つれづれ

名古屋市内の画廊・佐橋美術店のブログ

2022/09/19

2022年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
この東海地方にも台風が近づいてきています。

昨夜から徐々に風が強まり、今は雨も強く降り出しました。

我が家は古い家なので、台風の来るたびに雨漏りの心配など、ヒヤヒヤ致します。

物干し竿をおろしたり、停電に備えて、懐中電灯やガスコンロの確認もしました。

あとは水の確保ですね。


そんな用意周到に準備をしながらも、昨日うっかりamazonさんに本の注文をしてしまったわたし。

自分のことしか考えていない証拠です☔️

せめて、折角この風雨の中を届けていただいたのだから、さっさと読み始めなくちゃ!と今日は少し読書をしています。





冒頭から面白いお話がありました。

江藤
「いつか小林さんにお会いしたとき、デパートの特売場へ、その辺の奥さんが出かけて行って自分のセーターやスカートを血まなこでで捜すというような時に、非常に的確に1番いいものを選ぶものだ、ということを言われたことがありましたね。
僕らが美というと、美はたちまち床の間にのっかってしまって、妙に抽象的なものになってしまう。特売場あさりというような確かさが無くなってしまうような感じが強いですがね。」

小林
「その点で、女の人は男の人より美を生活的に自然によく知っていることになるかな。ああいう人たちは、見るだけじゃない、買いたくなり、着たくなるのでしょう。美の生活上の実験をするわけだな。僕らはにはそれがないから、美について観念的にしゃべるように
なるのじゃないの」

中略

「経験だからおもしろいんでしょう。美というものは、見るとか作るとかいう経験です。物がなければ何もない世界ですからね。物に関する個人的な経験を他にしては何もない世界なのですからね。」

「ことに現代人はそうです。芸術家というと、なんでも造れるような顔をしている。鑑賞もこれに似て、自分の解釈評価次第で1万円のものを50円という事もできる。そんな気でいるのです。自己主張が好きなんだな。おのれの主張とか、解釈とか、そんなものに美があると思っている。そうじゃない、美はいつも人間が屈従するものです。物に自分をまかせる。そういう経験のうちに、伝統の流れというものが、まざまざと見えてくる。こんなことは分かりきった話ですけれども、インテリがなかなかそれに気がつかないということがある。例えば、私のところに現代の美術や音楽に大変関心を持った人が来る。美を論ずる種はいくらでも持っているのです。鐔が少しばかり置いてあるのを見ると、全く関心を示さない。古い道具が置いてあると思うだけなのです。実に不思議な気がします。これはもう一種の現代審美病なのです」


三島由紀夫の割腹についての二人の意見の違いを知りたいと思い取り寄せた本ですが、思いがけず「美」の話から始まり、夢中で読みました。

「小林は骨董のことを書いているのでしょ。」と言われてしまいそうで、事実、そうかもしれませんが、近代日本絵画における美の発見においても、何かそういった伝統、生活と経験により育まれ、鍛えらていく鑑賞眼というものが必要、大切な時代になってしまったのではないか?という気がふと致しました。


「美はいつも人間が屈従するもの。」

なかなか面白く、とても重い言葉だと思えます。
そして、それをちゃんと知っていた画家が確かに居たと思えます。












コメント (4)
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