rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

由緒ある古寺も努力のいる時代に

2013-09-29 23:01:48 | 随想たち
今日は、近くの1200年ほど前に創建された由緒ある古寺のお祭りに行ってきた。
そのお祭りは、七日七夜読経が途切れることのがなく、たしか900年前に始まったものとされる。
境内には樹齢千年はあろうかという大銀杏が二本、神木として祭られている。
このお祭り、20年ほど前までは、多くの出店が境内や参道などに軒を連ね、多くの参拝者がひきも切らず来て栄えていた。
しかし、女性ドライバーが増え、そう遠くないところにショッピングセンターができ、子供たちの娯楽も変化したことから、お祭りの吸引力は弱まったようだ。
なぜなら、出店はちょっとした商店街と等しく、日用雑貨に衣類などを購入する機会でもあったから。
子供たちには、輪投げに射的、綿飴などの駄菓子という娯楽が待っていた。
また、信仰に於けるお寺の役割が希薄になって、信心などという行為が重要ではくなったことも大きいだろう。
人があまり寄り付かなくなったお寺は、その存亡が危ぶまれる。
そこで、人をひきつける付加価値を持たなくてはならなくなり、境内のはずれ、以前は雑木林か竹やぶだったところを切り開いて、山百合を植え、彼岸花を植えて、見所を作った。
きょうは、赤の彼岸花が満開に咲き、訪れる人の目を楽しませていた。
由緒あるお寺もたいへんな時代になった。
古くからの信仰の拠りどころというだけでは、もうやっていけないのだ。
少しでも多くの人の関心を集め、世代交代する檀家達を繋ぎ止めなくてはならない。
田舎ばかりではないけれど、跡を継ぐ人がいなくて絶える家もでてくる。
時代の流れとはいっても、1200年以上も続く古寺を絶やすことはできない。
だから、努力する、花をたくさん植えて付加価値をつけるのだ。

天気に恵まれた今日は、絶好の写真日和。
もちろんカメラを携えていった。
彼岸花に向けてシャッターをきる。
そうこうするうちに、子供たちは道を外れ、あまり人の通らない山へと続く階段を昇り始めた。
そして悲鳴。
小さい人がハチに刺されたと叫んでいる。
中くらいの人と慌てて階段を駆け下りてくる。
何のハチに刺されたか分からないというが、至急毒抜きをしなくてはならない。
水のあるところまで、家人と中くらいの人に背負って小さい人を運び、第一回目の毒抜きを家人がする。
それから家へ戻って、第二回目の毒抜きをストローを使って行い、救急外来で医者にかかった。
血圧も心拍数も落ち着いているので、消炎鎮痛剤を処方され家に戻る。
熱を持ち痛みを伴って腫れているけれど、大事に至らなくてよかった。
いつもならば、口うるさいほどハチに注意と言って聞かせていたが、今日はそれをしなかった。
もう大きくなった子供たちの危険察知力を当てにしたのだ。
いまさら遅いが、注意を促すのを止めてはいけない。
誰しもうっかりということはある、だから注意しそれを思い出させる必要がある。
その先は、各自の判断力に任せるとしても。
まったく、お参りしたばかりなのにこの顛末。
何事にも注意を怠るなとの思し召しか。
ああ、それで、写真の出来具合はまだチェックしていないのだ。
あとでよいものがあったなら、ここにのせよう。
ある意味、思い出深い一日になったのであった。


一面の彼岸花 29/9/2013




美人とコサックダンス、ウクライナのキエフ

2013-09-28 21:47:56 | 街たち
「にじいろジーン 地球まるごと見聞録」黒海を南に従えるウクライナの首都キエフ。
ドニプロ川が優雅に流れ緑豊かなこの街は、「森の都」と謳われる。
美人が多いことでも有名で、映画「バイオハザード」でおなじみのミラ・ジョボビッチもウクライナ出身だとか。
コサック・ダンスはロシアのものだと思われがちだが、実はウクライナ発祥で正式には「ホパーク」というらしい。ホパークは、勇猛果敢な戦士コサック兵が、鍛錬と戦の前の精神高揚を目的としておこなっていた。
近年では、男性のみだったホパークも女性の参加が認められ、伝統舞踊の趣をなしてきている。
ちょっと変わった建築物「怪物屋敷」は、アール・ヌーヴォー様式で、”キエフのガウディ”といわれるポーランド出身のレシェク・ホロデツキが設計したものだ。
建物全体が動物や怪物彫刻で装飾され、奇怪な様相を呈している。

それでは、グルメ。
「タラス・プーリバ」は、郷土料理を提供してくれる。
これもやはりウクライナ発祥の家庭料理”ボルシチ”は、キャベツ、ニンジン、タマネギなどどんな野菜でも具材になり、ビーツは甜菜の仲間でボルシチらしい色と酸味と糖分や風味に欠かせない。
食べる直前にサワークリームを溶かしいれるときれいなピンク色になる。
”チキン・キエフ”は、キエフ風チキンカツレツ。
バターの塊を薄くたたきのばした鳥の胸肉で包み、衣をつけてからっと揚げる。
淡白な鶏肉が、コクと風味がつきジューシーになっておいしそうだ。
「ワレニチナヤ」は、ウクライナの水餃子”ワレニキ”の店。
小麦粉で作った薄く丸い生地で、合いびき肉やジャガイモとキノコ、チェリーなど30種類の具材があり、何でも包み茹でる。

ウクライナは、険しい山のないなだらかな土地が続く。
圧巻なのは、広大なひまわり畑で、サマータイムの風物詩となっている。
ウクライナでは、ひまわりの種をよく食べるようだ。
ルアノヴスキー市場には、ひまわりの種の専門店が店を構えている。
煎って塩をまぶしたひまわりの種は、小腹が空いたときに食べるものなのだとか。
「ドミニク」では、ひまわりの種を使ったケーキ”ひまわりのノルヴァ”がある。
甘さ控えめで、口解けのよいケーキだ。

スラブ系では、よく刺繍を施した民族衣装がある。
「ルータ」は、伝統のヴィシュヴァンカを現代風にアレンジした服を展開する。
キエフでは赤と黒の糸の刺繍が伝統らしいのだが、それにとらわれずに同色系にシックにまとめた刺繍に明るくポップな色合いの刺繍をワンピースやドレスなどに刺繍し、ヴィシュヴァンカの復権を果たしている。
ほかに、個人でもアイディアを生かしてオンラインストアを構える人がいる。
オレーナ・シースニクさんは、足が本から突き出したデザインのユニークなブックマークを制作販売する。

「ラ・ルズ」は、スパ専門店。
サウナでおこなう白樺の葉マッサージは、白樺オイルが美肌効果を生む。
クリミア半島の土のマッサージは、アンチエイジングがある。
この土は、野生動物がキズを癒すため土にまみれていたことで特別な効果があると発見されたらしい。
シャルコー・シャワーは、高圧の水でマッサージをおこなう。
美人王国のウクライナの女性は、日々地道な努力をおこなってその美しさを磨き維持しているのか。

内陸にあるため、冬の寒さが厳しいウクライナ。
暖炉ペチカは、暖をとるための重要なもの。
また、その熱を無駄にしない工夫に、オーブンとしての機能もある。
陶器のつぼ型の鍋をペチカに出し入れに使う、小ぶりな「さすまた」のような器具は、16世紀あたりから使われているそうだ。

自分にとってのキエフは、以前住んでいた街のはずれにこの名のロシアレストランが初めての出会い。
まだ小学生だった頃、初めてピロシキやボルシチ、ビーフストロガノフを食べ、そこに飾ってあるキエフなどの街の写真やマトリョーシカを見て、異国情緒も味わった。
そうだ、「兼高かおる世界の旅」的片鱗に触れて、心ときめいたのを覚えている。
なかなか本物のキエフに行けそうもないけれど、夢は持ち続けていよう。
あの輝く黄色のひまわり畑を歩いてみたいから。

シャワーより湯船の季節

2013-09-27 23:27:45 | 随想たち
肌寒く、一枚羽織らなくてはいられない気温になった。
今夜は、空に多くの星が瞬き、冷え込む条件は整っている。

夏の間、建物全体が熱を持ち、浴室も例外ではない。
だから、湯船に湯を張るとサウナのようになって居たたまれないから、シャワーで済ませていた。
ところが、最近夜の温度がめっきりと下がったので、湯船に浸かることができる。
やっぱり湯船はいい。
シャワーだと、身体を洗浄する目的の、なにやら味気なさがあるのだ。
湯船に浸かるということは、リラックス効果が得られる。
ゆったり自分好みのお湯に浸るひと時は、わずらわされることのない至福の時間。
体の芯から温まると、内に隠れた緊張が解けるように感じる。

外国に1年ほどいたとき、基本シャワーだった。
それでもあるだけ素晴しいことなのだが、日本に帰ってきて湯船に浸かったときの感動は、今なお深く残っている。
温かい湯に浸かるということは、しばしば聞く喩えで「母の子宮に浮遊する胎児の安心感」なのだと感じたことはないだろうか。
そのせいか、健康によいといわれる半身浴よりも、とっぷり首まで浸かる、時には頭まで浸かる全身浴のほうが好きだ。
イメージの中では、大きな温かい水の中に漂っている自分がある。

ともかく、こう涼しくなったなら、湯船に浸かるのが最高ということだ。

難解かもしれないウィリアム・ターナー

2013-09-26 12:00:04 | アート

Rain, Steam and Speed: the Great Western Railway


Rockets and Blue Lights

イギリスを代表する18世紀から19世紀にかけてのロマン派の画家、ウィリアム・ターナー。
印象派よりもだいぶ早くに大気と光に魅了された男。
茫漠としたその画面は、印象派よりも形を留めず、時には大きなうねりを伴い湧き立ち、観るものに安心感を与えない。

先日実母の元を訪れたときのこと。
購読している新聞社が、購読者サービスの一環として社主催の展覧会で取り上げる画家などの複製画を頒布している。今回は、ターナーとラファエロ前派の特集だ。
実母は、装飾的で何が描かれているかはっきりとわかるラファエロ前派の複製画を取り置いていたが、茫洋ととらえどころのないターナーの絵には一顧だにしないで捨てていた。
たしかに、大方は理解しやすく装飾的な絵を好む。
気の毒なターナーは、美術史的価値は高くても一般受けが悪いのだ。
まだこれから10枚近く配られるというので、我が家の部屋に貼るために、取り置いてくれるように頼んでおいた。
訪れる子供たちの目に触れることができれば、知らず知らずのうちに彼らの滋養になるものと期待を持っている。

だから、ターナーの大回顧展があるようだが、どの程度関心が集まるか心配している。
「エル・グレコ」や「フランシス・ベーコン」もなぜかかなりの集客があったようだから、何事にも寛容で何でもござれの日本人は、ターナーにも足を運んでくれるかもしれない。
非実用の代表格アートは、頭で考えるよりもハートで感じるべきものなので、ターナーの黄色のダイナミズムに触れてみるのもよいだろう。
ちなみにターナーの絵に緑の色はほぼ存在しない。
第一に黄色、第二に黄色、第三・四同帯に青色と褐色といった具合か。
それらを巡っていると、壮大なシンフォニーが聞こえてくるはずだ。
たぶん、エルガーやワーグナーが。








Stonehenge


The Lake of Zug, 1843

「惑星ソラリス」

2013-09-24 22:51:49 | 映画
旧ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」は、今から43年ほど前に作られた映画だ。
映画の中に、当時の日本の首都高が、未来都市の風景として出てくる。
たしかに、複雑に立体交差した道路など、世界中探しても珍しいだろう。
この道路の場面は、モノクロで撮られていて、無機質で寂寥感をかきたてる。
いや、草木の生い茂る野原であろうが、素朴な家であろうが、どこであっても物悲しさを感じないところはない。
一頭だけ駆け回る馬も、その眼光には孤独が潜むのだ。
人は互いに言葉を交わしても、どこか虚ろでひとりごちているように見える。

惑星ソラリスの海は、知的活動を行い変容する摩訶不思議な海だ。
人間一人一人の記憶や思念に感応して具現化して対となって付きまとう。
どうやらそれは、その人の無意識や封じ込めた思考や感情を暴き出し、自分自身を理解しているのか問いかけているようなのだ。
まして他者に歩み寄り理解するなど不可能というもの。
それでも、真摯に向き合い自分自身を知ろうとすることで、ソラリスは更なるステージへと変化する。
おそらくソラリスは、人の意識の映し鏡とおもえる。
ほとんどの人は、分からないままソラリスに飲み込まれるに違いない。
ソラリスに居場所を与えてもらっても、安心感は得られない。
孤独がより鮮明になっただけだ。
しかし、本来人は孤独なもの。
人と分かり合えなくても、自分を知り孤独であると認識することで、他人の孤独を思いやれることが大切ではないか。

タルコフスキーの映画は、絵画のように美しく、詩のように説明的でない。
だから、雨水が地面にゆっくりと浸透し地下の水脈まで辿り着くには、たくさんの時間がかかる。
「惑星ソラリス」を観終わってからずっと、雨水がじわじわとしみ込み集まるまで、心がひたひたと震えていた。
今ようやく小さな流れができてきたように思う。
これが本流に合流できるか分からない。
途中で流れが消えてしまうかもしれない。
あの水辺に生える木々の間をぬけながら、さ迷い歩こう。
絶対的な孤独がいつも隣についているから安心だ。