いよいよ今年も押し迫り、今週のご来店のお客様は「0」だろうと勝手に決め込んでいましたが、決してそんなことはなく「会期中に山口薫作品を見られなかったから」や「年内最後に伺いたいです」など、何人かのお客様に直接のご来店やご予約をいただき大変嬉しく思っています。
ふらっと立ち寄ってみようかな?というその軽いお気持ちにも、必ずそのお店への「思い」というものが隠れていて、それは決してマイナスの感情ではないような気が致します。
さて、私自身が弥栄さんの山口薫作品と共に過ごす時間も残り少なくなりました。そして山口薫作品についての私の思いも随分まとまってきたように思っています。
あらためて今強く感じることは、山口薫の絵は時間を持っているということです。
つまり、「信じて待とうとする人間にしか見せない顔を持っている作品たち」ということが言えるように感じるのです。
近代日本絵画には少なからず見る人の信頼を裏切らないそういった側面をもっていますが、薫の志は非常に高く、また才能にもめぐまれ、その崇高さ故に我慢強く、我慢強いが故に生活というか体はぐちゃぐちゃになって。。他界後はその作品達のみが薫を語っているというのが今の現状ではないかと思っています。
山口薫は多才であるので、小品にはまた別の味を加え、全ての作品に言えるかどうかはわかりませんが、少なくても風景画や馬、牛、動物を描いた作品には
一貫して「時」というテーマがこの作家のなかにあったのではないでしょうか。
それが描写技法としてどう現実的に処理されているかは残念ながら私にはまったくわかりませんが、例えば山口薫の作品は「だーるまさんこーろんだ!」と鬼が振り返るその短い時間にも作品の表情を変える。
簡単に言えば鑑賞者をある愛おしい世界にいざない、誘ってからもその世界の深淵を想像させ楽しませ続けてくれる。絵が動いている。
そんな印象を今回大変強く持つことができました。
絵画コレクターさんなら、たとえ現代アートばかりをご所蔵になられていらしても、一つは山口薫作品をお持ちになってみる。
或いは、どこからでもよいのですが、青木とか岡田とか藤島とか、梅原とか安井とか、、その系譜にご興味をお持ちのみなさまにも薫はそのコレクションの最終形としての顔をきちんと持っているとお伝えしたいと思います。
また、守一、香月、鳥海、など前後世代、同世代の作家軍にあって、おそらく薫は最高峰の画家としてこれからも評価されるべきだろうと考えています。
佐橋が薫!薫!といっていた20年前には、薫をただ「酔っぱらいのセンチメンタリストだ。青臭いおじさんだ」と一掃していた私が、いまこんなブログの記事を書いているなんて。。と自分でも驚いていますが、私はやはり弥栄さんと佐橋の後輩ですので、自ずとその信奉者になっていくのかもしれません。
個人的には「わたし、成長したのだわ~きっと✨✨」と思い込みたいと思います。
相変わらず連日というわけにはいきませんが、年内いっぱいは、こうしてまた山口薫作品を中心に書かせていただき、年を越してからはいよいよ福井良之助作品について少しづつご紹介させていただこうと思っています。よろしくお願い致します。