大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評11・トータルリコール

2016-08-18 06:25:51 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評
トータルリコール


この春(2016年5月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 面白い!そいつは保証、但し体調は整えてから見ていただきたい。兎に角アクションに次ぐアクション、特殊映像がド派手にブッ飛んで行きます。このジャンルは大好きだし見慣れているのですが…いやあ~疲れた、見終わってヘトヘトですわ。
 
 監督はレン・ワイズマン(ダイ・ハード4)、出演がコリン・ファレル(SWAT)ケイト・ベッキンセール(アンダーワールド)ジェシカ・ビール(Aチーム)と誰か一人でアクション映画が一本撮れる役者が勢揃いしている。これでド派手な映画に成らない訳がない。
 レン監督はディック原作のファンというよりは、ディック原作映画のファンらしい。本作は小説の再映画化ではなく、前作ポール・ヴァーホーベン/アーノルド・シュワルツェネッガー版のリメイク。
 設定が火星に行かず、地球上で終始する以外はほぼ同じ、前作では火星の大気改造というスペクタクルが有ったが、本作にはそれに代わる設定が用意されている。台詞も殆ど同じです。
 レン監督がディック原作映画のファンだというのは間違いない。本作の世界観には「ブレードランナー」や「マイノリティーリポート」が混ざっている。ディック原作映画のファンなら思わずほくそ笑むこと100%保証、小道具にしても、車はスピナーだし、ピストルはデッカードタイプ…いくつあるか探してみるのも面白い。 ディックは現実と虚構、記憶と自我をテーマに数多の作品を書いている。そのテーマは現代にいたるも普遍性を失わず先端を走っている。ただ表現内容は惜しいかな古い。だからタイトルとテーマだけを借りて内容は全く新作の映画になる。今作を見るにF/Xの進歩には今更ながらに驚かされる。だったら、そろそろ「高い城の男」や「逆転世界」なんてな長編の映画をみたああいなあ~。
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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評10・バットマン THE DARK KNIGHT RISES

2016-08-17 06:20:21 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・バットマン THE DARK KNIGHT RISES

この春(2016年5月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

この映画評は、友人の映画評論家滝川浩一が、身内に流している映画評ですが、面白さと的確な評なので、本人の了解を得て転載しているものです。

 なんと見応えの有る映画なんでしょう。ちょいと感動的でした。こんな凄い作品が、アメリカじゃ賛否両論だそうで……。
 
 本作は165分の長尺です。途中、冗長に感じる部分があるが、ラスト15分、怒涛のごとく総てが明らかになる。そのカタルシスたるや半端じゃ無い。クリストファー・ノーランは現状世界最高のアクション監督です。冗長に思えた部分は、ラストのカタルシスを得る為に必要なストーリーでした。
 とりあえず、本作のビハインドをしらずとも充分楽しめる内容です、多少忍耐力はいりますが、それと、これも毎度のお約束、本作を見る前に、ぜひとも前二作の復習を、これ必修!…以下、ビハインドの説明です。うざったらしくなるので別に読まんでええですよ。バットマンは色んな意味で、アメリカそのものです。
 前作“DARK KNIGHT”製作時、アメリカはリーマン・ショックとイラクの泥沼化で、世界王の座から滑り落ち、自らの進路を見失っていた。そんなアメリカを背負うように、バットマンは強敵ジョーカーを倒しはしたが、彼の罠を破りきれず、総ての悪意を背負って闇に走り去った。
 現在、アメリカが完全に復活したとはお世辞にも言えない。この現状で、バットマンはいかにして復活してみせるのか、これが興味の第一点。 アメリカが、法治国家の仮面の下に自警国家の本性を、未だに隠し持っているのは何度となく書いている。バットマンは、自警団そのものであるが、ピストルを腰にぶら下げて、自分の身は自分で守った時代のヒーローではない。法の支配を意識せざるを得ないのである。即ち、スーパーマンが、飛ぶ前に飛行許可を求めるようなもので、これが彼のジレンマなのである。
 
 しかも、今回の敵、ベイン(前シリーズ「Mr.フリーズの逆襲」にも登場しているが、これは記憶から抹消して下さい)は、今シリーズ第一話に登場のラーズ・アル・グールの下にいた、言わばバットマンの兄弟子に当たる。ここから、正義と悪の二元論ではなく、悪対悪の構図となる。
 バットマンがいかに正義を振りかざそうとも、その底には個人的な復讐があり、彼が現代の自警団である以上、この構図はバットマン世界を支配している。彼は、この構図の中で自らの正義を証明しなければならない運命を背負ってもいるのである。バットマン世界では、常に善と悪の境目が揺らいでいる、今作では、どこにその境界線を引くのか。これは尽きせぬ興味である。ラスト、ベイン一党とバットマン・ゴッサム警察の間に、大ド突き合い決闘がある、拳闘士の古代でもあるまいに…しかし、これは必要な舞台セット、見れば納得いく仕掛けになっている。
 この辺りから、もつれた糸がほどけ始める。ベインは、なるほど強力な敵ではあるが、前作“ジョーカー”ほどの圧倒的な存在感を持ってはいない、このまま最後までこいつがラスボスなのか? だとすると、本作はつまらん映画に終わるんじゃないのか?
 まぁ、他にも幾つかあるが、この辺にしておこう。こんな、何じゃかんじゃ、も一つ言えば、こんな程度の役にわざわざマリオン・コティアールを使ったんかい?ってな疑問にも、ラスト15分に総て答えが用意されている。このラストは、ある意味「ユージュアル・サスペクツ」以上である。後は、あなたが自分の目で確かめるだけです。この作品が、あなたを100%たのしませてくれる事を信じて疑いません。
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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評9・おおかみこどもの雨と雪/メリダとおそろしの森

2016-08-16 06:25:17 | 映画評
おおかみこどもの雨と雪/メリダとおそろしの森

この春(2016年5月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ


 奇しくも、成長と葛藤の物語が二本揃いました。

 しかも「メリダ~」は、タイトルからも判る通り、女の子が主人公(ピクサーアニメ始まって以来)、 日本じゃ 「ナウシカ」以来、野郎は脇役に追いやられ、ヒロイン中心の系譜が出来上がって久しい。あの「紅の豚」ですら、結局の所、女性の手のひらの上でした。
 こんな点でも日本のアニメは30年以上アメリカに先んじてます、エッヘン…いやまあ、威張る話やおまへんなあ。 両作品は家族の成長を描き、「おおかみこども~」は13年間の、「メリダ~」は2日間の物語です。どちらも感動ストーリーで、極めて良く出来上がっています。但し、ちょいと不満もあります。 
 先に、それに触れるとすると、まず「おおかみこども~」の方は、作画の出来の悪いシーンが有ること。恐らく外注に出されたのだと思われるが、明らかに荒れた画のシーンが有り、集中が切れる。
「メリダ~」の方は、さすがに世界最高のアニメスタジオ、手書き・CG共に欠点無し、メリダのびっくりするような赤毛の質感、重要キャラクターの熊の存在感、等々素晴らしいの一言。
 ただ、「メリダ~」への不満は、これは日本語タイトルの付け方と予告CMの作り方に問題が有るのですが、まず、本作の原題は「BRAVE」 勇敢なっちゅう意味です。「おそろしの森」は大して恐ろしくはありません。昔のスコットランドがバックグラウンドに成っています。
 イギリスの森は、神秘的ではありますが、ドイツ・東欧の「黒き森」のように恐ろしさをあまり内包しません。不思議なもので、アニメで作るのですから、いくらでもおどろおどろしく作れそうなものですが、これがそうはならないんですなぁ。自分の運命を変えるべく、森の魔法使いに魔法をかけて貰うのですが、その魔法のせいで戦争になりかける、魔法は、かけられて二日目の夜明けを迎えると解けなくなる。さあ、これからどんな大冒険が……ありゃりゃ~こいつは少々期待したのと違う。
 ふ~ん、そうなるんかいな位のお話…決してつまらない訳ではないが、予告編から想像したのはもっとスペクタクルな冒険なので、ちょいと期待をはずされる。

 粗方の責任は、作品ではなく、CMの作り方にあるのですがね。その点「おおかみこども~」は、家族の13年間を描き、自分の生きるべき道をいかに見出すか、じっくりと語って行く。
 やがてやってくる選択の時は、物悲しくもあるが、それは一家の問題に止まらず、もっと大きな自然への回帰、もしくは自然自体が自ら失われたものを修復しようとする営みとの出会いとでも言えるシーンに成っています。家族のお話から、もっと大きな世界を垣間見せるのは、宮崎駿のストーリー世界の作り方と同じ、細田守が宮崎駿の後継者だと言われる由縁です。「メリダ~」は、その点、短時間の物語ですが、その分時間が限られサスペンスフルなストーリー構成に成っています。
 いずれも、最大の見せ場を語るとネタバレになるので難しいのですが、日米の、全く違うストーリーながら、出来ればどちらも見て欲しい。この二作は、互いに補完しあっているように思えてなりません。奇しくも同じ日に封切られたのは、何かの「縁」があるような気がします……。
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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・8「ヘルタースケルター」

2016-08-15 06:29:39 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・8「ヘルタースケルター」

 この春(2016年5月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

 いやいや、すげぇでんす。

 見ないでいいよ、じゃなくって「こんな映画は見ちゃいけない!」一本。  
 いや本間、久し振りでんなぁ、ここまでたった一言で切って捨てられる作品は。いやぁ、ヒデエもんでした。
 原作と監督、どちらにより責任が有るのか(原作は今読んでいるところ。嫌いな絵柄なので進まない)よう判りませんが、設定は古いわ、セリフは臭いわ、……兎に角、薄っぺらい作品で、見ていて苦痛。上映127分が3時間位に感じられ、映画中盤で「まだ終わらんのんかい」とイラつく。
 原作は16年前の連載らしいが……知らんなぁ、こんな漫画。私ゃ自他共に認める漫画読みでんす、どんだけ嫌いな絵柄でもエポックメイキングな作品は大概読んでいるつもりだが、まぁったく知らんなぁ。今、半分位読み終えたが、今作の出来の悪さの半分は原作に責任が有りそうだ。 売れっ子モデルがしゃぶり尽くされ、消耗して行くが、それでも自分の姿(自己を曝す…ではなく、あくまで外面だけ。しかし、姿を曝すのは、いかに取り繕っても、自分の内面を曝す事になることを理解していない)を世界でしか生きて行けない。

 そんな悲惨で虚飾に満ちた女の物語だが…描き方が、全く薄っぺらなステレオタイプ。4~50年前ならいざ知らず、16年前にこんな設定・構築の作品がエポックメイキングであった筈がない。それをまた、なんで今頃、わざわざ映画化してみせるのか、これまった理解不能。あまりにも類型的かつ安っぽいストーリーテリングなので、主人公に共感も、嫌悪感すら感じられない。蜷川監督の写真家としての感覚なのだろう、被写体を美しく見せる事が重要であって、世界(人生)の一部を切り取って、そこから真実を覗かせる事には関心が無さそうである。蜷川実花にとって「これが真実だ」と言うなれば、もうなんにも言えない、問題外である。ステレオタイプなのはストーリーだけではない、衣装のセンスもなんだか古いし、色使いも見ていて苦痛(特に“赤”)…なんとまあ、あんたホンマにファッション写真を撮っているプロ? そういえば、前作「さくらん」も、目に辛い映画でした。
 原色で塗りつぶした映画と言えば、中島哲哉(バコと不思議な絵本/嫌われ松子の生涯)を思い浮かべるが、本作に比べれば目に優しい。
 兎に角、スクリーンの中に、生きている人間が一人もいない、リアルのひとかけらも無い。これをリアルと認める事は、主演・沢尻エリカの内面が、この映画の通りなのだと認める事で…どうでもいいが、そりゃあ あまりにも沢尻エリカに対して残酷な話ってもんでしょ。エリカちゃんの裸は、それなりに綺麗だが、全く“エロ”を感じない、これじゃ全く無意味じゃんか。沢尻エリカの裸を見に来ている観客も居ただろうが、はてさて、堪能したんでしょうかねぇ。
 昔(60年代末)、アメリカ製ホラーポルノに、美容整形医師の妻が顔に傷をおい、それを治す特効薬が、人間の脳下垂体からしか作れないってんで、次々美人を殺しては首を切り取るという駄作がござんしたが、本作はまるっきり同じ範疇の作品でんなぁ。
 
 長々悪口を書いとりますが、結局一言、「見る必要無し」

 どころか「こんな映画は見ちゃいけない」一本。

 蜷川実花は、このまま行くと、角川春樹と並んで、邦画界の癌になりそうでんなぁ…そう言えば、親父の蜷川ゆきお(漢字忘れた)の演出も、一人よがりな所があるし(所詮、四季で二流の下の役者でしたからねぇ)、こりゃあ、“血”ってもんですかねぇ、やだやだ。
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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・6『アメージングスパイダーマン&臨場』

2016-08-14 06:46:56 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評・6

この春(2016年5月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

☆アメイジングスパイダーマン
 いやはや、10年前のサム・ライミバージョンが「滓」に見えます(実際、カスでしたけどね アハッ)  
 以前有った映画シリーズをリセットして新たに作り直すのをリメイクと区別してリブート(再起動)とか申しますが、別にそんなことはどうでもよろし。
 今回、3Dを見るつもりやったんですが、時間の関係で2Dになりました。結果、大正解。スパイダーマンが飛び回るシーンが3Dにうってつけだと思ったのですが、画面を見る限りそう効果的なシーンは有りませんでした。3Dはきれいさっぱり無かった事にしましょう。
 画像が良く出来ているのは当然として、今作はストーリーとキャスティングが抜群です。前シリーズに比べ、今作は初期スパイダーマン原作を充分にリスペクトしており、これこそが原作ファンが本当に見たかったスパイダーマンだと断言出来ます。サム・ライミバージョンを見た時に「なんでこんな半端な話にしてしまう?」と不思議に思ったり、フラストレーションが生じたものですが、今回は大丈夫でした。大体が前シリーズのパンフレットには、その辺の話は皆無(そらそうやろね)でした。
 なら、原作を知らないと楽しめないのかっちゅうとそんな事はゴザンセン。そこいらはストーリーが上手いのと、キャストの格が違います。見事なものでございます。これ以上は止めときます、華丸オススメ!
 バットマンが「私と公の間で悩めるヒーロー」だとすれば、スパイダーマンは「極私的な悩み」の中にいます。その分、スケールの小ささが指摘されたりするのですが、ここで発揮されるのが役者の上手さ、キャラクターの掘り下げと抜群の演技力でリアルワールドを構築しています。
 唯一不満をぶち上げるとすれば、スパイダーマン以外に怪物が目視されているのに、スパイダーマンだけが警察の捕捉目標となる事で、これは原作の設定と同じですが、50年前の原作発表時はそれで良くとも、現在では不自然です。その点バットマンには物語の中に理由が組み込んであるので、まんま受け入れれば良いのですがスパイダーマンにはそれが納得できる工夫がいります。ところが、無いんですなぁ本作には…ここまで作っておいて、なんでこの点だけマヌケなんでしょうねぇ?

☆臨場
 どうか最後まで一気に見ていただきたい。ラスト1/3くらいから納得の作品になります。導入部はまぁったくアキマヘン、どないもナリマヘン。実際見ていて「なんでこんなん作ったん?」と?マークが10個程、私の頭上を飛び回っておりました。
 冒頭の殺人現場、リアルの対局にある…っちゅうかまるっきりのウ・ソ…ようまあこんなヒドいシーンが取れたもんで、恐らくは現実に同じシチュエーションの事件が有ったから配慮したのかもしれないが、それはこの映画の意味を半減させる事になる。殺人・事故・災害…実際に遭遇した人々には忘れ去りたい事実である。しかし、映画がそれに配慮してリアルに撮らないならば、その映画は存在の意味が無くなる。悪趣味にそっくり同じに設定する事もないが、見ていて嘘っぱちにしか見えない映画で何が表現できるというのか?
 しかも、本作はテレビシリーズを見ていないと魅力が半減する。シリーズのお約束が判っていないと充分に楽しめない。キャラクターのアクがあまりにも強い為、映画で初めて見ると面食らう。それにしても松下由樹と平山浩行の下手くそ加減は呆然とする。高嶋政伸は359度歪んではまり込んでいるのだが、松下・平山はテレビでの演技すら忘れてヤッツケで演技している、全く度し難い。
 主演の内野・平田満・長塚京三がガップリ組み合う辺りから見応えが出てくるのだが、本作はもっと巧く作れた筈である。脚本・演出に半分ずつ責任があるとおもうが、キャストにも責められる部分がある。松下・平山の救いがたさは別格として…あっもう一人、若村麻由美もド下手で、彼女の演技力の無さは定評あるのになんでキャスティングしますかねぇ。柄本佑がなんでこんなに鈍臭いのかも不明、この人天才なんですけどねぇ…やっぱ監督の責任っすかねぇ。この作りで、最終的に見られる作品に仕上げた内野・平山・長塚のお三方を褒め千切るのが正しい評価だと思います。
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高校演劇・夏期講習会(1)演技

2016-08-13 09:43:37 | 高校演劇基礎練習
高校演劇・夏期講習会(1)演技
 
 
この夏も、全国各地で高校演劇連盟の講習会が開かれる。個人的には、夏の季語になってしまった。

 何度も繰り返すが、演劇の三要素は「戯曲、役者、観客」の三つである。したがって、この三つに絞り込んで、ネット上の夏期講習会をやりたいと思う。

で、初回は演技について
 演技は、水泳に似ていると言ったら驚くだろうか。「ああ、聞いたことがある」という人は勘違い……または、わたしと同じ発想の人である。
 水泳の第一歩は、水に浮くことである。仰向けになって、適度に脱力すると、自然に人間は浮くようにできている。アップアップと沈んでしまうのは、下手に緊張して手足をばたつかせる人である。このことは、割に簡単に理解していただけると思う。
 逆に、水に浮けない人に泳ぎ方を教えるのは無謀であることが分かる。古来「畳の上の水練」と言って、無駄なことの代表的な言い回しである。講習会では、この浮けない人に泳ぎ方を教えているのに等しいものもある。まずは浮くことから話しを進めたい。
 しかし、プロになってウケない芝居をやっていてはいけない……ダジャレは封印する。

☆脱力
 何も、将来プロの役者になって、死人の役がくるときの準備ではない。余談だが、数ある子役養成プロダクションでは、本当に死人の役がきた場合にそなえて、やっているところがあるらしい。

 人というのは、その場、その状況に合った緊張をしている。四月の新学期、たいていの新入生は遠目からでも新入生であることが知れる。これは、新しい環境に馴染めずに余計な緊張をしているからである。
 役者というのは、その場、その人物(時に動物であったりもする。四季の『キャッツ』など、そうであるが、基本的には人間)その状況に合わせた緊張ができなければならない。

 いわば、役者の体と心は、役としての人物を入れる器(うつわ)なのである。普通の人でも、器を持っている。だから、遠くから観ても「ああ、大橋のオッサンや」ということになる。
 勘のいい人なら、もうお分かりだと思うのだが、役者の体(心はあとで)は、どんな役でも入れられるように柔らかくなくてはならない。また優秀な水泳選手は、泳ぐときに無駄に手足をばたつかせ、余計な水しぶきをあげない。だから、まず脱力を学ぼう。
 
 コンニャクになってみる。人間の体の70%は水分だそうである。いわば人のカタチをした革袋の中に、数え方にもよるが230~360の関節があるそうで、もうほとんど水袋と変わりない。
 仰向けに寝て、体の緊張をほぐしていく。ほぐしたつもりでも、なかなかほぐしきれないものである。特に股関節、首の筋肉などは難しい。
 ほぐせたと思ったら介添えが両足首を持って、水袋を揺するようにプルンプルンとゆすってみよう。きちんと脱力できていたら、足から頭の方へプルンと揺すりのエネルギーが抜けていくことが分かる。たいてい、やっている者も、やられている者も、そのおかしさに、ウフフ、アハハになる。で、笑ったとたんに体は液体から固体になって、緊張と脱力した状態の違いが分かる。

☆立ち脱力
 立ったまま、脱力……したら、倒れてしまう。立っているのに必要な緊張だけを残して立ってみる。イメージとしては、リラックスした立ち方。又は、身の丈ほどの草かコンニャクが立っていると想像する。
 で、ここが一番ムツカシイのだが、床が前後にユラっと揺すれたと想像し、その力を足から、腰、腹、胸、首、頭に抜けていくようにやってみる。うまくいくと特大のコンニャクが、プルンと揺すれたように見える。
 
 これで脱力の意味は分かっていただけたかと思う。役を入れる器としての体を柔らかくしておくことである。しかし、脱力の練習は、つまらないので、先に行く。

☆適度な緊張
 人は、日常、その状況に相応しいだけの緊張感をもっている。たとえば歩くという行為だけでも、学校へ行く。それも遅刻しそうになっている。大好きな文化祭の朝、最後の仕上げに急ぎ足になる。友だちとケンカした明くる日。卒業式の日の朝。それぞれに違う。
 バイトの面接にいく。彼(彼女)とのデートに出かける。みんな、緊張の具合が違う。それに相応しい緊張感で歩いてごらん……わたし達が若い頃にやらされて、戸惑い、落ち込んだエチュードである。だから、みなさんには勧めない。

 椅子取りゲームをやってみよう
 人数に一つ足りない椅子を用意して、音楽に合わせて、みんなで、その周りを回る。そして音楽が停まった瞬間、一番身近な椅子に座る。当然一つ足りないので、おもしろい椅子の奪い合いになる。ダルマサンガコロンダでもフル-ツバスケットでもいいのだが、この椅子取りゲームが一番ノリやすい。
 人数が多ければ、ゲ-ムをする側と見る側に分かれるといい。見ている方も、やっている方も楽しく笑いながらできる。
 大事なことは、楽しいことである。そして、なぜ楽しいのかがよく分かること。みんな音楽に合わせながら、椅子に集中し、手早く椅子に腰掛ける人間(回数をこなせば、得意な人間が分かってくる)に意識が集中し、ゲ-ムに相応しいだけの緊張感を正直に、無意識のうちに持っていることである。
 こうやって、相応しい緊張感ということを体感する。

自己紹介
 日本人は、プレゼンテーションの訓練を学校でやらないし、家庭や地域でも、その機会が少なく、自己紹介はヘタクソで苦手である。演劇部でも新入生が入ってきた学年始めに、たいていやるが、演劇部でもヘタクソである。で、やり方を変える。

 もし舞台があったら、舞台の上に、面識のない二人を上げる。
「なにか、二人で芝居を演ってごらん。相談なしに」
 二人は、どうしていいか分からなくなるだろう。どちらかがヤケクソにしゃべり出すか、気まずい沈黙が流れるか。そして、なにより戸惑いの緊張感があることに気づくだろう。集中線は、相手1/3と観客席2/3ぐらいになっている。
「二人で、お互いに知らないことを聞いてごらん」と、水を向ける。そして椅子をそれぞれに与える。
 最初は、名前や、住所、趣味の話しなどで、かみ合わずぎこちないかもしれないが、そのうちに共通の関心が出てきて、話しに熱中するようになってくる。かみ合わないようなら、「学校、どう思う」「このクラブどう」などと、軽く話題を投げ入れてやってもいい。
 二人が、互いに話しに熱中しだすと、集中線が観客席ではなく、相手に向けられていること。不安定な緊張感が無くなり、ときに漫才のようになり、観客席で観ている者も引き込まれ笑い出すことがある。
 このことで、舞台では、状況に合わせた(合った)緊張感が必要であり、それが有効なものであるとき、劇的なオモシロサが出てくることが分かる。

☆無対象縄跳び 
 若い頃、無対象の練習をよくやらされた。「自分の部屋」という、無対象の極地があった。自分の部屋を想像し、その結界だけをバミリ、あとは自分の部屋にいるようにくつろいで、自由にしなさい。というものであった。スタニスラフスキーの時代からの基礎練習で、有効ではあるが、かなりムツカシイし、時間がとられる。発展系に「自分のお風呂」というものもある。無対象で服を脱ぎ、自分が自分の浴室でやっていることを一通りやりなさい。というもので、かなりムツカシイ。
 これらの訓練は、単なる無対象だけではなく、自己解放の意味合いもある。自己解放というのは、役者が、物まねではなく、自分の感情を使って、役の心理を表現するのに欠かせないステップなのだが、有効で安全なメソードは、わたしは、まだ開発できていない。

 で、代わりに、縄跳びをさせている。最低でも6人ぐらいは必要である。2人が大縄跳びのロープを持ち、他のメンバーは、次々に、その無対象の縄跳びの中に入っていく。全員が入れたら、5回ほど、みんなで跳んで、一人ずつ抜けていく。
 不思議なことに、たいていの者が、すぐに出来る。意識を集中しなくても回る縄は、簡単に見ることができ、もし、縄に引っかかった者などがいると、全員が「あ~あ」ということになるからオモシロイ。
 この縄跳びには、適当な緊張感とは何か。無対象演技(役者としての想像力)とは何か。そして、チョッピリ自己解放の要素が入っている。

 おおよそ、緊張が演技にもたらす影響を理解していただけただろうか。椅子取りゲーム、二人の自己紹介、集団縄跳び。みんな、その状況に相応しい緊張感が簡単に感じることができるメソードである。
 もし、芝居の本番中、舞台に猫が現れたら、確実に観客の視線は猫に持って行かれてしまう。
 猫は演技しない。舞台の上に興味のあるものがあったら、完全にそれに注目して近づいていく。それが、ネズミのオモチャであったりすると、猫は本能的に狩りの姿勢をとり、そろりそろそりと接近。そこには無駄な緊張など無く、真剣そのもののハンティングする猫の存在になる。
 このように、きちんとした緊張と集中こそが、観客の目を舞台に向けさせることができる。

☆反応
 舞台で、人を呼び止める場面があったとする。
 かなり、訓練された役者でも、ここでダンドリになってしまうことがある。相手の演技や台詞に止めるだけの力がないのに、止まってしまう。ここに演技としての「ウソ」が始まる。この「ウソ」をやられると観客の興味は、急速に冷めていく。

 具体的な例で示そう。チェ-ホフの名作に『ワーニャ伯父さん』がある。
 劇中第4幕で、ワーニャ伯父さんが、自殺しようとして、医者のアーストロフの鞄からクロロホルムを盗み出す。アーストロフが「返してくれ」と言ってもきかない。そこで、姪のソーニャが、こう迫る。
「伯父さんはいい人ね、あたしたちを、可愛そうだと思って出してちょうだい。我慢してね、伯父さん、我慢してね!」
 この姪の嘆願にワーニャ伯父さんは、引き出しから、クロロホルムを出して、ソーニャに渡す……ことになっていた。
 しかし、ある日、ロシアで、この『ワーニャ伯父さん』が上演されたとき、ワーニャ伯父さんは、そのタイミングになっても、クロロホルムを渡さない。ソーニャ役の若い女優は困ってしまった。
 これ、別に、オッサンの役者が、若い女優をいじめたわけではないのである。ソーニャの嘆願に「ウソ」があったからである。女優は役を超えて「渡して下さい、お願いだから……!」という切ない表情になり、そのときワーニャ伯父さんは、初めて姪の心からの訴えに反応して、クロロホルムを渡した。
 舞台で、行われることは、全て台本に書いてあり、結果は、あらかじめ決まっている。で、役者は、必要で過不足のない緊張感をもって演技に臨まなくなってしまう。「ダンドリ芝居」「引き出し芝居」と言われる、高等な、でもジェスチャーに過ぎない。
 例を、もう一つ。
『ローマの休日』でオードリー・ヘプバーンが、グレゴリー・ペック演ずる新聞記者といっしょに、ローマの名所を見物するところで、有名な「真実の口」のシーンがある。
 オードリーのアン王女が、おそるおそる「真実の口」に手を入れた後「今度は、あなたの番よ」と言う。
 この「真実の口」は、ウソつきが手を入れるとかみ切られるという言い伝えがある。台本では、新聞記者のジョーは、ビビリながらてを差し入れるだけで「あなただって、怖がってたじゃない」と、続くはずだった。
 グレゴリー・ペックは監督と相談し、オードリーには内緒で、手が引き込まれ噛みちぎられるアドリブをかました。オードリーは必死で、ジョーの手を引き抜こうとし。引き抜いた腕から手首が無くなっていることに卒倒しそうになる。そこでジョ-は「ハロー」と言って、袖の中に隠していた手を出す。
「もう、本当に、噛みちぎられたと思ったじゃない!」アン王女は、ジョーの胸を叩く。
 非常に有名なシーンで、ご存じな方も多いと思う。このシーンは、アドリブながら一発でOKが出た。
 つまり、オードリーは、そのときのアン王女の心理で反応したのである。
 無対象の縄跳びで言ったことと共通するものが、ここにはある。

 この話をするとキリがないので、これで一区切りとするが、分かっていただけたであろうか。
 とりあえず、泳ぎ方を教える前に、水に浮くこととはどういうことかということをお話した。

☆感情表現
 さて、水に浮けるものとして話しを進めよう。
 役とは、なんらかの感情・情緒を絶えずしているものである。漢字で「喜・怒・哀・楽」の四文字。技術的アプローチと、メンタルなアプロ-チに分けて話していく。

技術的アプローチ
 感情表現は、大きくは拳を振り上げるような大きなものから、ピクっと頬が引きつる中くらいのもの、微かに顔色が変わる小さなものまで、各種ある。いちいち言及していては、2万字というブログの字数制限を超えてしまうので、かいつまんで説明する。
 人の筋肉は、意思のままに動く随意筋(例えば、手を上げる。首をかしげる)と不随意筋(心臓や内臓の筋肉)そして、訓練次第で動く半随意筋(耳を動かす、ウィンク=欧米人には随意筋であるが、日本人の大半は半随意筋)がある。

 役者の肉体訓練は、体育会系のそれとは違う。丈夫さと柔軟さは、並の人間より少し高めぐらいでいい。随意筋のより高いコントロールと、半随意筋の可動化である。
 
 横隔膜という随意筋がある。胸と腹の境目にある筋肉で、これがなければ呼吸ができない。普段は意識しなくても動いている。思わず横隔膜を動かすのを忘れて死んだ人間はいない。僅かな時間なら停めることもできる。いわゆる「息を止める」ことである。
 横隔膜をケイレンさせることを身につけて欲しい。一発だけのケイレンは「しゃっくり」または瞬間的な笑い「ハッ!」である。このケイレンを持続的にできるようになろう。そう、持続的にケイレンさせれば、笑いになる。「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」で笑えるように訓練しよう。は、は、は、は、とケイレンさせ、次第にその早さを増していく。早い人は半月ほどで笑えるようになる。泣きも、程度によっては横隔膜がケイレンする。いわゆる泣きじゃくりというやつである。「笑い3年、泣き8年」などと役者の中では言われているが、真剣にやれば、そんなにかからない。
 他にも表情筋は鍛えておかなければならない。日本人は一般に笑顔が苦手で、笑ってというと、虫歯の痛みを堪えているような顔になる。鏡を見て、訓練しよう。よく訓練できれば表情筋をケイレンさせることもできる。

メンタルアプロ-チ
 台本に「笑う」演出から「笑え」と指示されて笑っていては、観客が共感できる「笑い」にはならない。
 舞台における喜怒哀楽は、物理的記憶の再現によってなされる……などと書くと、非常にコムツカシイものになってしまう。思い出していただきたい。椅子取りゲームや無対象集団縄跳びが、なぜおもしろかったのか。
 椅子取りゲームにしろ、無対象集団縄跳びにしろ、そこにはインストラクター(演出)の「楽しそうにやって」という指示はない。でも、楽しいのである。
 椅子取りゲームでは、椅子なり、椅子を狙っている仲間の顔なり、今にも停められそうな音楽に意識が集中している。
 無対象集団縄跳びでは、回転する縄に意識が集中し、あるものは縄に飛び込めた成功のイメージが、あるものには、失敗して縄を引っかけてしまうイメージが、その集中から喚起されてくる。だから、失敗しないようにタイミングを計ろうとし、縄が回転するテンポ、リズムに自分を合わせようとする。で、うまくいったらニマニマとなる。失敗すれば集中線がズッコケて笑いになる。けして笑おうとはしていない。
 役者が舞台で集中するのは、次の台詞や、芝居のダンドリではない。役として真実である具体的なモノに集中している。椅子や、縄が、そうであったように。

 具体例を。体育の体育の着替え中に、真剣な話しをしている。その最中、一人のスカートがホックのかけ方が悪く、ストンと落ちる。真剣な話しの最中にスカートが落ちるというアクシデントで笑ってしまう。
 基本的には、無対象集団縄跳びと同じであるが、数段ムツカシイ。
『ローマの休日』の真実の口のように、相手役に内緒でやってみてもいい。スカートは床まで落ちるかもしれないし、反射神経が良い(設定ならば)落ちかけのスカートを、途中で、押さえられるかも知れない。いずれにしても、真剣な雰囲気はこわされ、笑いにつながる。
 このエチュードをやるときは、スカートの下はハーフパンツではいけない。AKB48の子たちのように、ミセパンを穿いていてほしい。ナマパンがいいのだが、高校という枠の中では、そこまでやらなくてもいい。
 で、このエチュードをくり返してみる。くり返すと、スカートが落ちることを予感してしまい、しだいに笑えなくなってくる。演劇とは再現性のある芸術で、同じことを何度も再現できなくてはならない。しだいにダンドリになってしまい、演技として新鮮さが失われていく。前述した『ワーニャ伯父さん』のソーニャが、そうである。ソーニャ役の女優は、ワーニャ伯父さんがクロロホルムを渡してくれることが当たり前になり、「渡して下さい、お願いだから……!」の台詞に真実性が失われてしまったのである。だからベテランのワーニャ伯父さんは、いつものようにはクロロホルムを渡さなかった。

 もう一つ具体例を。彼を自分の部屋に招いて、二人だけのパーティーをやろうとしている。バースディでもいいし、クリスマスでも、婚約記念、彼の何かの成功でも構わない。いそいそと準備をしていると、玄関でチャイム。「彼が来たんだ!」喜んでドアをあけると、彼との共通の友人が立っている。
「彼、○○のことで来られないって。メールじゃ失礼だから、あたしに知らせてくれって……じゃ、あたし、仕事の途中だから」友人は去っていく。
 この後に、いきなり落胆や、怒りの表現をしたら、演出としても、役者としても未熟であるし、芝居はダンドリの説明演技になってしまう。感情が湧いてくる前に、今まで作った料理などのパーティーの準備に意識がいく。「これ、どうしよう」「これって、無駄になった」そう、「これ」に意識が集中される。あとは、役者が設定(意識的にも、無意識的にもやっている)した役の個性で行動する。ゆっくりと片づけ、その途中で涙がこぼれるかもしれない。カッとなって、パーティーの用意をひっくり返すかも知れない。
 大事なことは、いきなり感情に飛びつかないことである。集中するものは、基本的に、具体的なものかも、無対象かもしれないが、舞台の上にしかない。
 感情というのは、物理的な観察や、記憶の想起から湧いてくるものである。高校生の芝居のほとんどは、これができていない。

 水泳に例えて、浮くことが大切と言ってきた。そして泳ぐことに関しては、バタ足程度のことを示してきた。
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高校ライトノベル・タキさんの押しつけ映画評・5『ベルセルク 黄金時代篇Ⅱ ドルドレイ攻略』

2016-08-13 06:11:08 | 映画評
ベルセルク 黄金時代篇Ⅱ ドルドレイ攻略


この春(2016年5月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。

 例によって原作ご存知でない向きにはあんまり楽しめないアニメであります。
 3部作で、本作は二作目とあってまだなんとも言えないのですが、今回は原作の説明など、やってみす。  舞台は……そう、我々の歴史で言えば中世終わり頃のヨーロッパ、イギリスとヨーロッパ大陸が地続きの世界を想像して頂ければ、大体この作品のバックグラウンド。
 主人公はガッツと言う名の戦士、戦場で吊された母から産まれ、傭兵に育てられて幼い頃から戦働きに出て、懸命に生き残ってきた。
 原作の冒頭は、妖精パックを道連れに、巨大な剣を駆使してこの世ならざる者達を狩って回っているガッツの物語から始まる。 本作は、青年(とはいえ10代後半)となったガッツがグリフィス率いる“鷹の団”と出会い“蝕”(後に彼がこの世ならざる者「使徒」を追うようになる原因)を生き残るまでを描く。
 
 この世界では、ミッドランドとチューダー王国の間で百年戦争が繰り広げられていた。ガッツとグリフィスは敵同士であったが、ガッツの戦いぶりを気にいったグリフィスに入団を勧められる。一匹狼のガッツは即座に拒否するが、1対1の果たし合いに敗れ、以後 “鷹の団”の切り込み隊長となり、グリフィスにとってなくてはなら右腕と成って行く。しかし、グリフィスを知れば知る程 「この男とは対等でありたい」との想いが消しがたくなり、チューダーに対する戦勝を期に団から抜ける決意をする。止めるグリフィスを今度は果たし合いで破り、剣で奪われたものを剣で奪い返して一人旅立つ。
 グリフィスにとってガッツを失った事は考えられる以上の痛みをもたらし、彼は心の隙間を埋める為 王女を抱く。 これが王の知る所となり、グリフィスは投獄され容赦ない拷問を受ける事となる。鷹の団も国王の罠にかかるが 何とか逃亡し、野に在ってグリフィス奪還を目指す。
 旅の空で この事情を知ったガッツは鷹の団と合流、グリフィスを救出するが 時既に遅くグリフィスは不具者となり果てていた。絶望の内に団から離れようとするが、自由にならない身体ゆえ 浅い沼地で立ち往生してしまう。そこで無くした筈の“ベヘリット”と出会う。
 “ベヘリット”とは、御守りとして様々な人々が持っているのだが、実は「異界」の扉を開く鍵であり。一度手にすると、無くしても必ず持ち主の所に戻って来ると言われている。グリフィスのベヘリットは中でも特別な物で「覇王の卵」と呼ばれる。
 グリフィスの絶望に応えて異界が開き、4人の黒き天使が降臨し、「それでもお前の渇望が止まぬなら、命同様に大事な者を捧げるか、それとも亡者の列に加わるか」 と問う。折からグリフィスを案じて追って来ていた団のみんなの前で、グリフィスは言う『……げる』と。鷹の団に地獄が降りかかり、全ての団員に生け贄の烙印が刻まれ、一人また一人と使徒に喰われて行く。最後まで生き残ったのはガッツと女戦士キャスカ(グリフィス不在の鷹の団を統率してきた。この直前にガッツと結ばれる)
 グリフィスは5人目の黒き天使フェムト(翼ある者)として再生し、身動きできないガッツの目の前でキャスカを犯す。絶体絶命の窮地に、謎の剣士が“蝕”の中に乱入し二人を救い出す。蝕を逃れはしたものの、生け贄の烙印は消えず、二人は使徒に追われ、悪霊に付きまとわれる運命を背負う。精神に病んだキャスカは、ガッツの子を早産するが、その子供はフェムトの精を受けて魔物と成っており、何処かへと虚空に消える。助けてくれた謎の騎士から黒き天使と蝕の意味を教えられたガッツは、キャスカを 団の中で一人蝕を免れた少年兵リッケルトと世捨て人の鍛冶屋一家に預け、一人 黒き天使と使徒を求めて旅立つ。(今シリーズはここまで)
 現在は数々の戦いの末に見つけた仲間達と共に、キャスカの安住の地(と考えられる)パックの産まれ故郷であるエルフヘイムを目指している。(現在36巻) シリーズ1の時にも書いたが、コアなファン以外 映画館に通う必要はない。3作出揃ってディスクになったらレンタルするか、衛星放送に乗るのを待てば宜しかろう。
 
 これも(1)の時に書いたが、尺が足りずショートカットになっている。カットされた部分は今作の方が大きく、替わりにアニメオリジナルの場面が挿入されている。(1)ではそこまで感じなかったが、今作での変更は物語の中身を薄くしている。やはり、一本最低2時間とするか、90分4部作としなければ無理が出る。贅沢を言っているのは理解しているが、劇場用シリーズアニメでその程度の尺を持っている作品は現実に有るので出来ない事もなかろうと思うのだが……。
 これで終わるとあまりにも寂しい。そこで、ファンの皆様に朗報を一つ。旅に出たガッツがすれ違う馬車の中にパックの姿有り!
 と言うことは、今後“蝕”以後の「ベルセルク・サーガ」が映画化される可能性があるという事です。
 待てよ、本シリーズが不入りだとそんな企画は流れる……?!
 いかん!前言撤回! 皆さ~~ん!メッチャ面白いアニメですぅ! 今すぐ見に行って ディスク化されたら購入しましょう。ちなみにシリーズ第一作はもうディスクが販売されてます。宜しくお願いしま~~す。
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タキさんの押しつけ映画評05『SNOW WHITE & 愛と誠』

2016-08-12 07:10:17 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評05『SNOW WHITE & 愛と誠』


この春(2016年5月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。


SNOW WHITE

 画像綺麗し、ドラマチックで見応えあるんですが、はっきり言わしてもろて失敗作です。
 ナンジャカンジャ詰め込み過ぎて焦点が絞り込めていない。
 
 最も要らない持ち込みが「ジェンダー」
 
 一瞬監督は女か?と思った位。お伽話をフェミニズム視線で語らないで頂きたい。
 監督はCM畑の人で劇場版長編は初めて。アイデア豊富な人だとは判るが、 取捨選択が出来ない、乃至理解していない。
 それと影響を受けた作品からパクって来ているのが丸分かりで、こいつは洒落にならない。原作はグリム童話だが、映画のタッチはトールキン(指輪物語)である。 原作(初期の“童話”と言うより“民間伝承”に近い物)の中の「ドイツ的」なるものは、悉く「イギリス的」なるものに置き換えられている。見ていてまずここが居心地悪い。ドイツ民話に付き物の「黒き森」はまるで「指輪物語」の“障気の沼”か…漫画「ベルセルク」の幽界の入り口の森。いやいや、有り得ない話じゃない。この人「もののけ姫」からパクっているし、他にも漫画で見たシーンが散見できる。「ベルセルク」を読んでいる可能性は90%以上と見た。
「黒き森」を抜けて、妖精の住まう聖域から「白き森」に至るシーンでは、まるでドイツからイギリスにテレポートしたかの如く。
 ここから一気に舞台はイギリスに成ってしまう。 アーサー王伝奇やら六王朝時代のイングランド伝説、果てはギリシャ神話設定にエリザベート・パトリ(処女の血に浸かるのが不老の方法だと信じていた異常者)、 トドメはジャンヌダルクと来たもんだ! これだけ節操が無いと見ていてなんとも落ち着かないし、何だかしんどい。
 トドメが三点。
 まず、シャリーズ・セロン(女王)が予告編やスティールを見ている限りでは美人なのだが、本編を見ているとまるでオバサン、一応理由は有るのだが、やはり女王は美人でないと説得力が無い。これはこれで良いのかもしれないが、映画のあちこちで引っ掛かるので、せめて…と思う次第、私がシャリーズ・セロンのファンだからではない(ギクゥ!)。
 第二点、白雪姫がクリステン・ステュワートだから余計にそう思うのだろうが、初め、白雪姫を追い、後 守護者になるエリック(クリス・ヘムズワース)と“トワイライトサーガ”の狼男が重なって見える…こんな設定までパクっている。
 第三点、ラストが気に入らない。せっかく魔女を倒したのに、変わって女王についた白雪姫が、形は違うだろうが、女として魔女の怨みを引き継いだんじゃないかと思わせるイメージが有る事。
 以上、余計な事を考えず見ていれば、そこそこ見られる映画かな? と、思わないでもないが、それでも何か乗りにくい作品であることに変わりは無いと思う。見てきて反論の有る方は、教えていただきたい。

愛と誠

 あっあ愛とまま誠ォ~~! あっはっはははははははぎゃあっははははひはははひ~~ひ~~ くっ苦しい~!勘弁して~~~~~!
 久方振りに映画を見ながら腹筋を鍛えさせてもらいましたワイ! この企画建てたん一体誰? この仕上がりでOK出したん誰だんねん。見ていて途中から笑うのさえ忘れましたわいな。359度歪んで、もしかしたら面白いの? シュールリアリズム作品なんか? 武井咲ちゃん、カワユス~、演技?…あっは!学芸会以下ですわいな。確かにショックではありましたわいな、初めてエド・ウッドの映画を見て以来のね。あっはっはは はぁ~

 ぷすん……。
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タキさんの押しつけ映画評04『外事警察』

2016-08-11 06:53:59 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評04『外事警察』

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。
 

 ヤバイ、論評しにくい映画を見ちまいました。 面白かったんです。100‰お薦めで~す。

 さぁ! 見に行こう! おしまい。

見て来た? よっしゃ、ほんなら始めますか。

 
 原案は麻生幾の「外事警察」、元作は2009年のNHKドラマです。どちらも未見、真っ白で見に行きましたが…メッチャ面白かった。
 テレビドラマの映画化は元作を見ていないと半分判らない作品が多いのですが、本作にそういう弱点は有馬線(?)、導入部にさらっと流れる説明で物語の外郭が理解できる形に成っています。
 監督は「ハゲタカ」に引き続き堀切園健太郎、進行編集はさすがです…ただ、この人アップが好きなのは変わりませんなぁ~。なんか全編の1/2がアップ(そんな事もないが)じゃねえかくらいの印象があります。田中ミンさんの、それでなくとも痩せているのに、更に10キロ減量して、更に眼光鋭くなった顔がアップになると 背筋が思わずゾクッとします。
 この田中演じる徐(元在日外国人の原子力学者)と渡部篤郎の外事警察官/住本とのやり取りが本作の背骨です。
 全編、嘘、嘘、嘘、嘘の連続、その中にたった一つだけ 最初から最後までを貫いて存在する真実がある。それが何か?を……考えながら見るのがこの映画の醍醐味であります。
 そして、この緊張感は渡部/田中の演技力が生んだ奇跡と言っても言い過ぎじゃありません。
 今回改めて感じたのは、こういったアジアクライムシーンの映画に出演する韓国人俳優の上手さです。現実に未だ北と交戦中の国(朝鮮戦争は終わっていません、今は単に休戦中)の俳優さん、北との危機感・緊張感は本物。殊に、キム・ガンウのリアルな存在感は抜群であります。
 日本人では真木よう子さんをベタボメしたい。これまで彼女の演技は上手いのか下手なのか判断しかねていたのですが、本作の身体も心もバラバラに引き裂かれた女の役を見事に演じ切っている。彼女の周りも嘘だらけで何が真実なのか判らない。その中の何を彼女は信じたのか、あるいは信じたかったのか。彼女の中に真実はあったのか、いや 見つけたのか…これも本作の肝です。
 映画館の中は集中感がみなぎり、観客が一言の台詞も聞き逃すまいとしている。サスペンス映画として大成功している証拠です。
 不満と言えば……まぁこれはNHKエンターブライズの製作であるからやむなしですかね。
 映像も、殊に暗部の表現が素晴らしく、ただ塗りつぶすのではなく 微かに何かが映っている。冒頭、闇の中弱く光る徐の瞳。この瞳の奥にどんな想いが隠されているのかを追う作品であった事を思えば、いかにこのシーンが重いものであったかに気付く。
 邦画で此処までノアール感にどっぷり浸かれる映画もそうはない。映画を見る前にこれを読んでしまったアナタ。極力内容に触れないよう気を使って書きました。後は劇場で確認してください。 私は、取り敢えず本屋で原作を探して、それからテレビドラマのディスクを探しに行きます。
 
 蛇足: 昨日「海老蔵」というチャンコ屋さんで晩飯を食べました。JR長瀬の近くなんですが、メッチャ旨かったです。こんだけ旨いチャンコはメッタに有馬線。ただ、食べるのに必死で会話が弾まないきらいは有りますがね。 以上
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タキさんの押しつけ映画&演劇評03「テルマエ・ロマエ」「シレンとラギ」

2016-08-10 06:44:27 | 映画評
タキさんの押しつけ映画&演劇評03

これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画・演劇評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。


(1)「テルマエ・ロマエ」

  結構楽しめましたよ。イタリア製の映画を吹き替えで見ている感覚です。
 本作は原作を知らない方が楽しめます。漫画を読むなら、映画を見てからにしてください。映像は正直 チープなんですが、出演者が皆さん真剣にやってます……まぁ、下手くそで見ちゃおれん人もいらっしゃいますがね、そらまぁご愛嬌ってことで見逃してあげましょう。
 上戸彩とその家族が原作とは違う扱いになっているのと、ケイオニウスがほんまに単なる女好きにされとりますが……許せる範囲です。 多少の事は、阿部寛のルシウスが余りに嵌っているので、それでええんじゃないかいなと思います。
 平たい顔の一族としては古代ローマ人の驕りを笑って許してやるくらいの気持ちでゆったりと見てあげましょう。「平たい顔の一族」ってぇと、風呂に入っている爺さん達が素人エキストラかと思っていたのですが、よくよく見れば皆さんプロの役者さんです。程よく力の抜けた、ほんまに銭湯にきているおっちゃん達、この老優さん達にも拍手ですわい。
 パンフレットも良く出来とります。古代ローマと日本の風呂事情の比較、歴史等 面白い読み物になっています。一読オススメであります。

(2) 劇団 新感線「シレンとラギ」 梅田芸術劇場

 実は、前日に見た人から酷評を聞いていたので「ゲゲゲ」と思って見に行ったのですが……と言うのが、この所新感線には失望させられる事が多かったんですよね。まずクドカンの脚本だと、全く新感線の良さを引き出せない(今回は中島君の本です)。
  新感線歌舞伎は、この2年程 方向性を変化させているのですが、未だ試行錯誤中で、演出も役者も乗り切れていない舞台を見せられたりもしたもんで、少々身構えてしまいました。
  結論から言うと、私の感想としては「いいんじゃな~い」 って所です。同時に酷評した友人の言い分も100%理解できました。彼女曰わく「誰が悪いと言うんじゃなく、お話が嫌!感動せえへんかった」 との事、ハイハイよ~お解りますです。
 タイトル「シレンとラギ」は主人公の名前です。芝居が始まって暫くは、いつ頃のどこが舞台なのか良く解りません。またぞろ「楼蘭族の殺し屋」なんてのが登場するんで、「中国?」とか思うのですが、「北の国、南の国、ゴダイ、モロナオ、ギセン」などの名前から、日本の南北朝……太平記が下敷きだなと見当が付きます。もう一つの伏線は、ソフォクレスの「オイディプス」で、これも第一幕の半分位の所で解ります。  
 これまではシェークスピアを下敷きに、オセロやリア王のストーリーを比較的丁寧になぞる芝居が多かったんですが、路線変更後はそれがギリシャ悲劇になっています。ギリシャ悲劇ってのは、陰惨な話が殆どなので、新感線の底抜けの明るさにそぐわないのですが、脚本家・中島、演出・井上の努力で飲み込みつつあるようです。後は役者達がどう肉体化するかにかかるんだと思うのですが……。
 芝居は「ナマモノ」です。生きていて日々変化します。一日二公演だと、昼と夜で微妙にテイストが変わります。私が見た回は、酷評された前日の舞台とは変化していました(見ていずとも明確)。
  本作は「オイディプス」が下敷きなので、どうしても陰惨な進行に成りますし、南北朝は後醍醐天皇の怨念の時代です。そりゃあ どうしたって暗く成ります。橋本じゅんと古田新太のコンビが笑わしてくれるのですが、まだ大爆笑には届かない。東京で練習して大阪に凱旋して来いってんです! 大阪の劇団やんけ!……と思うんやけどねぇ。ただ、ゲキ×シネは東京公演の記録になるので、どう変化しているか楽しみでもあります。もっと役者が軽く飛び回る所が見られる筈です。
 さて、感動という点ですが、これはシレン(永作博美)の最後の台詞にかかっています。「蛮幽鬼」ラスト、稲森いずみの「この国を…」という台詞が、たった一言で観客の涙を絞ったように、シレンの一言が、どれだけ観客を痺れさせるかにかかっているのです。私の見た28日ソワレでは、それなりに感動的でしたが、感涙を絞るまでには至っていません。今暫く熟成に時間がいりそうです。こいつは客席とのやりとりの中から掴む以外にありません。
 公演前の練習で90%以上は完成出来ますが、最後の仕上げは客席との一体化からしか出来ません。幸福な例だと、第一日目、幕開け以降 次々に積み重なってどんどん完成して行くのですが、これは極一部の誠に幸福な例です。 28日の観客は温かで、よく反応していました。これも本作を一歩進めたのだと思います。
 新感線の芝居も高くなりまして、今回は13500円です。それだけ払って下手な芝居を見せられるんじゃたまったもんじゃありませんが、井上・中島コンビは、そろそろ掴みかけていると思えます。後、プロデュースゲストもいいのですが、劇団生え抜きのスターがみんなオッサン、オバハンになって、後継者がいないのも問題です。若手を育てる事にも神経を使っていかないといかんのやないでしょうかねぇ。
 話は変わりますが、7月に三谷幸喜が「桜の園」を演出します。チェーホフは脚本の扉に「三幕の喜劇」と記していますが、「喜劇としての桜の園」なんて見た事は有馬線。今までは「喜劇」の表記に対する考察が、左翼的なものでしかなく、文字通りの「喜劇」とは捉えられませんでした。民芸の宇野重吉が「喜劇・桜の園」を作ろうとした事がありましたが、劇団員が真っ赤(?)だった為、途中で失速してしまいました。今度は「笑劇の巨匠」の演出です。さて、どんな芝居になるのでしょうか、楽しみです。
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タキさんの押しつけ映画評02『ダークシャドウ』ほか

2016-08-09 07:19:00 | 映画評
タキさんの押しつけ映画評2

 これは、友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。


(1)ダークシャドウ

  一切文句抜き、面白いのは100%保証、映画館に急げ~!
  元作は66年~71年の5年間放送されたソープ・オペラだそうで1200以上のエピソードがあるとか……当初、コリンズ家にやって来た家庭教師ヴィクトリアが主人公のミステリアスメロドラマであったが、徐々に幽霊や魔女が出てくるゴシックホラーとなり、コリンズ家のご先祖様・吸血鬼のバーナバス(ナーバスの組み換え?BAが一つ邪魔ですねえ、英語に詳しい方、解るなら教えて下さい。
 BARNABASがフルスペルです)が主人公となるや人気爆発、ストーリーはホラー・SF何でも有りの大暴走であったらしく、言ってみれば「スタートレック」「シービュー号」なんかのホラー版と考えれば良さそうです。 ティム・バートンの“さぁすがぁ~”と唸らされる所は、荒唐無稽ながら大真面目だった(らしい)元作をコメディタッチでリメイクしている所、元作を知らなくとも、その雰囲気が伝わってくるから不思議です。 コリンズ家の次期当主バーナバスは小間使いの女に手を付けて捨てる。所が、この女がとんでもない力を持っていて……バーナバスは鉄の棺桶に閉じ込められる羽目に……。
 200年後、ひょんな事から解き放たれて屋敷へと戻って来る。一族は没落していて、彼は家業を立て直そうと奮闘する。子孫たちと屋敷にいる面々はそれぞれ問題を抱えており、町にはまさかの(当然?) の存在も……という映画。一々荒唐無稽なエピソードの積み重ねながら、無理なく納得して見ていられる。久々に見た後「面白ェ~」と大満足出来る作品でした。
  キャストも文句無し、ジョニー・デップの怪演作として間違いなくNo.1、現当主エリザベス・コリンズのミシェル・ファイファーは必見!(いろんな意味で…個人的にはアカデミー助演女優賞を献上したい)。 エリザベスの娘・キャロリンのクロエ・グレース・モリッツもさすがの怪演、ただ これだけ怪作続きだとストレートプレイが出来なく成るんじゃないかと、いらぬ心配をしてしまう。 とんでもない小間使い・アンジェリークのエヴァ・グリーンはこれまでキャラクターに恵まれず、今作が最高アピール作、間違いない演技力に裏打ちされているので怪演にも余裕有り。 ヘレナ・ボナム・カーター、お可愛そうに またこれですか……いや、見て確かめて頂きたい。
 傑作なのはクリストファー・リーが出演している事で、どんな役かはお楽しみ。他には元作の出演者が出ているらしいがこればかりは誰が誰やらサッパリですけどね。バーナバスが戻って来るのは1972年、丁度元作が終わったころで、今から40年前の風俗も懐かしい。ティム・バートンの異形ファンタジーも此処に極まる。今後、これ以上の作品が出来るのか…楽しみなような、不安なような、次回作を見るのが怖い。

(2)ファミリーツリー

 さすがアカデミー脚色賞…と褒めたい所ながら、ちょっと待った!
  原題THE DESCENDANTSは「子孫」と言う意味、原作は未読だが、映画を見ていて、単に家族再生の映画だとは思え無い。家族再生を縦糸だとすると、主人公の一族がハワイに持っている土地の処分が横糸。恐らく原作は人間が生きる環境と商業主義への批判が最重要テーマだと思われる。
 邦題を「ファミリーツリー」なんぞと付けて、さも家族再生の作品だとコマーシャルするから見る側の焦点がぼけてしまう。
 ジョージ・クルーニーの等身大の父親という初めての役柄は見応えあったが、恐らく、これが上手すぎてメインテーマが霞んでいる。
 ラストシーン 子供二人に挟まれてテレビを見ている画は感動的なのだが、今一胸に迫って来ない。原作を読まないと確答できないが、脚色も家族愛に偏重しているのだと思われる。パンフレットもそちら側の評価しかしていない。試写会に行って「家族を抱きしめたく成った」と書いた人がいたが、私にはそんな感慨は浮かばなかった。
 あるいは私の見方が間違っているかもしれないが。
 だとするとこれは映画としては失敗作だと言わざる得ない。構成が中途半端で、焦点の合わせようが無い。残念
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復刻版・タキさんの押しつけ映画評01『ミッドナイト イン パリ』ほか

2016-08-08 08:53:00 | 映画評
復刻版・タキさんの押しつけ映画評01

 これは、2016・5月に亡くなった友人の映画評論家ミスター・タキさんが、個人的に身内に流して、互いに楽しんでいる映画評ですが、あまりに面白くモッタイナイので、タキさんの許諾を得て転載したものです。

(1)ミッドナイト イン パリ

ウッディ・アレン最高!最上級の大人のメルヘン(メーフィェンと言うべきか?) 主人公の興奮がストレートに伝わって来ます。
 実にたわいのない話ですが、W・アレンの夢が詰まっていて(元々パリが大好きな人ですから) 創っていて監督本人が一番興奮していたんだろうなぁと想像出来る。
 ギル(主人公であると共に監督の分身、演じるオーウェン・ウィルソンが段々W・アレンに見えてくる)は売れっ子のシナリオライター、婚約者のイネズ及びその父母とパリに来ている。彼は1920年代のパリに憧れが有り、パリに暮らして小説家に成りたい。対して、イネズとその家族は典型的な俗物ヤンキーで、そもそもこの二人が婚約者だというのが不思議(まぁ、そう言う設定ですわ) ある夜、深夜道に迷ったギルは年代物のプジョーに乗った男女からパーティーに誘われる。
 着いた所は20年代のカフェで、そこではコール・ポーターが弾き語りをしており、彼をパーティーに誘ってくれたのはフィッツジェラルド夫妻だった。
 そこでヘミングウェイにも出会い、翌日には自身の小説を持ってガートルード・スタインのサロンに赴く、そこにはピカソと愛人アドリアナがいた。
……と、およそ作家・芸術家ならめくるめく、失神してしまいそうな興奮の体験をする。
 ってなストーリー、現代のアメリカ人はみんな俗物に描かれていて、こりゃあカンヌで大受けしたはずですわ。フィッツジェラルドは妻ゼルダに振り回されてるわ、ヘミングウェイは暑苦しいオッサンだわ、etc etc…ギルはダリの絵画のモデルになったり、ルイス・ブニュエルに映画のアイデアを語ったり、まさにアレンの想像、夢がこれでもかと詰まっていて、それがこちらに伝わって見ている観客も一緒に興奮してしまう。 このままだとギルは勿論、観客も20年代のパリから抜け出られなくなる…と思いきや、もう一つの仕掛けで、ちゃんと現代に帰って来る。ここがアカデミー脚本賞の真骨頂、唸らせてもらった。別段、この時代の知識などなくとも、本作の楽しさは減じるものではない。ギルの興奮をそのまま受け入れれば良い。
 キャスティングも実に豪華で、特にアドリアナを演じるマリオン・コティアールに恋しない男はいない。エイドリアン・ブロディのダリもそっくりだし、アリソン・ピルのゼルダはまさにこんな女(ひと)だったのだろうと思わせる。 五夜のタイムスリップの結果、ギルは多くを失うが、最後に素敵なプレゼントが待っている。兎に角、ユーモア・ウィット・優しさ満載の作品です。全身全霊をこめて鑑賞をお薦め。

(2)メン イン ブラック3

 アッハヒハヒハ、ようやる!! 全3作中 最高作です。但し!!! タイムパラドックスの細かい決まり事を一切考えてはならない!それを言い出すと最初から最後まで引っかかりまくる。 一切問答無用で受け入れなければならない。このルールさえ守れば、至極楽しめる作品であると保証します。SFのそこいらに拘りをお持ちの方は鑑賞をお止めになられた方が無難であります。
 ウィル・スミスはいつものウィル、あまりにも歳を取らないので、彼こそがエイリアンじゃないのかと思うほどです。K(T・L・ジョーンズ)の40年前を演じたジョッシュ・ブローリンがこれまた嵌り役で傑作です。小難しい理屈抜きに楽しんでいただきたい。
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大人ライトノベル・『ケータイとコンタクトレンズ・1』

2016-08-01 12:32:34 | ノベル2
大人ライトノベル
『ケータイとコンタクトレンズ・1』
       


「コンタクトレンズにすればいいのに……」

 美優の、呟きのような一言で決まった。

 会社の終業時間近くにパソコンを覗いている姿を、斜め向かいのビルの五階から美優は見ていた。
 近頃のスマホのシャメは、実に良くできていて、とても二十メートル以上離れた、それも、こっちとあっちのガラスを通してとは思えない鮮明な画像が送られてきた。

――まるで、ヘンクツジジイだぞ――

 なるほど、そう見えなくもない。しかしオレは、年相応に苦み走ったいい男に思えた。だから、その時はコンタクトにはしなかった。

 美優とつきあい始めて……二年に近い。

 横断歩道を渡っていて、軽くぶつかったのが馴れ初めである。ぶつかっただけでは縁は生まれない。
 たまたま、オレは出張の帰りだった。向こうの社を出るときには確認したんだが、ブリ-フケースのロックが甘かったのか、ぶつかった拍子に、地面に落ちて、書類やらなにやらをぶちまけてしまった。
「……あ、ごめんなさい!」
 一瞬の間の後、美優は、手際よく落ちたものを拾い集めてくれた。
「ほんとにすみませんでした」
 信号がギリギリで赤になる前に、歩道を渡り終え、美優は、もう一度頭を下げた。

 ペキ!

 横断歩道の真ん中で、何かが潰れる音がした。
「あ……!」
 美優は、今度は自分の不幸に声を上げた。
 ケータイが歩道の真ん中で、車に踏みつぶされていた。
 最初の車は不可抗力なんだろうけど、あとの車は「どうせ踏みつぶされたもんだ」と、次々に踏んでいき、信号が変わって拾いに行ったときは、もう、数十秒前までケータイであったことが分からないくらい粉砕されていた。
「ごめん、かえって大変なことになっちゃったねえ、申し訳ない、謝らなきゃならないのはオレの方だ」
「いいえ、いいんです。チョー古いやつだったし、そろそろスマホに買い換えようと思っていたところなんです」
「でも、アドレスとか、大事なデータが入っていたんじゃないの?」
「ううん、どうでもいいってか、もう縁を切りたいようなのも入ってましたから。かえってせいせいです」
「あ、せめてお昼でもご馳走させてもらえないかな。オレの気が済まない」
「うう、残念。今そこで天丼食べたところなんです」
「そう、じゃ、迷惑じゃなかったら晩ご飯でも……あ、こりゃ、まるでナンパだな。スマホプレゼントするよ」
「いいですいいです、晩ご飯にしましょう。今の事故は、その程度の物です」
 美優は、目の前で、手でイラナイイラナイをした。
「ア、ハハハ……」
「あ、なにかおかしいですか?」
「いや、君のイラナイイラナイは首まで一緒に動くんだ」
「え、やだ、そうなんですか!?」
「いいじゃん、かわいくて。じゃ、オレ今日は定時退社にするから、五時半にここってことで」
「はい、分かりました。お言葉にあまえます」
 
 そして、五時半になって、会社のビルを出ると、美優が斜め前のビルから出てくるのが、ちょうどだった。

「きみ、あのビルの?」
「はい、六階のS物産です。派遣社員ですけど。あなたはM興産の……多分、杉山さんですよね」
「え、なんで知ってんの?」
 と、ここまでが、タクシーの中の会話であった。なぜゆえオレのことを知っているのかは、タクシーの中では言ってくれなかった。

「うちの会社から、おたくのビル丸見えなんですよ。特に五階は」
 中トロを美味そうに食べながら、美優が言った。
「うちからは、なにも見えないぜ」
「ああ、角度のせいです。杉山さんとこは日中丸見えです。窓から四メートルぐらいは」
「そうか、うちの会社北向きだもんな。道理で、そっちは見えないわけだ。でも、どうやってオレの名前分かったの。別に看板出してるわけでもないのに」
「ああ、隣に発音のはっきりした女の人いるでしょ」
「あ、ああ、山名君か」
「あの人が、あなたを呼ぶときの口、ウイヤマってとこまでは分かるんです。口のカタチはっきりしてるから」
「彼女、放送局の女子アナ志望だったからな……あ、そのウイヤマから?」
「そう、普通に連想したら杉山しかないでしょ!?」
「こりゃ、まいった、まるで名探偵コナンだ」
「あ……せめて、それに出てくる榛原ぐらいに。いちおう女ですので」

 そんな風に、二人の関係が始まった。

 知り合いが、友だちになり、体の関係になるのに一カ月もかからなかった。互いに子どもというわけでもなし、相手が独り者であることは、二度目に唇を合わせたときの感触で分かった。お互い適度な異性関係が過去にはあったことも。

 お互い、隙間を埋め合うのには、ちょうどいい相手だと感じた……。
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