rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

彼らの活動も活発に・・・

2013-05-31 16:41:22 | 生き物たち
今朝、とうとう出会ってしまったのだよ、彼に。
昨夜の土砂降りの雨によって大気中の埃を洗い流され、ぴかぴかに磨かれたような青空が頭上に広がっていた。
北寄りの強めの風はさらりと乾いて涼しく、体も軽く感じる気分良好の朝だった。
洗濯物を干そうと庭に出て、干し場に向かって歩いていると、そこには長いひも状のものが1本落ちている。
視線をずいっと絞っていくと、なんとそれはヘビだった。
しかも、白黒だんだら模様に混じり赤色も注しているヤマカガシ。
「ヒャーッ」っと叫んでから、干し場の上にいる家人を呼ぶ。
「ヘビ! ヘビがいるよー!はやく来てよぉ!!」
家人が下りてきたすぐ近くに、ヘビはじっとしている。
「このあたりでヤマカガシに咬まれたなんて聞かないから、慌てなくてもいい。ほら、ゆっくりだけれどヘビは逃げようとしているじゃないか。」
そう言いながら、家人はヘビを追い立てた。
その騒ぎを聞きつけてやってきたのかどうかはしらないが、のしのしと、ねこは今までヘビがいたところにごろりと横たわる。

そのあと、義父母たちにこのヘビのことを話したら、義母は3日前に裏の畑で大きなアオダイショウを見かけ、義父は昨日庭向こうにある椿の大木に太くて大きいヤマカガシがぶら下がっていたと返ってきた。
4日前には、共同墓地の前の道路にマムシが死んでいたし、どうやらヘビたちの活動最盛期に突入したようだ。

我が家の敷地内に住まうアオダイショウならば、何とか受け入れることができるけれども、ヤマカガシはだめだ。
ましてマムシなどもってのほか。
しかし、ヘビが入れないように囲いをしてあるわけでもないし、人間の引いた境界など知る由もない。
ともかく、これからしばらくは、庭を歩くときには足を踏み鳴らし、ヘビ払いをするしかないようだな。

余談・・・今、小さい人が呼びに来て、ポストのところのヒノキに巣を掛けているハトを見においでと言われた。
行くとハトが巣に入っている。
そこでいたずら心がうずいて、「ポーポーポッポー」と鳴いてみた。
するとハトも「ポーポーポッポー」と返すではないか。
何度か鳴き交わしを繰り返すうちに、周りの木々のあちこちからも、ほかのハトの鳴き声がしてくる。
今も、盛んに鳴きあっている。
ああ楽しい。
かりそめではあっても、ハトと鳴き交わしができたのだもの。

今年はバラの当たり年

2013-05-30 20:12:58 | 雑記または覚書

バラ 30/5/2013

我が家のバラは、四季咲きだ。
春に咲くバラの色は優しく淡い色なのに、今年のバラは春から秋に咲く色を持っている。
どうしてなのだろうと心に引っかかっていた。
それが、今日、あるテレビの番組で、今年のバラは、日中の寒暖の差が激しいことから色が濃く鮮やかに乗った当たり年なのだと言っている。
なるほどと合点がいく。
ときには、そんなこともあるだろう。
何せ今年の入梅は、5月に始まっているのだから。

そういえば、最近またテレビの受信状態が不安定だ。
今日などは、どのチャンネルにもその不具合が出ている。
太陽風の影響なのだろうか。
それに伴う気象現象に、電波が乱されているのだろうか。
もっとも、見るに値するテレビなどそうないので、あまり不自由を感じてはいないのであった。


五月の入梅と、カイユボット再発見

2013-05-29 16:18:01 | アート

Place de l'Europe par temps de pluie  Gustave Caillebotte

今年の梅雨は、ずいぶんと早い。
まあ、しばらく雨が降らなかったもので、風が吹くと土埃交じりになって困っていたから、今日の雨は救いの雨だったのだが。

パリにいたとき、雨傘をさす人がほとんどいないことに驚いていた。
日本のように雨が多くも土砂降りもまれなため、特に街に住んでいては傘の出番がないというのだ。
なのに、カイユボットは傘をさした人々の絵を描いている。
絵は、虚構のものだから、事実に照らし合わせなくてもかまわない、きっと傘の持つ形状とその配置のリズム感が面白かっただけなのだろう。
カイユボットは、印象派の画家でもあり、重要な献身的パトロンでもあった。
彼がいなければ、印象派の何人かは飢え死にしていたかもしれないし、重要な作品が生まれなかったかもしれない。
彼自身の作品は、印象派の第一級の評価を得てはいないが。
それでも、ブルジョワらしい優雅さと几帳面さのある画面からは、清涼感とともに現代的感覚がうかがえる。
どうしてなのか?
それは、写真を撮る時の対象の切り取り方にある。
プライベートスナップのような、気負いがないけれど粋な構図が、現代的要素を彼の作品に与えるのだ。
もしかすると、カイユボットは印象派よりも未来を見ていたのかもしれない。
彼より半世紀後の、アメリカの画家エドワード・ホッパーの先達とも思えるのは自分だけか。

今日のこの入梅がいささか先走っているとしたなら、カイユボットも印象派を通り越してしまった先走り感が、その時代の評価を受けられなかった原因かもしれない。
どうか、カイユボットを今一度見直して欲しいものだ。


イエール川のカヌー  カイユボット

寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」

2013-05-28 23:14:27 | 本たち
寺山修司が書いたものを、初めて読んだ。
そもそも、演劇や詩に暗い自分は、寺山修司の名と彼の主催した劇団"天井桟敷"についてほとんど知らないといっていい。
知人に寺山修司の熱烈なファンが一人いて、彼女が口にしたことと、美術雑誌の季刊「みずゑ」などのバックナンバーで触れたことをもとに、あるイメージを作っていたぐらいか。
そのイメージとは、猥雑とした昭和の新宿の込み入った飲み屋街とネオン、無頼漢、煙草と酒・・・か。
「書を捨てよ、町へ出よう」を読み、彼が青森の出身であり、毛色は違えど集団就職世代にも通じる故郷への恋慕と恩讐のない混じった怨念にも似てどろりとした重さが、少し自分が共感できる部分を持っていることに気が付いて、居心地の悪さを感じた。
自分にとって、北国の荒涼とした冬景色、異世界へと導くまるで三途の川の渡し舟のような青函連絡船の物悲しさ、これらは心にしっかりと食い込んで、死ぬまでフラッシュバックする光景だ。
彼の書くものからは、この光景が、競馬場の描写であっても、新宿などの酒場や今で言う風俗店の描写であっても、陽炎のように立ち昇ってくるのが見える。
それとも、単に自分の心象風景と、強引に重ね合わせているだけなのだろうか。

常に前を向け、過去を捨てよ、自立せよ、と謳っている。
理想とする母の居心地のいい守られた子宮回帰への根強い誘惑を断ち切り、個の視点を備えるのは、容易いことではない。
なぜなら、人生は希望に満ち、口に甘いものではないからだ。
自分は、彼からは、悲しみと絶望しか感じられない。
子宮回帰への願望の強さに抗って、停滞することを恐れ、心から血反吐を吐きながら転がり続けた痛ましい子供の叫びと思える。
かたや自分は、子宮回帰への願望すらなく、反発する足場さえないただの骸と成り果てようとしていから、救えたものではないのだ。
さても、時代の病と言えなくもないがな。

今のところのケムシとイモムシ発生状況

2013-05-27 22:31:35 | 生き物たち
バラやブルーベリー、ラズベリーの葉を注意深く観察しては、ケムシやイモムシの食害にあっていないかとチェックする毎日。
4月頃には、アオムシが、バラの葉を食べていて捕殺した。
シャクトリムシやアゲハの幼虫なども数匹やっつけた。
それ以来、昨日ケムシ1匹をバラの葉から取り除いただけで、ケムシたちは驚くほど発生していない。
とても助かるけれど、ちょっと不気味。
去年は、様々なケムシ類が発生して大いに困った。
毎年同じ状況になるわけはないにしても、この少なさはちょっと異常かもしれないと思っている。
ウメもサクラも今のところ、虫の害にあってはいない。
それとも時期がずれているだけだろうか。
あるいは、何か他の肉食の昆虫やカエルなどがケムシたちを食べてしまっているだけか。
ケムシたちいたらいたで困るのに、いないと変に思うのはだから、わがままだ。

今年は、昨日、桜前線がやっと北海道最北端の稚内地方に届いたかと思えば、九州中国四国地方は10日ほども早い入梅だという。
近畿東海関東も、今週入梅になる可能性も高いとか。

そうだ、気候変動に合わせて生き物も調整するのだろうし、もう少ししたらケムシがわんさかと湧き出てくるかもしれない。
彼らだって必死に生きているのだ。

小さな事を見て気を揉むよりも、大きな流れの中で物事を見ていこう。
自然は、その調整能力を発揮して、生きるべき命を定め篩っていく。
うまいサイクルが出来上がっているのだ。
それに例外はない。
人間が自分で自分の首を絞めることをしているならば、それもまた自然の自浄作用といえようか。

何はともあれ、ケムシにイモムシたちよ、我が花木果樹の葉を食い荒らさば悪いが即座に捕殺させてもらうぞ。