小説大阪の高校演劇・2
『生徒もおらへんのに……』
今日も無言で玄関を閉めると学校に向かった。
この無言には、大した意味は無い。
一人暮らしだから、ずっと一人暮らしだったから「行ってきまーす」の習慣が無い。
早い話が六十を前に、未だに独身なのだが、別に独身主義者でもない。
結婚のチャンスはあった。それも大恋愛だった……と、自分では思っている。
既婚の男性教師の4%程度が元教え子と結婚している。結婚にまでは至らないが、教え子や元教え子と恋愛関係にあった者は結婚に至った者の倍はいるだろう。
通勤電車の中でびっくりした。Y子にそっくりな女生徒を見かけた。
むろんY子ではない。あいつはとっくにオバサンになっているだろうし、そもそも制服が違う。同じ路線で行ける伝統的女子高の制服をY子のように端正に着こなしていた。
花粉症なのだろうか、可愛くクシャミをかみ殺した。クシャミはアクビと違って完全にはかみ殺せない。字で現すと「クシュ」といった具合になる。
それが、Y子に生き写しだった。もしY子が有名タレントになっていたら、ソックリさんでテレビに出れば優勝間違いなしだ。
そんなバカなことを考えていると、一つの「有りうる予測」にたどり着いた。あの子はY子の娘かもしれない……!
この電車は、Y子が住んでいるT市の方からやってくる。Y子には大学生と高校に通う娘がいる。
スマホのバイブが着信を伝えたのだろう、その子は鞄からスマホを取り出した。吊り広告を見るふりをして首を動かす刹那、その子をまともに見た。半開きのサブバッグの中のノートの名前が見えた。苗字の一字だけが確認できた「原」が苗字の下に付いていた。Y子の今の苗字も下に「原」が付く。
オレは、通過待ちのI駅で車両を乗り換えた。平静を装い続ける自信が無くなったからだ。
Y子は、一年生の連休明けに、うちのクラブに入ってきた。
二年の時には担任になってしまった。そのころから、オレはあいつを意識し始めた。言っておくがオレは真っ当な教師だ。生徒を好きになったことなどおくびにも出さない。
「商品には手をつけない」
これは、教師の不文律である。
だが「忍ぶれど……」や「以心伝心」という言葉があるように、いつの間にかY子に気持ちは不確かながら伝わった。
三年の合宿にT山青少年の家に行った。夜空がきれいで最終日の夕食後、みんなで花火をやって、そのまま星空の観察会になった。
なぜか、Y子がオレの横にいた。そして気づくと他の生徒は、ほとんど宿舎に戻り、残っているのはオレとY子の二人になった。
「あたし、先生が好き。先生も多分そうでしょ……」
「え、あ……」
「その通りやったら、何も言わんとってください。そうやなかったら何か言うてください。十数えます。数え終わったら、あたしも宿舎に戻ります……」
二人の間は三十センチは空いていたが、互いの心臓の音が聞こえそうだった。
オレは何も言わなかった。Y子は一瞬熱いまなざしをオレに向けて、何事も無かったように宿舎に戻った。
卒業後Y子はR大学に進み、週末の二回に一回ぐらいの割でクラブを見に来た。そして、その夏のさ中Y子と将来を誓った。
それから、雲の上を歩くような気持ちでデートを重ね、二人の距離は三十センチを超えて縮んだ。
縮んで肌が触れ合うほどの距離になったとき、Y子の心に変化がおきた。
同じクラスで同じR大学に進んだ〇原と親しくなり、クラブにも顔を出さなくなった。
――もうお会いしません――
そう言いだして、それまでのオレへのお礼やら、〇原に心が移ったことは、自分の成長であり、その成長を促してくれたのはオレであることなどを紙屑が燃えるように言って、一方的に電話を切った。若いなりにけじめをつけ、オレの心が崩れ切る前に電話を切ったのだろう。
それからは、演劇部だけがオレの生き甲斐になった。早くに親を亡くし完全無欠な独身男には、クラブに全精力をかけるだけの時間的な余裕があった。また、クラブで実績を挙げることで、心の平衡を保ち、気づくと大阪でも有数な名門演劇部になった。
三年前に、三月ほど入院することがあり、戻ってみると、クラブは無残にも崩壊していた。オレは、オレの王国を作っていたに過ぎないことに気づいた。
それからは、クラブに熱が入らず、去年の夏には部員はゼロになってしまった。この新学年に部員が集まらなければ廃部である。定年も近い。それでいいと思った。
学校に着くと直ぐに大阪府高等学校演劇連合への加盟申請をやり、加盟費も自腹で払った。
そして、今朝電車で見かけた女生徒、その学校のSにメールを打った。
――貴兄の演劇部に〇原という生徒はいるか?――
Y子の娘なら、必ず演劇部に入っていると確信したからだ。
大阪の高校演劇は、芝居も人間のからみも面白い……。