rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

大人気だよ黄金色のミモザ

2019-03-18 22:54:45 | 日記


我が家の大きく見事なミモザに見とれる人続出。
お彼岸でお墓まいりに来る人たちが、枝垂れるように咲いている黄金色のミモザを見て興味を示しているらしい。
そこで、義母は、一枝手折って知り合いの人たちにミモザのおすそ分けをしているというのだ。
親戚の人の感想で、「まるで南ヨーロッパの景色みたいだ。」とあり、それを聞いた私は、我が意を得たりとしたり顔をする。
そもそも、道路に面した小高い土手の際にミモザを植えて花をたわわにしな垂れさせ、コート・ダ・ジュールの庭を連想させたかったのだから、そこは大成功といえるだろう。
小さな人が、黄色なポンポンのたくさんついた一振りを採ってきて、花瓶に挿した。
せっかくだから、私も明日は職場にもミモザを咲かせよう。
ちなみに、ミモザは小さい人の誕生記念樹として、我が家にやってきたのだった。

日常的にジャズボーカル、たとえばマデリン・ペルー

2019-03-17 14:50:01 | 音楽たちーいろいろ
Madeleine Peyroux Dance me to the end of love


Madeleine Peyroux - The Summer Wind


人に持てるものには限りがあるのだろうかと、ちょっぴり寂しくなるこのごろ。
テクノやロックをこよなく愛し常に聴いていた家人が、近頃ドラムの刻むリズムやシャリ感を強調したエレクトロニックサウンドに疲れたと言い出した。
それが嫌いになったわけではないけれど、耳に痛くて日常的に聴くことができなくなったらしい。
それで、若いころには興味のなかったクラシックや、ボサノヴァ、とある理由から敬遠していたジャズへと音楽の嗜好を広げてきた。
最近、女性ジャズボーカルに傾倒していて、特に固定はなく、心が落ち着くような曲調のものを聴いている。
もともとそちら側も守備範囲だった私のために、甲斐甲斐しく視聴環境を整えてくれた。
年とともに趣味嗜好が変化するのは自然だとしても、加齢で起こる身体の変化で聴き取れる音域が変わり、同じものでも違うように感じてしまうのは、とてもせつない。
違う良さを得られるのだから、欲張らなければいいだけの話ではある。
しかし、好きなものの良さを感じられなくなるのは、簡単に割り切れるものではない。
家人のその寂しさをともに感じながら、あらたな「よきもの」を見出し、めでていこう。
小さな私たちは、まだ知らない「よきもの」がたくさんあるのだから。

春の妖精、黄色いポンポン、キーワード

2019-03-15 14:52:18 | 植物たち






ミモザが満開。
黄色いポンポンを青空に差し出している。
午前中は、ニホンミツバチのお客さんがどっと押し寄せ、ブンブンワーンとにぎやかだ。
耳を注意深く傾ければ、「春だ春だ、おいしいご飯がこんなにいっぱい食べきれないほどあるよ、黄色に輝くまあるいポンポン、小さなお日様もらってこう」と、おしゃべりが聞こえてきそうだ。
かたや私は花粉対策で、マスクにゴーグルと重装備。
大まかな構図を決めたらせわしなくシャッターを切り、花の香りも嗅いでみることなく、早々に家への中へと引き上げた。
何かとても残念ではあるけれど、ミツバチが喜んでくれるなら、それはとても楽しくうれしい。
最近の私のキーワードに「小さな幸せ」がある。
毎日を過ごす中で、いかに「小さな幸せ」を見つけられるか、それが心豊かに生きる極意の一つなのではないかと実感している。
「小さな幸せ」探し名人を目指して、日々精進していこう。


嵐が去り、白梅香る

2019-03-11 21:57:48 | 随想たち


まるで台風のような嵐だった。
夜半前から本降りとなった雨は、朝の通勤時間帯まで降り続き、その後も強風と時折混ざる雨が昼過ぎまで居座った。
そして、夕日の周りを、大量のスギ花粉飛散がもたらした花粉光環が、くっきりと縁どる。
私と帰宅がちょうど重なった小さな人が、満開の白梅の枝を一振り折り、私のところへ持ってきた。
今年のえげつないほどの花粉を避けて家に引きこもる私に、梅の香を届けてくれたのだ。
それを空色の一輪挿しへ活け、ミニチュアの観梅セットが作られた。
ちょっとした心遣いが、なんともうれしい。
何気なく人を思いやる気持ちは、この白梅に劣らず美しいものだと思う。

象徴絵画、続々 ギュスターブ・モローの展覧会

2019-03-10 13:44:33 | アート




今年は、大好きな象徴主義絵画の展覧会が目白押しだ。
グスタフ・クリムト関連が2つと、ギュスターブ・モローだ。
名前まで被って、なにやら運命的なものも漂っている。
この象徴主義、19世紀末に花開いた芸術の潮流で、なぜに今これらが日本に集結するのかを思うに、現状が世紀末的様相を呈しているのに呼応してのことではないだろうか。
これまでとは違う、別のステージへ向かう移行期を敏感に感じ取り、旧時代へのオマージュと、文化が退廃からの腐敗を示唆するかのよう。
来年を境に、すべてにおいて大きな変化が、いっきに訪れる予感がするのだ。