ライトノベルセレクト
『啓蟄の少女』
啓蟄と書いて(けいちつ)と読む。
三月の五日か六日ぐらいから始まって二十日の春分の日ぐらいを、そう言うらしい。
意味は、冬ごもりしていた虫たちが、春の兆しに目覚めて穴倉や地面から顔をのぞかせるということで、春本番のイントロを表す。
天気予報のオジサンが言っていあたので、かっこいいなあと思って覚えてしまった。三回リビングでテーブルの上でなぞったら字まで覚えてしまった。
覚えてから思い出した。この字は学年末の国語のテストに「読み仮名を書きなさい」で出てきた。もう一週間早く天気予報でやってくれていたら、国語の成績は一点ぐらいは上がったのに。
今日は朝から雨だ。
「あ、パンが無い!」
お母さんがパジャマ代わりのジャージのまま、台所で突っ立っている。
「悪い、買ってきて瑞穂」
あたしは、クラブの地区発表会があるので早起きして……いや、しすぎて、テレビを点けながら、ボンヤリ外の雨を見て居た。朝ごはんは抜きでもいいかなと思っていたけど、お母さんが早起きしたので、どうやらありつけそう……と思っていたら、これだ。
「はいはい、今んとこ家でまともな格好してるの、あたしだけだもんね」
傘を広げて、コンビニへ。土曜の早朝、それも、この雨なので、誰ともでく合わさない。
最近まで畑だったところを埋め立てて、コインパーキングと、コンビニができた。ローファーに防水スプレーして、氷雨の中をコンビニへ。
マンションとコインパーキングの間に畑を潰したままの、十五坪ほどの土地があることに気づいた――なんで、ここだけ空いてんだろう――そう思いながらコンビニへ。
コンビニってえらいもんだと思った。便利だからじゃない。新築なのに、建材の臭いなんか、まるでしない。あたしんちは幼稚園のころに越してきたけど、新築だったので建材の臭いがひどく、肌にも少し湿疹ができた。
もっとも、そんなデリケートなのは、あたし一人で、他の家族は何ともない。お父さんなんか「近頃の新築は臭わないな」なんて鈍感。
昔は、新建材やクロスの接着剤の臭いなんかで、相当だったらしい。今のあたしだったら生きていけないかもしれない。
食パン二つと、ジャガイモのスナックを買って、人気のない氷雨の中に戻った。
すると、例の十五坪の土の中から、あたしぐらいの女の子が、モゾモゾと這い出てくるところに出くわした……ちょうど胸の下あたりまで這い出てきたところで目が合った。
金縛りにあったように体が動かない。やがて、その子はあたしを見据えたまま、全身を現した。身に一糸もまとわず、そぼ降る雨の中で雨水を滴らせながら、あたしに近づいてきた。
「あんた、見てしまったのね……」
あたしは微動だにできなかった……。
「……近頃の子は、こんなナリしてるんだ」
そう言うと啓蟄の虫のように這い出してきた女の子は、あたしと同じ制服姿になった。
気づくと家の玄関の前にいた。
朝ごはんを食べて演劇部の地区発表会に行った。
あたしは、気の進まない演劇部員だ。去年一年間演劇部にいて嫌になった。
高校演劇は、一言で言って自己満足の世界だ。創った芝居も客観的な評価がされない。
軽音とか、吹部、ダンス部には運動部並の評価基準がある。
演劇部にはないので、講師や審査員が、自分の主観で言いたい放題。ストライクゾーンが人によってまるで違う。
黒いものを白いとさえ言う。ある県では、原爆か反戦の芝居をやっていれば、必ず最優秀になるとも聞いた。
今日は、見本に去年のコンクールでいい成績を残したクラブが凱旋を兼ねてサンプル上演する。
S高校の『氷雨の中でも』という芝居、出来はいいんだろうが、あたしは問題を感じる。民族系の学校に行っていた主人公が都立高校に転学、そこで自分がクラスを変えて文化祭で成功し、自分の進路決定の正しさを、傷つきながらも自覚する、よくある自分探しの物語。
「竹島は竹島の竹島だ!」
と終盤近くで主人公が叫ぶ。
これは、まとまらないクラスにじれ、みんなからの協力も得られなくなった時に「余計なこと言わないで、わたしは、わたしの道を行くんだ」という意味で叫ぶ。
なんで「竹島は竹島の竹島」かと言うと、主人公の父親が、国籍のある国と日本の板挟みになったとき、思わず出てくる口癖で、そういう父を主人公は、どこかで「逃げている」と批判的である。だのに、最後に「自分は、それでもがんばるんだ!」という時に、父の逃げとも言える口癖を叫ぶだろうか。
それに日本人として聞いていると、ひどく冷めてしまう。また主人公の「がんばるぞ!」というシーンで叫ぶので、期せずして『竹島問題棚上げ論』に拍手させられる。とても違和感がある。
あたしは、感じたことをそのままSNSで書いてしまう。半分は備忘録のつもりだ。あたしの他にも平田さんという東京の高校演劇に詳しい人がネットで批判していた。
昼休みに、高校演劇の指導に熱心……と言えば聞こえはいいが、高校演劇から抜け切られない演劇ゴロの大学生たちが、あたしのところにやってきた。
「SNSで、これ書いたの君だろう」
だろうも何もない。あたしは顔写真も経歴も正直に書いている。
「はい、そうです」と答えるしかない。
「おまえ、平田みたいなやつだな!」
あたしは閃いた。平田さんのブログに汚いコメントを投稿したのは、こいつらだ!
「なんだ、こんなひどい評書いといて、その反抗的な顔は!」
あたしは、普段なるべく平静、あるいは無関心な顔をすることにしている。そのあたしが顔に出るんだからよっぽどだ。
「ちょっと待ってよ」
割って入ってきたのは、あの啓蟄少女だ。啓蟄少女はオニイサンたちを会場の外に連れ出し、数分後に帰ってきた。
「もう、これで二度と余計なことは言ってこないから」
「あの人たちは?」
それには答えず、あとを続けた。
「瑞穂ちゃんて、真っ直ぐで敏感なんだね。あたしが土から這い出してきたこと、まだ覚えてるんだもんね」
まるで友達のように啓蟄さんは、あたしの横の席に座った。
「加奈ちゃんてどうして……」
「虫は、人知れず地面から這い出て、小さいながら任務を果たし成虫になっていくの」
「任務?」
「うん、人間だけじゃ難しい問題を解決にね……その啓蟄の瞬間を瑞穂ちゃんは見てしまった。でも、直ぐに忘れるわ。今だって教えてもいないのに、あたしのこと加奈ちゃんと呼んだでしょ。じゃ、よろしくね」
そう言って加奈ちゃんが立ち上がったころには、筋向いの幼馴染の後藤加奈ちゃんになってしまっていた……。