入梅直前の晴れて暑い日、展覧会を4つもめぐるハードな一日だった。
東京ステーションギャラリーで開催中である、フィンランドの作家ルート・ブリュック展。
NHK日曜美術館で紹介されたからなのか、まだ10時そこそこなのに多くの鑑賞者がいた。
繊細な文様を刻んだセラミックに、色鮮やかかつ繊細な色を彩りを施したパーツを組み合わせた作品が特徴的な作家。
立体の持つ存在感と、まるで細胞を思わせるかのような大小さまざまなパーツが、静かなポリフォニーを奏でているようだ。
彼女の作品は、慎ましい生のあり方から出発し、物質の円環という壮大な宇宙の真理へと移行していくが、ともに根底に流れるのは愛なのだと思える。
6月16日までと、残すところ一週間の会期だが、一見の価値があるよい展覧会だった。
国立新美術館では、「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」が開かれている。
時代が大きく変わろうとする19世紀末の熱気と気負いが感じられるそのような作品があり、うらやましさを感じずにはいられない。
社会構造、経済、モラルなど、さまざまなものが変化し、芸術が、教会や王族貴族だけのものではなくなり、新興勢力のブルジョワや一般市民にも降りてきた。
それを敏感に感じ取ったクリムトは、怯むことなく果敢に表現の幅を押し広げていく。
そこに、わが国の文化も多大な影響を及ぼしているのは、一大ブームとなったジャポニズムでお分かりいただけるだろう。
クリムトは、器用で何事もさらりとこなしてしまい、格の差を遺憾なく見せ付けてくれるが、対照的にエゴン・シーレの内向的で不器用だが切れのある作品は、鑑賞差の神経を苛立たせ不安にさせる。
非常にすばらしい作品であったのにもかかわらず、鑑賞者が絵の前に少なかったのは、ゆっくり心置きなく鑑賞できる利点があったとしても残念な気持ちになる。
ある意味、クリムトとシーレは、コインの裏と表、どちらも見てもらいたい。
東京展の会期は8月5日で、6月12日から24日までは、高校生は無料とのこと。
パナソニック汐留美術館で、「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」を、今熱の23日まで開催中。
平日でゆっくりと鑑賞できると思いきや、なんと30分待ちのの入場制限、大好きなモローだけれど、これには驚いた。
さて、モローの絵は、聖書や神話をモチーフにしたものが多い。
初期のころは、アカデミックに陶器の如く滑らか丁寧なマチエルで描かれたものが多いが、エスキースとして水彩や油絵の具を使い大胆なタッチで描く手法を取り入れたものに変わっていく。
わたしは、「サロメ」や「貴婦人と一角獣」に見られる、この大胆さと細やかな線描を融合させたものが好きだ。
さらに水彩画はそれをも凌ぐほどに魅入られている。
以前このブログにも書いているけれど、パリのモロー美術館には、水彩画やデッサンを収めたパネルの箪笥がある。
それをそっと繰り出して、中の宝石に対峙する至福はなんとも言いがたいものだった。
もう一度、あの空間に居たいけれど、簡単に適わないから、今回の展覧会がうれしかったのだ。
最後は、東京都美術館の「クリムト展」。
修学旅行生も時節柄多かったが、6月1日から14日まで、大学生まで学生無料とあって、若い鑑賞者が多く来場していた。
金箔を使った有名な「ユディトⅠ」などももちろん素晴らしいが、一番のお目当ては風景画だ。
「アッター湖畔のカンマー城III」「丘の見える庭の風景」に見とれ、あと2枚くらいこのサイズのものがあればなどと、心の中で不満を洩らす。
いやいっそ、クリムトの風景画展として大々的に開催してもらいたいと、欲望が噴出してきた。
生と死、エロスばかりがクリムトじゃないと声を大にして叫ぼう。
プライベートで描き続けたという風景画は、純粋に描くことを愛する気持ちの現われで、クリムトの素の部分なのだ。
確かにセンセーショナルでも、キャッチーでもなく、所謂商業的に地味と思えるのはよく承知のうえ、それでも望んでしまう。
どうか、クリムトの風景画たち一同にお目見えできる日がそう遠くなく来ますように。