rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

好きな絵で締めくくる、アンゲラン・カルトン”アヴィニョンのピエタ”

2011-12-31 23:34:40 | アート

アンゲラン・カルトン”アヴィニョンのピエタ”

ルーブルに行くと、必ずこの絵の前にある椅子に座り、しばらくの間眺めている。
金地の背景に、悲嘆にくれ憔悴しきった聖母に抱かれた死せるキリストと、涙するマグダラのマリア。
安定した二等辺三角形構図が、この購いの瞬間が永遠に続き、皆の目の前に絶えず据え置かれるかのような効果を挙げている。
おそらく、描かれた当時は、色鮮やかだったであろう、今では変色退色し、極めて渋い色合いだ。
それが、この絵の経てきた時間を物語り、その間に繰り返されてきた人の諸々の営みを思う。
遡ることのできない時間。
”アヴィニョンのピエタ”の前にいる時間は、その瞬間だけのもので、これから来る先の瞬間がどうなるかなど、誰にも確証をもてない。
人の儚く短い一生よりも、幾世代にも超えて存在できるかもしれない絵に、切ない憧れと嫉妬を抱いた。
到底叶わないだろうと思いつつ、それでも自分の描いた絵が、誰かの手元に渡る幸運を得たとき、一条の望みを持つ。
この絵に向かうあいだ、いろいろな思いが頭の中を過ぎり、また戻るの繰り返し。
自分は、この絵の前に再び立つ日がやってくるのだろうか?
小さくも消しがたい”希望”の光を胸に、次の瞬間を大切にしよう。

今年も、こうして過ぎ去ろうとしています。
ただ長いばかりとは思いつつ、こうして書き進めてしまいますが、ここを訪ねてくださる方々に、お礼を申し上げたいと思います。
「ありがとうございます。皆様の来る年が、良き年になりますよう心からお祈り申し上げます。」

それでは、幸多き新年を。

いろいろありすぎた年

2011-12-30 23:43:43 | 随想たち
いろいろなことがありすぎて、思い出すにも骨が折れる今年。
・ニュージーランド地震
・チュニジアの暴動から始まった”アラブの春”
・東日本大震災
・東京電力福島第一原子力発電事故による放射能汚染
・テロ組織アルカイダの指導者オサマ・ビンラディンの射殺
・ギリシャ破綻から連鎖するユーロ圏の経済危機
・格差社会に抗議する欧米各国のデモ
・リビアのカダフィ政権の崩壊とカダフィの死亡
・TPP参加表明
・北朝鮮の金正日の死亡
・消費税増税案提出
・1年に3円も円高が進み、ドルは急落、1ユーロが100円を切るなど、国債基軸通貨の乱高下
など思い出してみたが、まだなにやらたくさんあるはずだ。

来年は、アメリカ、中国、フランス、ロシア、韓国など、大統領選が目白押し。
あれ、日本も危なかったりして・・・?
どこの国も、根深い病巣を抱えている。
いったい世界がどこへ向かっているのか?

先日、ある経済アナリストが、あるタレントに向かって性悪説に基づきすぎなのじゃないか?と言っていたが、日本は性善説により過ぎていると思う。
そして皆、他人に寄りかかり、当てにしている。
誰かが何かしてくれるだろう、誰かがどうにかしてくれるだろう、だから、自分じゃなくてもいいんだと。
自動車の教習所では、口をすっぱくしてまで、”だろう”運転はするな、”かもしれない”運転をしろと教え込まれるじゃないか?
”人は間違いを犯すもの””人は身勝手なもの”と、人を当てにしてはいけないと言われたではなか?
なのに、より大事なところでそれを疎かにする。

性善説に立たない欧米諸国がいいのかと言ったら、それもいけない。
上には上が存在するのだ。
人は、欲に弱い。
悪魔はそこを、抜け目なく突いてくる。
悪魔、それこそ人の中にある。
”欲”、二つの顔を持つものよ。

今年もあと残すこと一日。
どうか無事にこの一日が越せますように。

完全な制度政策はないにしても・・・

2011-12-29 00:57:44 | つぶやき&ぼやき
消費税を2015年度までに段階的に10パーセントにまで引き上げる方針を、政府与党が打ち出した。
何でも、2013年10月に8パーセントに引き上げるそうな。
いきなり10パーセントではショックが大きいから8パーセントにしようというのなら、各所の手間だかかる分、効率的ではない。
消費税は逆進課税なので、低所得者に負担が増える。
食料品などの最低品目を軽減課税にすると、小売業界の諸事務の煩雑化と、課税品目の線引きが難しいので、得策ではない。
給付金手当てなどの名目で、低所得者に再分配をはかるには、個人所得の正確な試算と個人番号制を割り振り管理の一元化を進めなければならない。
などとまあ、初めに増税ありで、無駄な支出の削減に公務員給与の引き下げなども努力するといっている。
言わせてもらえば、初めに徹底的支出の改善でしょう。
それができて後、消費税増税を提起するべき。
でないと、増税しましたその後が、めっぽう怪しくて約束なんてしたのかしらと嘯かれてしまう。
そりゃこちらだって日本が二進も三進も行かないくらい借金まみれで、お金をかき集める手立てが乏しいのもうすうす分かっている。
でも、無駄金を撒き散らしているのもよ~く知っている。
外資系企業にだっていいようにされていたり、とあるいく国々の巾着と太鼓持ちをしているし、己が目先の利益に目が眩みっぱなしの同胞たちもぶら下がっているし、なかなかすっきりさっぱりシェイプアップできないだろうと思う。
何とかなるさ、誰かが何とかしてくれるさの、責任先送り楽天主義は、もう誤魔化しの効かないところにきているんじゃぁなかろうか?
必死で取り繕うとしている年金だって、誰かが100年大丈夫なんて大法螺吹きまくっていたが、とっくの昔に破綻している始末だ。
一等最初の消費税3パーセントは、少子高齢化による年金と医療福祉の補填と充実のための名目で課税開始したのは、今では神話。
これで納得した自分も、甘くて愚かだった。
こんなんでは、消費税が25パーセントまで上げられたとしても、焼け石に水になるに違いない。
もっとも、そこまで消費税が上がったら、スラム街はできるは、貧困層は餓死に病死におい込まれるだろう。
税金納めて、いわゆる国民の義務を果たしたくても、まともに働ける仕事について稼げないでは、国は成り立ちはしない。

今回の原発事故の各所の対応のずさんさ、ひいては、個人のモラルを問うしかないまでの悲しさに、心が砕けている。
昨日のNHKスペシャルと、今日のニュースステーションを見て、なおさら心が砕け散った。
個人のモラルというならば、防護服を着た放射線量計測員の発した「すぐにここから逃げろ」の言葉に、人としての良心が表れているだろう。
事故後各地に現れた放射線量計測員が、どれほどいたのかわからない。
その計測員以外にも、避難民に警告を発した人がいるのかもしれないが、個人レベルでしか良心を発揮できない現実に暗澹とする。
組織にいては、良心を行使するのも障害だらけでままならないのか。

社会の底辺、しかも隅のほうから世の中を見上げ回している自分の浅はかな考えでは、国を統括するものの目線を理解できないといわれるかもしれない。
世の中は単純明快ではなく、様々なことが複雑に絡み合ってできていて、”良心”という不確かで甘っちょろいものに重きを置いてはいけないと諭されそうだ。

不完全な人間が、完璧な社会をつくれると思っていない。
けれど、生きている以上諦めきれるものでもないのだ。
しかたがないから、”個人のモラル”頼みになるのかな。
あ~あ・・・

やってみるものだ新たな発見、レンコンと鶏肉の煮物を焼く

2011-12-26 23:52:38 | 食べ物たち
先日、義母から”レンコンと鶏肉の煮物”をもらった。
子供たちは、あまりそれを食べない。
冷めた煮物は、この寒さで箸が進まない。
電子レンジを極力使いたくないので、どうしようか思案していた。
煮た鳥肉は、生臭さが残りやすく、冷めたものはどうしても避けてしまう。
そこで、ふと思いついた。
フライパンで焼いてしまおう?
鶏肉はそれで良しとしても、レンコンは・・・これも一緒だ。
少しサラダ油を多めにして、鶏肉は皮を下に焼き始める。
少ししてから、レンコンも同じフライパンで焼く。
ジュージュープチプチ焼ける音。
香ばしい匂いもしてきた。
鶏肉の皮がパリッとなった頃、返して肉の面も焼き、レンコンも焦げないよう返しながら焼く。
レンコンの表面が、こんがりいい色になったらおしまい。
いよいよレンコンを食べてみる。
表面のカッリとしたところと、中のほくほくしたところの食感が絶妙。
なんともいえない味わい深さ。
もちろん、鶏肉は言うまでもなく美味。
ふむふむ、やってみるものだな。
子供たちも感動して、すっかりきれいに平らげた。
これからは、”鶏肉とレンコンの煮物”の第二の楽しみ方、”焼煮物”を、レパートリーの中に堂々と入れよう。
実に、美味しい。
もし、”レンコンと鶏肉の煮物”というか、レンコンの煮物が残ったときには、どうぞお試しあれ。
目から鱗・・・となるやも知れませぬ。

ちなみに”レンコンと鶏肉の煮物”は、油で炒めた具材に醤油砂糖で味付けした素朴なもの。

猫、好き・すき、歌川国芳

2011-12-25 00:14:24 | アート

猫/しゝ・みゝづく・はんにやあめん

「美の巨人たち」歌川国芳”絵鏡台合かゞ身」猫/しゝ・みゝづく・はんにやあめん”。
猫好きの国芳が、幕末に生きる江戸っ子の心意気を猫に託して描いた団扇絵。







国芳の描く猫は、妖怪じみた表情をしたものもあれば、妖艶な色香を漂わせたもの、おどけたもの、なんとも多彩で見ていて飽きない。
ついつい猫萌えしてしまう。

今日、自宅前の古い公民館の軒下に、大きな三毛猫がどっしりと座っていた。
顔の真ん中辺りが真っ黒い、ちょっとブ猫であった。
猫に合図を送ってみたら、知らない奴にはなびかないぞとばかりに、のそりと建物の縁の下へともぐり込んでいった。
その風情が、国芳の猫そっくりに思えた。

我が家も一時期、野良猫の集まる猫屋敷になったことがあった。
あの強烈なマーキングにほとほと困ったものだが、いつしか一匹、また一匹と減っていった。
野良猫も多かったが、野良犬も相当数いたので、きっと猫たちは野良犬との戦いに敗れ去ったのか、我が家にいついた捨て犬のせいなのか、どちらともわからない。
今は、ねこを定期的に訪ねてくる野良猫が2~3匹いるくらいか。

とにかく、国芳の猫の凄さは、猫まみれで暮らした国芳ならでは。
藤田嗣治の猫も、なかなかの猫っぷりだが、洒落がきいている国芳に利があるように思う。
国吉の猫、実に蒐集したいのであった。