先日、親しい友人と話をしておりまして、
「ねえ、”胡麻をする”ってどう思う?」という話となりました、
「”胡麻すり”も十分、能力のひとつだと思う、捉え方の問題だけどね。
というよりも、多少の胡麻くらいすれないとダメなんじゃないの・・・?
第一、胡麻をするにしても、最低限、擂り鉢と擂り粉木は、必要なんだから、
その位のモノを用意した上で、”胡麻すり”の是非を問うべきだわよね。」
ときました。
もう一人の友人にいたっては、
「幼い頃に、モンテッソーリ教育のひとつで、
”胡麻すり”というお仕事をしたことがあってね、
幼心にも、その”胡麻すり”というお仕事がしたくてたまらなくて、
やっとさせてもらった時に喜びを感じたものよ。
胡麻はすればするほど、胡麻本来の良い香りがしてきて嬉しくなったわ。」
ときました。
私が思うに、
中身のない”胡麻すり”は、本当に中身がなくてつまらないものだと感じますが、
中身のある人の場合は、本来の中身が本来の言動に出ますから、
”胡麻すり”にはならないのだろうな・・・と思います。
裏表のない=二面性のないものであれば、それは”胡麻すり”とはならないでしょう。
”胡麻すり”とは、
中身のない人間が、そして二面性のある人間が、
何とか、人に気に入らる振る舞いをして利便性をはかろうとしているとか、
へつらう様を言葉として表しているのかもしれませんが、
一歩間違えば、、、いえ、一歩間違えなくても、、、実際の本物の行為自体は、
”コーヒーの豆挽き”と同じと言えば、同じ!!
”胡麻すり”という表現は、何だか卑下する表現であって、
”コーヒーの豆挽き”という表現は、何だか芳しい表現となるのでしょうかね・・・。
私、”コーヒーの豆挽き”が得意なの!
私、”胡麻すり”が得意なの!
表現によって受け取り方は変わってしまうかもしれませんが、
最終的には、その人の中身自体が勝負ですから、
どちらにせよ、
自分の中身に自信があれば、
敢えて出てこない言葉なのだろうな・・・と思います。
中身で勝負していきたいものですね。
ーby事務長ー
「ねえ、”胡麻をする”ってどう思う?」という話となりました、
「”胡麻すり”も十分、能力のひとつだと思う、捉え方の問題だけどね。
というよりも、多少の胡麻くらいすれないとダメなんじゃないの・・・?
第一、胡麻をするにしても、最低限、擂り鉢と擂り粉木は、必要なんだから、
その位のモノを用意した上で、”胡麻すり”の是非を問うべきだわよね。」
ときました。
もう一人の友人にいたっては、
「幼い頃に、モンテッソーリ教育のひとつで、
”胡麻すり”というお仕事をしたことがあってね、
幼心にも、その”胡麻すり”というお仕事がしたくてたまらなくて、
やっとさせてもらった時に喜びを感じたものよ。
胡麻はすればするほど、胡麻本来の良い香りがしてきて嬉しくなったわ。」
ときました。
私が思うに、
中身のない”胡麻すり”は、本当に中身がなくてつまらないものだと感じますが、
中身のある人の場合は、本来の中身が本来の言動に出ますから、
”胡麻すり”にはならないのだろうな・・・と思います。
裏表のない=二面性のないものであれば、それは”胡麻すり”とはならないでしょう。
”胡麻すり”とは、
中身のない人間が、そして二面性のある人間が、
何とか、人に気に入らる振る舞いをして利便性をはかろうとしているとか、
へつらう様を言葉として表しているのかもしれませんが、
一歩間違えば、、、いえ、一歩間違えなくても、、、実際の本物の行為自体は、
”コーヒーの豆挽き”と同じと言えば、同じ!!
”胡麻すり”という表現は、何だか卑下する表現であって、
”コーヒーの豆挽き”という表現は、何だか芳しい表現となるのでしょうかね・・・。
私、”コーヒーの豆挽き”が得意なの!
私、”胡麻すり”が得意なの!
表現によって受け取り方は変わってしまうかもしれませんが、
最終的には、その人の中身自体が勝負ですから、
どちらにせよ、
自分の中身に自信があれば、
敢えて出てこない言葉なのだろうな・・・と思います。
中身で勝負していきたいものですね。
ーby事務長ー