大橋むつおのブログ

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らいと古典・わたしの徒然草・9『第二十九段 過ぎにし方の恋しさのみぞせんかたなき』

2021-02-18 06:53:13 | 自己紹介

わたしの徒然草・9

『第二十九段 過ぎにし方の恋しさのみぞせんかたなき』  

 


 兼好のオッサンはだれか親しい人を亡くしたらしく、この二十九段と、三十段はブルーであります。

「国体」

 ……おわかりになるでしょうか?

国民体育大会ではない。
国語と体育の時間割でもない。

英語でnational polity(ナショナルポリティー)というんだそうです。
揮発性の高い言葉で、この漢字で二文字。平仮名で四文字の言葉は、わたしが現職であったころ、口にするだけでこう言われました。

「反動」とか「保守反動」とか「アナクロ」とか。

 これにかわる言葉として、前世紀の終わり頃からがこんな言葉が使われ始めました。

「この国のかたち」

 この言い方は、みなさん抵抗がないようで、テレビのコメンテイターや国会議員の先生方もよく使われます。
 よく使われて、近頃では、いささか手垢のついた感じもしないではありません。しかし示す中味は国体同じであると思うのですがいかがでしょう。

「この国のかたち」を考えると、天皇と日本の関わりについて触れざるをえないのですが、触れてしまうと、その時点でレッテルを貼られそうなので、切り口を変えます。

 わたしの教え子で、優秀な理学療法士の子がいます。子、といってもこの道十六年のベテランですが。もとは大手市中銀行で、やり手の女性行員でありまし。仮にTさんとしておきます。
 阪神大震災のおり、あまりの惨状に居ても立ってもいられず、被災現場にボランティアとして救援活動に参加したTさんは。そこで運命の出会いをしました。色っぽい話ではありません。

 彼女は、被災現場で、「この国のかたち」に出くわしてしまいました。
 秩序ある被災者の人々。我が身のことのように挺身する警察、消防、自衛隊、そしてボランティアの人たち。

 彼女がボランティアとしてアシスタントになったのは、ある若い女医さんでした。
 この女医さん、自分自身がほとんど不治の病に冒されながら、被災現場での医療活動に挺身されていました。
 Tさんは、この女医さんに緒方洪庵の弟子のように付き添ううちに心が傾斜してしまいました。

 今風に言えば、心がヤバくなって、それまでの自分の銀行員としての安穏とした生活を捨ててしまい、
長期のボランティア活動に入って、完全にこの女医さんの助手になってしまいました。
 やがて、本格的に理学療法士の学校に通い、資格をとり、プロの理学療法士になってしまいました。
 震災で重傷を負った被災者を女医さんが治療し、回復期に入った人はTさんがリハビリを受け持つようになりました。
 そして、震災復興が一段落したころ、この女医さん自身の病気は重篤となって、ついに帰らぬ人になられ、Tさんは、その臨終にも立ち会いました。

 Tさんは、この女医さんとの出会いで「この国のかたち」に向き合ってしまったのだと思います。

 今般の東北大震災でも、このような「この国のかたち」が随所に現れたと思います。
 こういう国民性も包含した上で「国体」と言ってはいけないでしょうか。
 七十余年前の国家的災厄からの呪縛がまだ解けない現状では、まだこの言葉には揮発性の高い思い入れ、思いこみがあります。わたしも、人前では「この国のかたち」または「ナショナルアイデンティティー」という自家製の言葉を使っております。

 エピソ-ドをもう一つ。

 わたしの初任のS高は、当時大阪で、大関か前頭筆頭に入る困難校でありました。
 授業が成立しないのはもとより、生徒達からの教師への暴行は日常茶飯でありました。
 今だからこそ言えますが、職員室の前の廊下で教師が頭から袋をかぶせられ、数十名の生徒から集団暴行……平たく言えば、殴る蹴るの「リンチ」すらありました。
 教員室には、たびたび十人前後の生徒が殴り込みをかけてくれました(^_^;)。
 授業中に廊下を花火の水平発射もしてくれました(;'∀')。
 教科書に火を付け、燃やされたこともありました(-_-;)。
 板書をしているスキに、えんま帳が奪われ、戻ってきたときには、中味が改ざんされていたこともあります(;^_^。
 

 当時の先輩、同輩の先生方の名誉のために、念のため申し上げますが、この荒れようは、教師集団が、本気で学校を建て直そうとしていた諸々の試行錯誤と、努力への生徒達の反抗と、いら立ちの現れであります。
 この現状は府教委も知ってはいましたが、信じられないことに、オオヤケにはこう言っていました。
「大阪に、困難校は存在しない。課題を抱えた学校があるのだ」……大本営発表に似ています。
 グチっぽくなってきました。話を本筋に戻します。

 ある年の秋、ヤンチャクレの一人が就職の面接を受けに行きました。

 面接で、こう言われました。
「君の学校は、あんまりええ噂聞かんなあ……朝の登校のときなんか地元の人がえらい迷惑してるらしいなあ。うちの社員のなかでも……」
 と、いう内容のことを言われました。
 申し上げておくが、これは四十年も昔の話で、言った方も、言われて反応した生徒君にとっても、とっくに時効が成立しています。
 ヤンチャクレの生徒君は、ここでブチギレた。

「こんな会社、こっちから願い下げじゃ!」

 彼は、いすを蹴飛ばして、会社を飛び出してしまいました。
 彼の頭はスクランブルエッグになってしまいました。
 ふだん、あんなに嫌っていた学校の悪口をあからさまに言われて、急に湧きだしてきた愛校心をもてあましてしまったのです。
 彼は、学校に戻り、それまで一度も下げたことのない頭を、進路の教師に初めて下げました。

「せんせ(大阪弁は先生の最後の「え」「い」が、ちぎったようにない)ごめんな。オレ学校の顔つぶしてしもた」
 進路の教師は、あわてて、その会社にお詫びの電話を入れました。

 しかし、この生徒君は、不思議というか、めでたく合格となりました。

「今時めずらしく、愛校心がストレートに表現できる人物」というのが決め手であったらしい。
 彼の中には、知らず知らずのうちに「S高アイデンティティー」が身に染みついてのでしょう。

 兼好法師の中には、ここに示した「この国のかたち」というか「ナショナルポリティー」への信頼感があったのではないかと思います。
 彼の生きた時代は南北朝時代の前半にあたり、世は混沌としていました。
 しかし、彼の中では揺るがぬ、この国への信頼があったと思うのですが、いかがでしょう。
 それゆえに、過ぎにし方に想いをはせることもできたのでは……。

 深読みかもしれませんが、この過ぎにし方から揺るぎなき「ナショナルポリティー」を感じていたのではないでしょうか、教え子のTさんが女医さんからうけとめたように。

 乱暴なものいいですが、小学校から英語を必修にするまえに、「ナショナルポリティー」を、静かに、ゆっくりと。しかし真面目に考えるときではないかと思ったりします。

 どうも、ポテチ片手の話し方ではなくなってしまいました。それほど今般の東北大震災と多くの日本国民の態度は、わたしごとき者にも深い衝撃と感銘を与え、眠っていて何かを起こしてしまったようです。



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