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rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

別れを惜しみ、DIC川村記念美術館

2025-02-25 16:27:55 | 随想たち


何事も不変であるわけにはいかない。
しかし、人間の素晴らしい営みの結晶を保持して公開する美術館が終わりを告げるのは、なんとも心が痛く寂しいものだ。
古典から現代美術まで幅広く、しかも良質なものをコレクションしているDIC川村記念美術館は、私設美術館とは思えない充実振りを誇る。
そして、私の好きな美術館では、日本国内において最も好きなところだ。
コレクションの量と質、展示の仕方、環境的に静かで手入れの行き届いた庭園など、総合して非の打ち所がない。
けれども、時代がこれを許さないのだろう。
国立博物館でさえ、資金難でクラウドファウンディングを立ち上げて資金を集めているのだ。
どうやら、人類は人類を否定したいのではないかと思えるほど、嘆かわしい行いだ。
何かを作り出し、昇華させることができるという、人間に与えられた行為の中でも素晴らしいこの上澄みは、失ってしまっては取り返しのつかないものだ。
データがあり複製できるからよいというものではない、受け継がれてきた時間と人の意思という目に見えないものも加わっている、それを切り捨てることが果たしていいのだろうか。
また、せっかくこうして集められて公開されていることから受ける文化的恩恵が、失われることに失望を隠せない。
本来ならば、国が維持を引き継ぐのが最適解なはず。
それができるようならば、日本もまだ存続していけるかもしれない。
人間の誇り、意地が枯れないで欲しいと願っている。

家人は、レンブラントの「自画像」に、私は、ロスコの連作「シーグラム」とボナールの入浴をする裸婦に別れを惜しんだ。
よく晴れてキリリと寒い一日だった。

シルエットMt.FUJI 

2025-01-27 21:21:37 | 随想たち
昨日の夕方、毎月一回は食べようと決めているスリランカカレーを目指して家人とドライブをしていた。
日中は強い西よりの風が吹いていたため、空にはほとんど雲が浮いていない状態だ。
もしかすると夕焼けをバックにしたシルエットの富士山が見られるかもと期待して、南のほうを注意してみていると、その姿はあった。
ちょっとだれたプリンのようではあるが、紛れもなく富士山の特徴を出している。
家人は運転をしていたため、それを見ることはできなかったが、「富士山が見えると、訳もなくうれしくなってしまうのは、日本人だからなのだろうか」と富士山に対する思いを話していた。
さすがにDNAにその気持ちが刻み込まれているとまではいかなくても、日本の価値観として刷り込まれているように思える。
直線距離にして100km近く離れていても、その姿の特長的なところを見られるよい所に住んでいて、結構幸せだ。

さて、今月の中ごろあたりが見ごろであったアトラス彗星は、日没直前に西の空の低い位置に出現するという、私にとってはほぼ絶望的なものだった。
だから日本の、世界の方々が映像に収めた姿を見ていた。
なおさらに彗星の尾が長く緩やかなカーブを描く、その優美な姿をこの目で見たかった。
ただ見るという行為だけれど、それがどれほど心を震わせることになるかは、たとえ彗星でなくても誰しも経験があるだろう。
それはとても個人的なもので、とてもかけがえのない経験だ。
その経験、思い出が、個人にとって本当の財産と言えよう。
私にとって、ボッティチェリの「春」やモローの「一角獣」、ブリュージュの街並み、日光白根山の山頂からの眺め、薄暮のころの身近な景色、しし座流星群の大火球など、たくさんの思い出が宝物だ。
これからも、様々なものに心を震わせて、集めていきたい。
私だけの、家人との、子供たちとの共有できるものも一緒に。


喪失と獲得 パワーポイント

2024-10-08 10:24:27 | 随想たち
目の前に還暦が視野に入ってきた今日この頃、また新しいことに挑んでいる。
万年就活、転がる石を実践しているロックな生き方しかできないためだけど、ホント、苔が付く間なんてありゃしない。
体はきちんと加齢していて、いろんなところにガタがきているのにだ!
いまだ諦め悪く絵描きになりたい承認欲求の権化といっても、それは作品を作り、あわよくば人に見てもらい程度のもので、極々控えめだと思っている。
ところが今、人前でなにやら話さなくてはならない状況になっている。
もちろん、生きていくためのお金を稼ぐ仕事の一環で、成人している社会人ならば至極当然のことだ。
その仕事ために、パワーポイントでレジュメを作る作業を、先月からぼちぼち始めていた。
基本、一人で何かを考えて作ることはむしろ楽しく、使ったことのないパワーポイントを効率度外視でいじりながら慣れていくというもの。
一回目のレジュメは、いきなり入力しながら作ったので、内容的、画面構成的に貧弱であったし、なにより初めて講和をする緊張感で、いろいろとお粗末だったと反省している。
人様の大事な時間を無駄にしてしまった呵責で、次のものは、イメージを練ってからエスキース(素案、プランニングの過程)を繰り返し、慎重に進めている。
人生の成長曲線の頂点をしばらく前に越えて下降線を辿る今は、「喪失」の連続だ。
けれど、ただただ失うばかりではなく、「獲得」することも可能なのは、救いがある。
もっとも、「獲得」には、「時間」と「労力」が以前の数倍になることは確実だけれども。
それでも、目標に楽しみながら取り組めれば、少々のもどかしさと挫折感も、ここまで人生を歩んでこれたことが支えとなって、獲得することの励みとなる。

さて、このブログのプラットホーム「ぷらら」のサービス終了の案内が届いていた。
2025年3月31日で、サービス提供を終了するとのこと。
私がブログを始めて、この10月で14年目となる。
キリがいい今月でここを閉鎖しようかどうか、迷っている。
今までのデータも、特にダウンロードして保存せずに、終活として消滅しようかとも迷っている。
どこか別のプラットホームに移行する、または新規で始める、いろいろ考えあぐねている。
たしかに、ブログをすることは、ちょっとした励みと、生活の中のポイントではある。
手放すには、寂しい気がするのもホントだ。
こう、ぐだぐだとしていると、すぐ年末、年明けになるだろう。
いまのところ、そのあたりが目安として、今までまともに描かなかった巳年の年賀イラストで締めくくろうと、ぼんやり思っていた。

緑の威力が増し、ツバメが宙に翻る

2024-05-21 16:58:37 | 随想たち
本当ならば、のんびりしていては困る経済状況。
なのに、いまだ週一回勤務のままにいる。
その通勤は、片道1時間ほどかかり、ほぼ田舎道、田園風景の中、車を走らせる。
晴れた日などは、エンジンもよくまわり、少し開けた窓から花の甘い香りを含んだ初夏の空気が流れ込む。
水鏡だった田んぼに緑の苗が植えられ、苗の隙間には空が映り込んでいて、今だけの特別感が切ないくらい凄い。
木々の緑も、やわらかでバリエーションに富んでいたものが、鮮やかさを増して原色味を帯び、既に色の幅が狭くなって夏を先取りだ。
ツバメたちは、晴れた日は高いところを舞うように、雨が近くなると低空を切り裂くように飛び回っている。
通勤路沿いにおける季節の移ろいを、週一回という間隔が感じさせてくれるようだ。


桜を心行くまで堪能する「桜活」

2024-04-13 14:50:03 | 随想たち
タイトルに「桜」とあっても、画像がない矛盾。
しかし、私の心の中には、ソメイヨシノに枝垂桜、山桜や大島桜など、たくさんの桜が納まっている。
家の庭にも数本の桜があるけれど、どこかへ出かけるときは、あえて桜のある道を通ったり、雑木に混ざって咲いている桜を見つけてみたりと、ことさら桜を意識する。
今年から行くことになった職場の周りに見事な桜が植えられていて、さらに「桜活」がはかどった。
もし順調に生きていたとしても、あと桜を見られるのは20回もあるかどうか。
そもそも、記憶に残る物心ついてからだとすると、人は80回桜を見られたならば、とても幸せなことだ。
その歳年、同じ感じで桜が咲くわけではないから、毎回新鮮な思いで桜を見ることだろう。
実に当たり前の平凡なことであるが、それに気づき、大切にすることは難しい。
実際私は、この歳になって深く感じ入った。
これも、「在り難い」に通じるところといえる。
だから「桜」を見られたことに感謝し、「桜」が体現する生命を慈しみたい。