徒然草 第七十七段
世中に、その比、人のもてあつかひぐさひ言い合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられね。ことに、片ほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまで、言ひ散らすめる。
簡単に言えば「世の中の人は、うわさ話が好き」だということを言っています。特に坊主なんぞというものは、お喋りでウワサ好き。ことの真偽も確かめず喋りまくるんだから、坊主には気を付けろと、坊主である兼好が言うのですからおもしろい。
「社会科は見てきたような嘘を言い」
現職時代に、自嘲と自重の念から、よく言ったことばであります。
「皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った」だけではつまらないので、中大兄皇子が蹴鞠をしていてパスエラー、転がり出た鞠の先に中臣鎌足が居て、「実は、殿下……」「ふむ、そなたも、そう思うか……」などと実況風景風にやって、生徒の関心を引きながらやったものであります。
むろんこの話は、言い伝えで事実ではりません。でも、見てきたように言います。
シーザーが暗殺された下りでも、シェ-クスピアの嘘八百から引用して「プルータス、お、オマエもか……!」などと芝居気たっぷりにやります。
人にものを伝える時は『印象付ける』ということが重要です。
相手に興味を持ってもらわないと、ただ「伝えた」とか「説明した」というアリバイや自己満足しか残りません。
手応えのある話し方を心がけました。
たとえば、鎌倉仏教というのを一学期の終わりごろに『鎌倉文化』の中で教えます。
それまでは、教義や修業が難しい密教が全盛で、その教義や修業が優しい鎌倉仏教が現れて、仏教は、一般庶民レベルにまで広がった。代表的なものが、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、禅宗などである……と、教えますが、これでは、ただの記号です。
密教の修業が、いかに厳しいかを延暦寺の千日回峰行の要素で示します。
比叡山の偉い坊さん(阿闍梨とか)になるために、千日のあいだ、休むことなく比叡山のみならず、一部は京都市街にまで入り込んで30キロの道のりを真言を唱えながら走り回ります。30キロというと、大阪市内から京都までの距離になります。
その様子を、実際に真言を唱えて教室の端から端を往復(約16メートル)して見せます。
ノウマク・サラバタタ・ギャティビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン……
教室の小さなモニターで動画を見せるより効果があります。
こういう千日回峰行は、普通の人間ではできません。
そこで、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経と唱えるだけで極楽往生できるという鎌倉仏教が受け入れられるようになったということを、これも実際に教壇で唱えて見せます。禅宗の座禅の姿も教卓の上でやって見せます。
その差は一目瞭然で生徒たちに伝わります。他にも、親鸞や日蓮のエピソードを話していたりしますと、鎌倉仏教だけで三時間ぐらいかかってしまって、授業が先に進みません。
まあ、手応えのある話し方もほどほどにということで、お茶を濁しておきます(^_^;)