わたしの徒然草・15
ありがたい段です。
字や文章のヘタクソなやつが、ばんばん書きちらしているのはいい! と言ってくれています。まるで、悪筆、乱筆、支離滅裂な戯曲や駄文を書いているわたしに対して、七百年の時空を超えて兼好が励ましてくれているようです。
わたしはパソコンに馴染むまでは手紙魔でありました。常に定形最大の封筒と、便せん代わりの原稿用紙、それに八十円と十円の切手(よく、二十五グラムを超えて九十円になったので)と、万年筆のインクカートリッジは座卓横の小引出や、棚の上に常備していました。
たいがいの人は返事をくださる。封筒で返事がくるときは、迷惑がらず「また、お便りちょうだいね」であり、葉書ですます人は「もう、しばらくよこさんといて、邪魔くさいよってに!」という気持ちがこめられている。
勢い、封筒でくれる人には沢山送ることになる。たいてい四五通やりとりすると葉書になる。
そんな中で、わたしの手紙にめげず、それどころか倍の量にして送り返してくるやつがいた!
わたしの駄文の中にたびたび登場する、映画評論家のタキガワである。こいつとは二十歳ごろからの付き合いなのですが、仕事を辞めてから、付き合いが濃厚になりました。
昼は自分のパスタ屋でコックをやり、土日に映画を観て、評論の下書きを兼ねて手紙をよこしてくる。ときに、便せんに性格とは真逆の小さな字で四十枚を超えることもありました。いただいた手紙は、どなた様に関わらず、五年間は保存しています。このタキガワの手紙だけで、茶箱一杯分になり、溢れそうで広辞苑で蓋をしております。
現役のだったころ、定期考査の問題は、退職するまで手書きでやっていました。悪筆なのですが、ガリ版時代からの手書きで、芝居の台本のガリ切りなどやっていたので、「読みやすさ」には自信がありました。ところが、ある日、生徒にこう言われました。
「今時、手書きの問題出すのん、センセだけやで」
調べてみると、職員全員が、いわゆる「ワープロ」で問題を作っておられました。公文書も手書きで書いていましたが、わたしにとって最後の教頭が赴任してきたときに宣告されました。
「大橋センセ、公文書は、パソコンでやってください」
「そやかて、こないだまでは手書きでやってましたけど」
「あれ、前の教頭さん、パソコンで打ち直してはったんですよ」
と、あわれむように言われました。
駄洒落でもうしわけないのですが「ワープロ」では「わー、プロや」とは思えないのです。手書きの字には、人格や、その人の、そのときの気分が反映されます。わたしもパソコンに毒され、たいがいの便りはパソコンを使うようになりましたが、それでも手紙にしなければならないとき(上演許可の返事などは、手書きです。くだんのタキガワには、もちろん手書きで)。
逆に、わたしにくる手紙のほとんどがワープロであります。ワープロの文章は、いくら名文で書かれていても、見たとたんに、心が萎えます。
われながら前世紀の遺物です。ちなみに、わたしは携帯電話を持っていません。家人には「原始人!」といわれております。電話そのものを、ほとんどかけません。相手の状況や気持ちも分からぬまま、脳天気に「もしもし元気~!?」などとは、気の弱いわたしにはできかねます。ケータイに関しては、また別の駄文で書きたいと思います。
後半の「見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし」であります。
「字も文章もヘタッピーなんで、人に代筆してもらうのはウザイんだよな」という意味で、ここでいう代筆とは、恋文のことなのですが、恋文について書くと、これも長くなるので別の機会に。
代筆について。
卒業式の、送辞や、答辞は、たいがい教師の加筆訂正が入っていて、ほとんど教師の文章であります。
「梅の香匂い、桜も硬い蕾を付け始めた今日の良き日。先輩方をお送りするのは、嬉しくもありますが、後輩としては、一抹の寂しさを禁じ得ません。思い起こせば……」などと始まったら、まず間違いなく教師の代筆です。
生徒会の担当で、思いがけず送辞の監修係りにあたったわたしは、どうせ代筆になるなら、思い切り大橋色にしてやろうと思いました。
「梅の香匂い……」の慣用句の後、こうつづけさせました。
「ここには、百十二名の先輩方がいらっしゃいますが、三年前、同じ席に新入生として座られていたときは、二百四十名の先輩方がいらっしゃいました。ぼくは、今ここにいない百二十八人の先輩に想いをいたします。心ならず、中退し、別の道を歩まれている、その先輩方にもエールを送りたいと思います……」という意味のことに向けて行きます。
式場が少しずつ静かになっていきます。
近所や世間からは、「あかん学校」と、言われてきました。たしかに行儀も成績も良くありません。
しかし、あの子達は、中途で辞めていった仲間たちへの気がねがあったのです。事故に遭ったとき、自分だけが生き残った人が持つ心の痛みに似ていると思いました。代筆したわたしも、この反応には驚きました。アクタレに見える子供たちの心の中にも、ヒトガマシイ心がちゃんとあるのです。
しかし、そのくだりが終わると、また式場の空気が緩み始めます。
それでも、送辞担当の生徒は、間違えないよう、声が小さくならないよう、走らないよう気を付けながら最後まで読み通して、盛大に安堵のため息をつきました。
ハアアアアアアアアアアアア……
式場は暖かい拍手と微笑ましい笑い声が湧いてきました。溜息、グッジョブでありました。