つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

水仙

2019年03月06日 | 日記・エッセイ・コラム

裏庭のシナノキがなくなってしまって、もう2年近くが経ってしまいます。

 

大家さんにお願いをして何か別の木を植えていただこうかとも考えましたが、陽の当たり具合、コンクリートに囲まれた地下のことを考えると、それも次の樹木にとっては過酷だろうということになり、そのままにしていました。

 

このシナノキの無い風景を1番寂しがっていたのは佐橋かもしれません。お花など育てたことのない人が水仙を買いたいといいだし、こうして球根を植え出したのは去年のことです。

 

昨年 少し咲いて、今年も咲いてくれるだろうかと佐橋が甲斐甲斐しく面倒を見ていると、この頃やっと目の悪い私でも見えるほど茎を伸ばし始めてくれました。

 

そして、それに欲がでたのか?

 

       

今年はまた新しい水仙を求め、ここに植えました。

 

佐橋は毎朝、この水仙を見るのを楽しみに出社しているようです。

 

水仙の花にはたしかになんとも言えない魅力がありますね。

冬の花なのか、春のお花なのか?

わかりにくいところもあります。

 

この時期だけの楽しみを見つけ、お花が終わったあとの一年をどのように過ごすつもりなのか?佐橋が少し心配になりますが、、

 幾つになっても、どんなに経験を積んでも、先を読むことだけはできませんね。

 

先がわからないことを不安に思い、自分をがんじがらめにしてしまったことも今までしばしばありましたが、この頃は少し気持ちが変わってきていることに気づきます。

 

 

 

 

「子供でも、老人でも、先があるということだけが人の救いになる」と確か吉本隆明が何かに書いていました。

 わからない先があるからこそ、今が救われることもある。

いまこの小さな水仙が私達の足がかりになってくれるのなら、それを大いに支えにして今日を楽しみ、明日を迎えようと思います。

日本人はみなそうして生きてきたのだよと目の前に飾ってある多くの絵が教えてくれてもいます。

この次は桜かな?

またみなさまからの励ましの写メールをお待ちいたしております。

 

 

水仙花 よくよく 冬に生まれつき

水仙や 常につめたき藪の中

水仙の香や こぼれても雪の上

水仙や何かとすれば春のもの

 

加賀千代女俳句より

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする