徒然草 第六十一段
御産の時、甑落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣とどこほる時のまじなひなり。とどこおらせ給はねば、この事なし。
下ざまより事起りて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。
この段は、呪いについてであります。
兼好の時代は、お産にあたって、屋根の上から甑(こしき)をを落とし、安産のおまじないをしたそうで、その(甑)も大原産のものがいい。という話しであります。 甑(こしき)とは、土器の蒸し器の事。底に穴が開いており、ここから蒸気を取り入れ上にふたをして米とか蒸したものです。
どうやら、昔からのシキタリではなく、この時代、庶民の中で始まり、貴族社会にも浸透した、新しいお呪いだそうで、有職故実(昔のシキタリ)にうるさい兼好には珍しいことだったようです。
で、今回は、お呪いについて語ることにします。
お呪いの歴史は古く、旧石器の時代に抜歯や、前歯をノコギリ状に切れ込みを入れるもの、埋葬に当たっては、母胎の中の赤ちゃんと同じように、体を丸めて葬る屈葬をして、死者の生まれ変わりを願ったものあたりに始まりがあります。魏志倭人伝の中にも、倭人は、魔よけに、入れ墨(お呪いとして)をしていたとあります。
清少納言も枕草子の中で、恋しい人の夢を見るためには、着物を裏返しに着て寝ればいいと書いています。
今はどうなんでしょう。
子どもの頃は、怪我をしたら「ちちんぷいぷい」「痛いの痛いの、とんでけ~!」や、「えんがちょ」などが生きていました。『千と千尋の神隠し』でも、釜爺が千尋に「えんがちょ」を切ってやるシーンが出てきますね。
でも、今の子はやるんだろうか……。
正月には、初夢で良い夢が見られるように、枕の下に見たい夢の絵を描いておいた記憶があります。
前世紀には、コックリさんや、「愛国駅から幸福駅行きの切符」などが流行りました。わたしも北海道の友人から、昭和六十二年二月一日付のそれをもらって、いまでも大事にしています。清明神社とおみやげ屋さんとがグッズの販売をめぐって争ったことも耳に新しく残っています。
しかし、ごくローカルなものや、ほんの流行りとしてのものを除いて、お呪いというのは廃れてきているのではないでしょうか。
『千と千尋の神隠し』の「えんがちょ」も意味が分からず、ネットの知恵袋で質問している人がいました。「ちちんぷいぷい」も珍しく懐かしいために、テレビのバラエティー番組のタイトルになっているともいえます。
今は、お呪いは後退して、現実的な対処法が流行っています。結婚や就職は、神社などに願掛けに行くよりも、婚活、就活のセミナーなどが流行りで、一部のお呪いは人権上問題があるとされたりして廃れてしまいました。まあ、時代の流れであると言えばそれまでなのですが、なんだか生活上の潤いを失ってしまったと感じるのは、わたしだけでしょうか。
お呪いというのは、地域の中にコミュニティーが存在していて、年寄りから子供たちへ、子供たちの中でも、年長者から幼い者に伝達されてきたものです。
だから、お呪いの廃れというのは、日本固有の地域社会が衰退してしまったことの現れではないかと思うのですが。
現代社会のお呪いにあたるものは、一見文化的、科学的であります。
たとえば、空気清浄機、空気清浄剤で清潔を保つという「お呪い」です。あれって、大腸菌などの常在菌まで殺してしまって、人間の耐性を落としているとも言われます。
海外旅行に行くと水とかが合わずに、真っ先にお腹を壊してしまうのは日本人だと言われています。
また、今般のコロナ感染者が諸外国に比べて二けた少ないのも、サニタリーに関する日本人の感覚と言われています。これは、潔癖症とバカには出来ないですね。
スペイン風邪が流行った時、ポーランドの罹患者が少なかったと言われています。ポーランドでは、食後の食卓を度のキツイお酒で拭く習慣があって、そのために罹患者が少なかったという説があります。お呪いというか生活習慣の賜物といったところなのかもしれません。
携帯電話という神機があります。ここに、メールとかラインとかのメッセという「お呪い」が絶えず入ってきます。
――今、何してる?
――どこにいる?
――カラオケ行こうぜ!
いろんなお呪いが、入ってきて、人々は簡単に、このお呪いにかかってしまいます。
――今、何してる?――特になにも――じゃ、遊びに行こう。
――どこにいる?――電車の中――じゃ帰りにコンビニで、あれ買ってきて。
――カラオケ行こうぜ!――行く行く(本当は気乗りがしていないのに)
気弱な現代人は、携帯電話で、お互いにお呪いをかけて、縛りあっているように、わたしには思えるのです。だから……というわけでもないにですが、わたしは、携帯電話を持ちません。
日本最大のお呪いは、日本国憲法である。と言ったらお叱りを受けるでしょうか。
日本の国の有りよう(The national polity)を無視して作られた憲法は、日本人の紐帯(結びつき)を崩してしまい。今や、日本の世帯人数は二人を割り込もうとしています。
『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』
人間相互の関係を支配する崇高な理想……ちちんぷいぷいから、叙情性と人肌の温もりを抜いたら、こんな言葉になるのでしょう。
「ちちんぷいぷい」は、怪我をした子どもの周りに他の子達が集まって「大丈夫やよってに、泣かんとき」と癒しの言葉といっしょに出てくる温もりがありますが、前文は、政党のマニュフェストのように抽象的で温もりがありません。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して……に至っては、人類愛の極致であり、宗教の教義としては有効かもしれませんが、最高法規としての憲法としては、お呪いとしか言いようがないように感じます。