rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

雨のせい?寒さのせい? ともかく眠い、ここ数日。と、映画”2012”

2011-05-31 00:28:12 | 映画
台風2号と梅雨冷えの影響なのか、とにかく一日中眠い。
この3日、とてつもなく眠い。
本を読もうとして、数ページすると、いつの間にか目が閉じている。
こうやって、さて何について書きましょうと考えるそばから、眠気が押し寄せてくる。
眠さが、気力を手もなくなぎ倒していく。
自分の体調のせいばかりではないらしい。
家族して、ぼんやりあえなく眠りの虜となっているようだ。
がいして、雨の日とか、寒さの後の暖かな日、暑い日の後の涼しい日などは、眠くなるものだ。
体が、自衛のために休もうとしているのだろう。
昨今の天気気温の変化は、激しすぎる。
世界各地でもそうだし、大きな地震や火山の噴火など、地球の大変動期にさしかかったかと思うように。
それは、地球の生の営みの一環で、その上に黴のように蔓延っているヒトには、なす術もない。

一昨日、家人が”2012”という、SFパニック映画を観ていた。
あの地震が起こる前に観たときには、マヤの予言にそうあったなというくらいだったが、ひとたびあの震災を経験すると、そんな日がいつ来てもおかしくはないと、妙にリアリティーを持って、心に迫ってきた。
旧約聖書にあった、あの大洪水とノアの箱舟は、過去のヒトに刻み込まれた恐怖の記憶の記録ではないかと。
いろんなSFパニック映画がある中で、近年のものでは”インディペンデンスデイ”に次ぐ、映画だと思う。
子供が観ても大丈夫な、娯楽作品として。
本当に、急激な(映画は、あまりにもせっかち)地殻変動が起こり、人類の存続を掛けてヒトが足掻くならば、出来うる限りやるしかないだろう。
それもまた、宇宙での一つの出来事。

おやおや、眠かったはずなのにこんなに書いてしまった。
いまはすっかり目が冴えてしまったけれども、なに、布団に包まれば、こんな肌寒い夜、あっという間に夢の住人になれる。
時計の針が、12時を回った。
シンデレラには薹が立ちすぎているが、ここら辺で止めにしよう。
おやすみなさい。

今日の一枚、デヴィッド・シルヴィアン”Everything and nothing”

2011-05-29 23:28:17 | 音楽たちーいろいろ
台風2号の影響で、今日は一日雨が降り続いていた。
洗濯干し部屋兼アトリエの部屋で、昨日から聴いている音楽は、若き頃より敬愛するデヴィッド・シルヴィアンのアルバム”Everything and nothing”
雨の日には、彼の曲はとてもなじみがいい。
イギリス風土が生んだ、苔むす石の建物、なだらかに続く丘、ひやりと湿気を帯びた冷涼な気候、人の情念が繰り出した歴史、そんな諸々のものを内包する音楽を作る。
歌は、決して上手とはいえない。
う~ん、むしろ『念仏』
読経、または、民俗音楽にブルガリアとかケルトとかインドとかにもあるような、唸りと細かな振動を持った歌声で、声もまた楽器という扱いのようだと思う。
そうだ、”Everything and nothing”
2000年に出たアルバムで、いままでの自分の曲をリマスターしたもの。
ベストに近いのかもしれないけれど、繊細に作り変えられたまた別の味わいがあるアルバムに仕上がっているので、もし、興味のある方は、この1枚から彼の世界を知るのにお勧めする。
Blackwater 、Wanderlust 、 I Surrender
これらは、瞑想に誘う音楽。
回を重ねて聴くたびに、心の奥にひたひたと押し寄せてくる水のごとく、命を潤していく。
ふと思う、彼の音楽は、クラッシック音楽に近いと。
音のハーモニーが、優しく調和共鳴して、空間を満たしていくところが。
体温と同じ温度の重さを持った液体の中に浮遊する感覚。
鮮明な意識をもったまま、音のアクアリウムから世界を眺める、そんな印象をもたらす音楽なのだ。
あらためて、彼の音楽を心底愛していると思ったのであった。

経済特区、中国福建省:アモイ(廈門市)

2011-05-29 00:07:55 | 街たち
”にじいろジーン:世界見聞録”、中国福建省:アモイが舞台。
台湾の海を隔てた西側に位置する、温暖な気候の豊かな土地。
西の奥地にある武夷山は、世界遺産に登録されていて、そこの谷間で栽培される茶葉は、有名な烏龍茶として世界に流通している。
今ではその希少性ゆえに出回ることがなくなった、幻の銘茶:大紅坊という名の木が、切り立った岩の中腹にいまも葉を生い茂らせていた。
なんでも、この武夷山の茶葉がイギリスに渡り、紅茶の起源になったらしい。

そういえば、20年以上昔、たしか烏龍茶のCMで切り立った岩山が点在する霞がかかった風景が使われていた。
いや、もっと前だったかな。
九州鹿児島空港から、鹿児島市内へのアプローチの道すがら、通ったところの風景が、一回りサイズダウンした武夷山のそのような風景に通じるものを認めて、かつて、日本列島がユーラシア大陸につながっていたのだという悠久の時を感慨深く思ったのだった。
以来、中国のそんな風景をこの目で見たいと思っている。

アモイに隣接して、コロンス島(鼓浪嶼)という、まるで小ヨーロッパのような租界地がある。
どうやら、アヘン戦争でイギリスに押収されたような経緯があり、その後共同租界として繁栄したという。
今でも当時の佇まいは残され、異国情緒溢れる観光地として健在だ。
そういえば、世界に進出している華僑の多くが福建省出身者という。
身近に西欧文明を経験して、海外に飛び出すハードルが低くなった為かもしれない。
また、コロンス島は、ピアノの島という異名を持つ。
イギリス租界当時のピアノが多数現存するのもあるが、ピアノの保有率が中国国内でずば抜けていることと、西洋音楽がこの地に浸透しているせいだ。

多民族が暮らす中国。
大別すると7つの言語がある。
民族がひしめく国では、民族間の争いは絶えることがなく、大きな国を形成した場合には、強力な統治システムが布かれる。
歴史に揉まれたおかげで、この国民はまことにしたたかで強い。
何事も飯のねたにしてしまう。
だから思うのだ、この国と同等に渡り合おうなんて、無謀だと。
同じアジアに住むものとして、付かず離れずの距離感を持ち、決して相手を無防備に信じきることなく、付き合っていくよりあるまい。
もともとの感覚・価値観が、違いすぎるのだから。

大西洋に臨む漁師町ポルトガル:ナザレ、7のおまじない

2011-05-28 00:27:47 | 街たち
『世界ふれあい街歩き』ポルトガル:ナザレ。
海と空の青、屋根瓦のオレンジ、建物の壁のクリームベージュ、街を囲む緑。
浜辺や路地には、アジなどを並べ干物作り。
ポルトガルは、EUの中でも経済的に貧しい国。
ヨーロッパでも現れた、バブルの影響は薄い。
でも、人々は生き生きとした表情をしていた。
ナザレの女性たち、主に既婚の中年女性たちは、伝統衣装として膝丈のスカートを重ね履きにして、ショールを掛け、髪を結って眼鏡(サングラス)をかける。
街にいるおおかたの女性が、同じような格好をしていた。
その重ね履きのスカート、正式には7枚重ねだという。
7の数には、大切な意味が込められている。
一つのサイクル、区切りとして、週7日、虹の数があり、そこから、7つ目の波が来ると海が落ち着くいわれから、漁に出た夫や息子の無事の帰還を願う、おまじないのためだ。
女性だけではない、男性:漁師たちにも伝統衣装がある。
イギリスから伝わったチェックのシャツに捲り上げやすい形をしたズボンだ。
それに、ポケット代わりの長いニット帽と、いざという時の救命ロープにもなる長い腰帯。
その格好で、フェニキュア人から伝えられた、舳先の反り上がった「アルティシャベガ」という船に乗り、何百年と魚を獲って暮らしてきた。
男が魚を獲り、女が干物を作り家を守る。
そして、自分の役割を果たし、互いを思いやってねぎらい、ささやかな人生をつつましく生きていく。
多くを望まなければ、満ち足りた幸せな人生だ。
衣食住足りて、自分のことを認めてもらえれば(まずは家族から)、ほとんどの人はそれが幸せなのだと思う。
ナザレの街で見かけた人たちは、確かに幸せそうだった。
美しい街並みに、恵みをもたらす海、華美ではないが堅実な生活。

一昨日まで読んでいた本、アントニオ・タブッキ「レクイエム」の舞台は、ポルトガル:リスボンだ。
タブッキが敬愛する詩人フェルナンド・ペソアは、ポルトガル人。
これには、ナザレは出てこなかったが、それより南にあるアレンテージョ地方の人と風物がとりあげられている。
ポルトガルは、ヨーロッパにあってヨーロッパにあらずのような件があった。
ヨーロッパに憧れ、そこに飛び込むと夢破れて失意に沈むと。

かつての大航海時代の繁栄は、教会などに名残をとどめる。
ナザレの17世紀の崖の上の居住区で売り子が売っていた、ナッツやドライフルーツは、その余韻。
さくらんぼのリキュール「ジンジャ」とそれを飲むチョコレートで出来たカップなども、大航海の産物か。
ポルトガルギターの哀愁を帯びた音色のファドの演奏で、船の中で、あるいは陸の酒場で人の心を癒したのだろうか。
繁栄を経験しうらぶれた国の歴史が、一歩ひいた位置で人の繁栄を見られる目を養ったのかもしれない。

物質文明の繁栄は、本当の意味で、人を幸せにすることは出来ない、そんなポルトガルのメッセージを受け取ったような気がした。

咲き誇る薔薇たち

2011-05-26 23:40:43 | 植物たち






昨年の11月に、植え替えした薔薇たち。
手間隙愛情をかけて世話をすると、けなげに薔薇は応えてくれた。
大輪の花をたくさん咲かせて、人の目を楽しませ、心を癒してくれる。
それなのに、この薔薇たちの名前を忘れてしまった。
名前、人間が勝手につけたものだけれど、大切なもの。
薔薇を作った人の思いを、その名に託しているから。
本当に、ごめんなさい。
忘れてしまったお詫びに、きちんと世話をしよう。
青虫や尺取虫、アブラムシが悪さをしていないか、毎日見張ろう。
そして、毎日話しかけ、褒めてあげよう。
星の王子様が、あの薔薇の世話をしたように、毎日、心を込めて。
目には見えないけれど、種族も違うけれど、ましてや、言葉も通じないけれど、きっと通じ合える何かがあるような気がする。
時には、無生物の機械にだって、気持ちが通じる気がするから、花ならばなおのこと。
言葉が分からなくても、遠く離れていても、この不思議な『通じる気持ち』があるのならば、どうか善き力として、この地球、いや、宇宙全体を満たせないだろうか。
争いやわだかまりのない、清浄な世界に導けるものとして。