷い込んできた。
音楽をかけながら料理をしていると、吹き抜けの階段の窓あたりでバサバサあわてるような音がする。
ーはいはい、迷い込んじゃったのね
手で直接触るのは気が引けるので、ポリ袋で手を被い、窓際でばたついているツバメを捕まえた。
羽が傷つかないか心配しながら、外へ出て手を緩めると、ぱっと飛び立って、上を旋回していた。
さてこれで大丈夫だけれど、きっと落し物があるはずと、家の中をチェックする。
あちこちに三箇所程度で済んでほっとした。
家人にツバメの捕り物帖の顛末を話に外へ出て、無事に救出できてよかったと和んでいると、頭上を飛び回るツバメの姿があった。
お礼に来たのかと話し合っている視線の先の二階の窓の内側に、どうしたことかツバメの姿がある。
ああ、番で家の中に入ったその片割れが、どこかに潜んでいて今頃外へ出たがっているのだ。
急いで二階へと駆け上がり、窓を開けたならツバメはすぐさま外へ向かって飛び立った。
このツバメたち、まだ経験が浅いのだろう、これからもまた家の中に飛び込んできそうだ。
しばらくは、玄関を開け放つのは危険であると、家族みんなで心に留めたのである。



家族の餃子

2020-05-23 22:51:22 | 食べ物たち
餃子を作った。
今日は、元中くらいの人と、40個の餃子を作った。
初めて一緒に作った。
元小さい人とは、ちょっと前に二回ほど作ったことがある。
ひだを寄せ、具を包んでいくだけのことだけど、話をしながら自分たちの食べるものを作る何気ないことだ。
けれど、こんなことがとても大切なのだと、いまさらながらに気づく。
シンプルにおいしい物を食べるために、協力し合いことをなしていくなかで、やり方を伝えたり、失敗から学んだり、工夫をしたり、うまくできたときは認め合う、いろいろなやり取りが行われる。
料理をするという仲立ちで、言葉と気持ちの交換をすることが、実に濃密な心の交流をもたらし、安定を与えてくれるのだ。
確かに、なんとなくはわかっていたことであった。
しかし、彼らが幼いときには、自分だけでこなせば時間もかからず、危険なことも面倒なこともないと、料理を一緒に作ることができないでいた。
何かを大きく失っているだろうと思っていてもだ。
それをあらためて意識し、振り返ることができるのは、今の職について多くを学んだおかげなのだと思う。
どのような経験、場面において、多面性があり、両価的でもある。
いずれにせよ、一方だけを見ないで、俯瞰し客観性を持ってそれらを振り返ることが大切なのではないだろうか。
だからなのか、今日の餃子は、何かとても哲学的な味がした。

どんなときも心に花を

2020-05-19 23:10:06 | 植物たち






どちらも芳しく麗しい花。
毎年咲いて、私の心を楽しませてくれる。

今朝、ちょっと気合を入れて向かわなくてはならない仕事に出かけるとき、案の定余裕などなくて、この花たちの存在をすっかり忘れてしまっていた。
どうにか仕事を終えて家に帰り着き、車から降りて玄関へ向かい視線を上げたなら、バラたちの鮮やかな色が目に飛び込んできてハッと気がついたのだ。
なんとも情けない、脆弱なメンタルなのか。
ともすると、こうあるべきだとか、ねばならないとか、極端に断罪したくなるけれど、視点が変わればそれが適用できないのは思い当たることも多かろう。
まずいことは、思考停止してしまい、ひとつの基準によってしまうことではないだろうか。
だからこそ、心にいつも花を宿らせ、殺伐とした景色さえもどこかに美しさを感じゆったりと慈しんでいけるようにしたいものだ。

ジャーマンアイリスもバラも、今は嵐をじっと耐え忍んでいる。
明日の朝には、花びらが痛んでしまっているかもしれないけれど、その美しさの本質を損なうものではなくて、それさえも含んでの存在のすばらしさなのだと思えるようになってきた。
自然に囲まれて生きることは、多くの学びを得られると感謝している。

余談、一昨昨日、庭でカッコーの鳴き声を聞いた。
おそらくここで聞くのは初めてのように思う。
ちょっと驚きの出来事だった。