rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

輝度と照度

2016-01-30 23:46:26 | つぶやき&ぼやき
2020年を目安に照明を完全LEDへ移行するとの政府が方針を打ち出した。
それに伴い、各家庭の照明はもちろんのこと、街路灯など私たちを取り巻く明かりは、LED照明によってなされることになる。
もう多くの街路灯がLED照明へと取り替えられ、冷たく眩い白い光が夜の中に燦然と輝いているのを目にしている方も多いだろう。
あるいは、車のヘッドライトの強い光に目が眩む経験をした人もいると思う。とにかく、LED照明は明るい、LEDそのものがとても輝くのだ。
その割には、あたりを広く照らすことはない。
照明器具の明るさ自身つまり”輝度”と、照らす範囲”照度”は比例しないということか。

そこで、街路灯の明るさは、輝度優先か照度優先かを自分なりに考えてみる。
まず徒歩で移動する場合が少ない田舎において、街路灯は夜道の道先案内人とも思えるから、ぼうっと明るいよりははっきりと輝いてくれたほうが目立ってわかりやすく心強い。
広く周りを照らさなくとも、不便はないということだ。
しかし、住宅などが隣接しあう都市部においては、多くの物陰が存在するところを徒歩もしくは自転車などで移動するのだろうから、よりあたりを照らし出すほうが防犯に良いように思える。
次に、家庭内での照明器具としては、私は断然白熱灯派で、次に暖色系の蛍光灯、そしてあまり明るすぎないのがいいと思っている。
蛍光灯にしても、光源を近くに持ってくると、微かに光の振動を感じて、目が疲れ精神的にイライラ感が醸成されるので、あまり好ましいものとはいえない。
さてLEDだが、容赦ないまでのあまりに強い光のために特に直接照明としては遠慮したい照明である。
まだ我が家にはLED照明はないけれど、実家のダイニングテーブルを照らす照明が白色LEDが使われていて、冷たい光でせっかくの食卓が無機的に映っていただけない。

では、自動車のライトなどはどうであろうか。
あまり強い光を必要としなく、しかも有色で明度の下がるサイドランプやテールランプ、ウインカーにおいてはLEDを使っても問題ないと思われる。
けれど、強い光を必要とし、あたりを広く照らさなくてはならないヘッドライトにおいては、LED照明は一人よがりすぎるのだ。
先日、雨の降る夜間運転したときのこと、対向車がLEDヘッドライトを搭載し点灯していた。
前方10mくらい前あたりから視線を車道外側線のあたりにむけても眩しさは軽減されず、5m前からほどからすれ違うときにかけてはただただ白と黒だけの世界になってしまった。
いやはや困ったものである。
果たしてLED照明は、安全面のうえから自動車のヘッドライトに向いているのかどうか疑問ひとしきりな経験である。

たしかに省エネかもしれないけれど、それならば柔らかな光のLED照明のあり方や、場合によっての向き不向き、寒冷地での信号機など、用途に応じての照明器具を今一度考慮してはどうだろうか。





モディリアニ、天使か悪魔か

2016-01-25 22:58:42 | アート

Girls in blue


Girl with hat

モディリアニは、非道。
容赦なく対象に踏み込んでいく。
時には慈しみを持って、あるいは欲望を剥き出しにして奪い取ろうとする。
危険なものには、悪魔的魅力がある。
モディリアニは、半分天使、半分悪魔の仮面をつけた何者かなのだろうか。


Reclining nude

ポリーニ、再発見

2016-01-24 23:07:29 | 音楽たちークラシック



Pollini Chopin Polonaise op. 53 Live

最近の朝の楽しみ、FMのクラシック番組。
数日前の朝、ショパンのピアノ曲が流れていた。
なかなかいいけれど、なんかポリーニのような気がする・・・と思っていたならば、そのようだった。
実はショパンと言ったらポリーニといわれているのだが、どうも自分の好みに合わなかった。
しかし、歳をとって好みが変わったのか、それともポリーニの良さがわかるくらいまで成長したのだろうか、それはどちらともいえない。
けれど、ポリーニを再発見できたことは、私にとって宝物が一つ増えた感覚でとてもうれしいのであった。

7の段の壁 その2

2016-01-22 23:00:12 | つぶやき&ぼやき
そう、先生の言ったことは、子供にとっての”金科玉条”なのだ。
これは中学生、時には高校生になっても続く。
たとえば幾通りかの方法で解ける算数の問題があるとしても、先生がこう解きなさいといった方法以外は一切認めず、時には先生によって一つの道へと軌道修正をなされることも起こる。
算数の数学の、一つの応えにたどり着く道が一つではないというとてもわくわくする魅力を封印されてしまい、考える楽しさを発見する機会を奪う危険性がある。

ささやかな学習塾を通して見えてきたものは、とても憂える現実だった。
掛け算の7の段の壁は、そそり立つ第一の壁、あるいは篩なのかもしれない。
その壁を構成するのは、子供の能力だけではないのは、もう察しがつくだろう。
一つだけを変えればことは良くなるほど、簡単ではない。
親と子のかかわりあえる時間、子供の時間を容赦なく奪うツール、自由な時間を作らせまいとする習い事や学校の部活動、やたらと難しく量も多い学習要綱などだ。
子供が、人が、希望を持って学び生きていくには、多くの障害がある時代になっているのだろうか。


7の段の壁 その1

2016-01-21 23:01:16 | つぶやき&ぼやき
九九は、基本小学校2年生で学習する。
とにかく丸暗記に徹する。
順に暗唱、逆からの暗唱を反復して、反射的に数字が出るまで習得するのだ。
ところがどうしたことか、7の段はどうも苦手な子供が多いらしい。
その一因に、7の段を暗唱するときの数字の言い方がある。
7×2は”じゅうし”、7×6は”しじゅうに”、7×7は”しじゅうく”となっている。
大方の子供は、はっきりと声に出しその意味を理解するのだろが、一方確実に意味を理解せず言葉も曖昧にしか発音しない子供が存在する。
はっきり発音しないから、”じゅうし”が”じゅうしち”となったり、”しじゅうに”が”しちじゅうに”、”しじゅうく”が”しちじゅうく”に入れ替わる。
また、掛け算の意味を理解できず、概数の観念ももてないから、修正が難しい。
ならば、”じゅうよん””よんじゅうに””よんじゅうきゅう”と言い方を変えたらどうなのかと子供に提案したならば、「学校の先生の教えたのと違う」と言って聞く耳を持たない。
これは掛け算ばかりではなく、いたるところこまかなところまで及んでいる。

おっと、もう遅い時間に・・・
続きは後日。