rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

無性に物悲しいときは、ジョエル・マイヤーウィッツの写真がいい

2019-06-30 22:00:20 | アート
bay sky

Cape Light Plate 7 Porch

どこかこの世ではない雰囲気が漂う、人物の写りこんでいない彼の写真が好きだ。
明かりの灯った家、夕暮れに輝くネオン、ビルと道路、やたらと長くて大きい自動車など、人と関わりの密なものであったとしてもだ。
そうだ、彼はエドワード・ホッパーの系譜、ものの捉えかたの随所にそれが現れている。
ほら、光のコントラストをソフトにしたら、マイヤーウィッツになる。
そして、どちらにもいいようのない切なさが、満ちているではないだろうか。

エドワード・ホッパー 海辺の家

一瞬で消えた6月 なぜか未来派 ジャコモ・バッラ

2019-06-29 23:22:22 | アート

ジャコモ・バルラ 「綱で引かれた犬のダイナミズム」

今、ものすごく驚き、大事なことを忘れていたと後悔した。
6月が、あっという間に消し飛んでしまったような感じなのだ。
なんというか、それほど精神的に疲れきっていたのだと思う。
毒が、断続的に流入し、浄化作用を上回っていて、最近では睡眠にまでその影響を及ぼしていた。
けれど、涼しさの助けもあって久しぶりに眠れ、気持ちがやや上向きになっている。

だから、スピードを描いた、ジャコモ・バルラ 「綱で引かれた犬のダイナミズム」の絵をここに貼ろう。
シンプルな色と構図が、高速回転する足の残像で、スピードを可視化している。
それがとても面白く可愛い。
1912年あたりに描いたものだが、もちろん大真面目、ずいぶんと思い切ったことをしたものだと思う。
未来派という名にふさわしい、先取り感覚だ。
おかげで、鬱々と疲れきっていた私の心の澱を蹴散らしてくれて、今はかなり気分がいい。

絵というものは、自分のペースで向き合える、違う世界が存在する。
ほとんどが、自ら赴かなければ出会えないけれど、求めるならば、いつでもその扉を開いてくれる素晴らしい世界がある。
こうしてたびたび絵に心を救われることが、これからもあるだろう。
そして、自分もそのような世界を作り出したいと願っている。


収穫のあとは

2019-06-23 21:36:13 | ベリー類の栽培


今年初ジャム、ブルーベリージャムと3種類のベリージャム。
3種類のベリージャムは、なんとワイルドベリー60%・ラズベリー30%・ストロベリー10%の今までにないテイストとなった、ワクワクドキドキものだ。
加熱しているときの匂いは、甘く爽やかでフローラルな、これまで嗅いだことのないもの。
甘さ調整で味をみただけだから、本格的に賞味するのが待ち遠しい。
トーストに塗るか、ヨーグルトに合わせるか、どうしよう。
しかし、画像自体は何年も前にとったものとなんら違いはないから、あまり意味などないかもしれない。
しいて言うなら、ワイルドベリー多めだと色も軽く鮮やかな気がしている。


季節の収穫 ベリーあれこれ

2019-06-16 17:28:16 | ベリー類の栽培

ワイルドベリー


ブルーベリー

昨日の嵐、というよりも台風、そして数時間に渡る雷といった荒天のあとは、突き抜けるような青空と真っ白な雲、照りつける日差しが、いっきに夏を連れて来た。
我が家の上空付近は、航空路となっていて、大海原を渡るイルカの一行のように流線型の機体が、一方向へ流れていく。
しかし、私はのど風邪で、金曜日から具合が悪い。
狭まった気管といがらっぽさに辟易しながら、時折やってくる軽やかな風を心待ちにする。

そして季節は、我が家のベリーたちで賑わう頃となりだした。
今日収穫されたブルーベリーとワイルドベリー、ラズベリーもあったけれど、それは早々に冷凍してしまったので写真はない。
これらは、体調の思わしくない私に変わって、家人がせっせと摘んでくれたものだ。
ブルーベリーは、早生のノーザンハイブッシュ系が8種類くらい混ざっている。
古くから育てているものは、その名前を記録していなくて、「一郎」「次郎」「三郎」と、適当な愛称をつけて区別するくらいだ。
だから、私の一番お気に入りの一郎を苗木で買い増ししたくても、それができない。
家人が、試行錯誤しながら挿し木で増やそうと奮闘するも、なかなか成果を得られない。
思うように行かなく、手間のかかるブルーベリーたちが、なにやら子育てに似ているなどと感想を洩らす家人に、新たな世界が広がったようだ。
今まで、植物にあまり関心のなかった家人にブルーベリーやラズベリー栽培の主導が移ったことで、ともに共有できる世界が増え、とても喜ばしく思っている。

ブルーベリーは、これから一ヶ月以上ゆっくりと収穫が続く。
生り物は、それだけで心が楽しくなる。
それを支えてくれている家人に、ありがとう。



クリムト、モロー、ルート・ブリュック

2019-06-09 16:07:54 | アート
入梅直前の晴れて暑い日、展覧会を4つもめぐるハードな一日だった。

東京ステーションギャラリーで開催中である、フィンランドの作家ルート・ブリュック展。
NHK日曜美術館で紹介されたからなのか、まだ10時そこそこなのに多くの鑑賞者がいた。
繊細な文様を刻んだセラミックに、色鮮やかかつ繊細な色を彩りを施したパーツを組み合わせた作品が特徴的な作家。
立体の持つ存在感と、まるで細胞を思わせるかのような大小さまざまなパーツが、静かなポリフォニーを奏でているようだ。
彼女の作品は、慎ましい生のあり方から出発し、物質の円環という壮大な宇宙の真理へと移行していくが、ともに根底に流れるのは愛なのだと思える。
6月16日までと、残すところ一週間の会期だが、一見の価値があるよい展覧会だった。

国立新美術館では、「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」が開かれている。
時代が大きく変わろうとする19世紀末の熱気と気負いが感じられるそのような作品があり、うらやましさを感じずにはいられない。
社会構造、経済、モラルなど、さまざまなものが変化し、芸術が、教会や王族貴族だけのものではなくなり、新興勢力のブルジョワや一般市民にも降りてきた。
それを敏感に感じ取ったクリムトは、怯むことなく果敢に表現の幅を押し広げていく。
そこに、わが国の文化も多大な影響を及ぼしているのは、一大ブームとなったジャポニズムでお分かりいただけるだろう。
クリムトは、器用で何事もさらりとこなしてしまい、格の差を遺憾なく見せ付けてくれるが、対照的にエゴン・シーレの内向的で不器用だが切れのある作品は、鑑賞差の神経を苛立たせ不安にさせる。
非常にすばらしい作品であったのにもかかわらず、鑑賞者が絵の前に少なかったのは、ゆっくり心置きなく鑑賞できる利点があったとしても残念な気持ちになる。
ある意味、クリムトとシーレは、コインの裏と表、どちらも見てもらいたい。
東京展の会期は8月5日で、6月12日から24日までは、高校生は無料とのこと。

パナソニック汐留美術館で、「ギュスターブ・モロー展 サロメと宿命の女たち」を、今熱の23日まで開催中。
平日でゆっくりと鑑賞できると思いきや、なんと30分待ちのの入場制限、大好きなモローだけれど、これには驚いた。
さて、モローの絵は、聖書や神話をモチーフにしたものが多い。
初期のころは、アカデミックに陶器の如く滑らか丁寧なマチエルで描かれたものが多いが、エスキースとして水彩や油絵の具を使い大胆なタッチで描く手法を取り入れたものに変わっていく。
わたしは、「サロメ」や「貴婦人と一角獣」に見られる、この大胆さと細やかな線描を融合させたものが好きだ。
さらに水彩画はそれをも凌ぐほどに魅入られている。
以前このブログにも書いているけれど、パリのモロー美術館には、水彩画やデッサンを収めたパネルの箪笥がある。
それをそっと繰り出して、中の宝石に対峙する至福はなんとも言いがたいものだった。
もう一度、あの空間に居たいけれど、簡単に適わないから、今回の展覧会がうれしかったのだ。

最後は、東京都美術館の「クリムト展」。
修学旅行生も時節柄多かったが、6月1日から14日まで、大学生まで学生無料とあって、若い鑑賞者が多く来場していた。
金箔を使った有名な「ユディトⅠ」などももちろん素晴らしいが、一番のお目当ては風景画だ。
「アッター湖畔のカンマー城III」「丘の見える庭の風景」に見とれ、あと2枚くらいこのサイズのものがあればなどと、心の中で不満を洩らす。
いやいっそ、クリムトの風景画展として大々的に開催してもらいたいと、欲望が噴出してきた。
生と死、エロスばかりがクリムトじゃないと声を大にして叫ぼう。
プライベートで描き続けたという風景画は、純粋に描くことを愛する気持ちの現われで、クリムトの素の部分なのだ。
確かにセンセーショナルでも、キャッチーでもなく、所謂商業的に地味と思えるのはよく承知のうえ、それでも望んでしまう。
どうか、クリムトの風景画たち一同にお目見えできる日がそう遠くなく来ますように。