rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

2021年はボナールで

2021-12-31 23:51:29 | アート

「手すりの上の猫」 (1909)

やさしく穏やかな色合いのボナールで、今年を締めくくりたい。
総括としてではなく、希望として。
しかし、どこか寂しげで空虚感が漂っているのは、どうしても不安な感想を拭いきれないから。

今年も、このブログにアクセスしていただいてありがとうございます。
どうか皆様に、幸多きことを願っております。

やっぱり昔の小さな作品

2021-12-30 23:27:18 | 創作活動

サロメ


ビーナス


マグダラのマリア

ほぼ忘れていた銅版画作品。
6×8cm程の大きさだったように思う。
タイトルも多分こんな感じといったところ。
現物は、どこかにしまってある。
昔のケータイで撮ったもので、画素数がめちゃ低く、それに荒をごまかして貰っているはずだ。
やはり2008年の日付が入っていた。

そろそろお別れのガラケー

2021-12-27 23:49:50 | モノたち
2026年を待たずして、ガラケーからスマホへと変えなくてはいけなくなった。
使っている二つ折り携帯電話が壊れたのではなく、今のネットワーク事情から弾かれすぎて、やむなくスマートフォンにならざるを得なかったのだ。
それに伴い、ガラケーのデータを見返していると、10年以上も前の写真が入っていた。
あのバカねこちゃんの丸々と元気な姿や、幼かった子供たち、もちろん自分や家人もあり、しばしの間思い出に浸る。
そう考えると、良くぞ永きに渡りこの携帯電話を使ってきたものだ。
バッテリーもまだそんなに弱ってはいないし、さすがにカメラのレンズ部分は摩擦で曇り機能しないが、まだまだ使えそう、2026年までもいけそうだ。
今のスマホに慣れた人たちには何かと不便であろうが、用途を通話とメールに限っているから、頻繁に携帯電話を気にしなくて良いし、なにより洪水のごとく押し寄せる情報の波を物理的に制限できるところが良い。
家にいるとWi-Fiがありいつでもネットにアクセスできる環境にあると、ついついモバイルを手にする機会が増えてしまう。
ふと冷静になって思うと、ずいぶんとモバイルなどのネット世界に時間を費やしていて、すべての時間が無益ではなくても、何かしら大切なもの、時間と自分の頭と心で考え感じることが減るのではないかということ。
便利なものが身近にあり利用できるのは素晴らしいけれど、すべてそれに委ね頼ったり、ついには隷属するようなことになっては、道具が自らを損なう凶器となってしまう。
いついかなるときにも、そのものの持つ利点と弊害を評価して、主体的に扱う冷静な姿勢が問われているのだ。
とても難しいことではあるが、これからそこがより重要になるであろう。
物事を俯瞰的に見て判断を養う機会は、こんな些細なことにも存在するのだと、振り返りの時間を持てた日だった。
そしてアニミズム的に、10年以上共にいたSH705iⅡ感謝したい。

早めの餅つき

2021-12-26 21:42:22 | 日記
今年の餅つきは、例年よりも早かった。
昨日のうちに外の井戸端で、1斗3升5合のもち米米を研ぎ、浸水させる。
北西からの寒風が吹きつけるめちゃくちゃ寒いなか、もち米2升をずつ蒸かし、餅つき機でつく。
はじめはもち米5升分で鏡餅にお供え用丸もちと伸し餅を、あとの6升分では青海苔を入れたものや塩漬けした紫蘇の実を入れたもので変わり餅を作る。
また、この地域ではメジャーなもち米とうるち米を合わせた「たがね餅」も、青海苔と紫蘇の実を入れて作った。
途中お昼をはさみながら、6時間かけての餅つきだ。
もちろん、お昼にはつきたての餅を使った雑煮を食べた。
今はほぼ高齢者世帯といっていい状況なのに、この量の餅を作るのは、自家消費ではなく、親類に配る目的があるからだ。
それは、古くからの慣習で、保存食でもあり特別な食べ物の餅を振舞うことが、とても大切なのだ。
餅はいつでもどこでも買える物なのにと不思議に思っていたけれど、地域や年代により価値観が違うのは自然なことだ。
自分ももう少ししたならば、老いた体を動かして、今日のことをなぞるのであろうか。
それとも、配りたい先の価値観が変わって、それを無用とするのだろうか。
すべては流れ移り往き、縛られるものではないのかもしれない。