あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

足利七福神めぐり(栃木)

2008-01-30 23:05:33 | 七福神めぐり
2008年1月27日(日)



 栃木県足利市は、古来から織物の町として栄え、毛野
国(現在の栃木・群馬県)の政治、文化の中心地だった
といわれ、多くの史蹟と豊かな自然に恵まれている。

 このような歴史風土の中で、町の繁栄と家運隆盛、健
康増進を祈って昭和62年(1987)1月、半世紀ぶりに
七福神めぐりが復活したという。

 コースの全長は43.8㎞あるが、全11社寺中の最短
距離で巡れる、市街地の8社寺を巡ることにした。

 東武伊勢崎線足利市駅に10時20分に下車する。
駅構内の観光協会に寄った後、すぐ北を流れる渡良瀬
川の中橋際に出て、左岸堤防を上流に進む。

 堤防上は北風が冷たく吹きつけ、渡良瀬橋の向こうに
雪を被った日光連山が望める。


 その渡良瀬橋を渡って細い通りの旧道へ。JR両毛
線の踏切を渡ってすぐに左折、特養老人ホームや示現
稲荷神社前を抜け、料理店鳥つねの横で広い通りに
出た。

 すぐ南の交差点を渡って真っ直ぐ進み、石段を上れ
ば布袋尊の福厳寺(ふくごんじ)である。

 福厳寺は、寿永元年(1128)、藤姓足利の4代目
忠綱が母の菩提と父の供養のため創建したという。

 本堂前にしだれ桜があり、境内にはモミジの古木も
立つ。布袋尊は、本堂左手のイチョウの下で立って
いた。

 そばに数体の地蔵が並ぶ地蔵堂と、延命地蔵尊を
祭り、セキ止めに効験があるといわれるるセキ地蔵堂
もある。

 本堂左手の墓地の間の階段を上がって足利公園に
出た。

 市街地の展望が良く、公園内には近代日本で初め
て古墳の学術調査が行われたという10基の古墳群が、
桜や松、ケヤキ、ツツジなどの下に残されている。

 車も通れる園路を南に下ると、JR両毛線の線路際
に草雲(そううん)美術館があった。

足利が生んで幕末の勤王画家・田崎早雲の遺作・遺品
を展示しているようだが、今日の目的からは外れるので
入館は省略する。

 公園の下側を東に回り、足利六十六郷の総鎮守と
いう八雲神社に参拝。貞観年間(859~876)創建と
伝えられる古社。

 社殿は再建して新しく、境内はそう広くないが、神木
のケヤキの古木が枯れ枝を大きく広げていた。

 福厳寺前に戻り、水の枯れたところもある柳原用水
沿いの旧道を北東に向かう。交通量の多い県道67号
に出ると、北側の山すそが毘沙門天の常念寺。

 平安末期の康治2年(1143)の創建と伝えられる
時宗の寺。昭和61年(1986)新築という鉄筋のどっ
しりした本堂横に、幼稚園を併設している。

 そのため境内はほとんど無く、県道寄りに一遍上人
像が立つていた。

 さらに柳原上水沿いの旧道を進む。三宝院の先で、
用水は東向きにカーブし、廃校になった旧西小付近
からは暗きょとなり、そのうえに幅広い歩道ができて
いた。

 すぐ先の交差点の南側に、赤い鳥居と赤い柱の小
ぶりな社殿が目につく。弁財天の厳島神社、長尾弁
天である。

 もとは北側の長林寺境内に、足利城主・長尾景長
が祭ったと伝えられ、明治元年(1868)の神仏分離
令で、現在地に遷座したという。

 社殿前に机を出し、七福神巡りの人のためにお守り
や資料などを並べていて、甘酒と日本茶のお接待をい
ただいた。

 交差点を北へ、旧道に入って山すそを右に回り込み、
長い境内を進んで福禄寿の長林寺へ。山門の手前に
ある池には厚い氷が張っていた。

 長林寺は、文安5年(1448)、足利領主・長尾景人
により創建した竜沢寺がはじまり。元禄時代に伽藍
(がらん)を整備し、明治維新まで修行道場として
人材育成の場だったという。

 豊富な樹林に囲まれた墓地の一角に、戦国時代に
上杉方の勇将として活躍した足利長尾氏歴代の墓地
や、江戸末期の足利藩絵師で、明治22年(1889)の
パリ万国博で名誉賞を受賞した田崎早雲の墓がある。


 旧道に戻ってさらに北に進み、足利工高の東側山腹
の石段を114段、恵比寿神の西宮神社に上がる。

 江戸開府の慶長8年(1603)、代官・小林重郎左衛
門が、領地繁栄のため摂津(兵庫県)の西宮神社を勧
請して創建、「福の神」として関東一円の崇敬を集めた
という。

 杉や松木立に囲まれた境内には、本殿のほか、秋葉、
稲荷、八坂、山神社などの社殿があり、恵比寿神は、
奥の神明殿に祭られていた。

 もとの道を長尾弁天そばの交差点まで戻り、暗きょ
上の歩道を東に進んで織姫神社下まで行く。

 南側に社殿の彫刻がみごとな神社が見えたので、ひ
とつ南側の通りの鳥居の方に回る。

 八雲神社で、鳥居のそばに高さ25mという大イチョ
ウがあった。市の天然記念物になっていて、ギンナン
もたくさん実るようだ。

 本殿の背後にある社殿に精巧な木彫が施されている
が、本殿を含め周囲を石の柵で囲ってあり、そばで拝
観することはできなかった。

 織姫神社下に戻り、229段の石段を上がって織姫
神社に参拝する。足利織姫神社は、奈良時代初期の
和銅6年(713)の文献が残り、足利織物の守り神と
して創建されたもの。

 明治13年(1890)9月の火災で消失後、昭和12
年(1937)朱塗りの現社殿が造営され、鉄筋コンク
リート造りながら、日本古来の寝殿造りを再現し、国
の有形文化財に指定されている。

 境内からは足利市街の展望が良い。

 東側から北の両崖山へ向かうハイキングコースがあ
るが、石段下に戻り、再び現れた柳原用水沿いを北東
に向かう。

 足利赤十字病院下から徳正寺付近まで進むと、落ち
着いた住宅地となる。樹覚寺前で歩道が終わって広い
通りへ。間もなく2つめの弁財天、明石弁天がある。

 昔この地に清らかな湧水の池があり、弁財天を祭っ
たと伝えられ、現在の社殿は寛政5年(1793)建立
だという。

 松とケヤキ1本ずつの境内には、美人弁天を祭る朱
塗りで緑屋根の弁天堂もある。氏子の方2人がおられ、
お茶のお接待をいただいた。

 広い道路をそのまま進む。小さい峠を下ったところに
あるのが次の心通院かと思ったら、善徳寺墓苑。寿老
人の心通院は、墓苑前を東に進んだ右手にあった。

 心通院に入る前にそばに、近くの中華料理店で遅い
昼食をする。

心通院は、永禄9年(1566)、足利長尾5代の政長が、
両親の菩提のために創建したのだという。

 現在の鉄筋八角形の社殿は、昭和38年(1963)の
再建とか、両崖山を背にして独特の景観を見せている。

 第二中の南西側付近から、南南西に直線に延びる
道路を1㎞ほど進み、最後の鑁阿寺(ばんなじ)に北門
から入る。

 建久7年(1196)、源姓足利氏2代義兼が建立し、
大日如来を祭ったのが始まり。3代義氏が堂塔伽藍を
建立し、足利一門の氏寺として隆盛したという。

 周囲に土塁を巡らし広さ約4万㎡という広大な境内、
大黒天は、境内北側にある校倉造りの大黒堂に祭ら
れていた。


 境内には、本堂にあたる大御堂や、鐘楼、一切経
堂が国の重文、はかに楼門、多宝塔、御霊屋敷、屋
根付太鼓橋などが県の文化財に指定され、大御堂の
そばには、樹齢約550年、縁結びのご神木といわ
れる見事な大イチョウが立っていた。


 南門に出て太鼓橋を渡り、大門通の途中から東に
回って、日本最古の学校、足利学校も訪ねる。

 16時の受付時刻を過ぎ、急ぎ一回りして閉門後の
木戸から出る。

 電線、電柱を地中化した足利氏の中心街、県道67
号を通2交差点まで進み、渡良瀬川の中橋を渡って、
16時27分に足利市駅に戻った。

 快晴ながら1日中風が冷たく、地図を見るのもおっ
くうになる寒さだった。

 鑁阿寺と足利学校については、別途紹介することに
する。

(天気 快晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、
 足利北部、歩行地 栃木県足利市、歩数 19300)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第6回江戸・東京七福神めぐりへ

2008-01-02 21:58:40 | 七福神めぐり
 新春2日目の1月2日も、元旦同様冷え込みました。

 わが家の東側の畑も、霜で真っ白です。


 今日は、NPO東京都ウオーキング協会主催の、
第6回江戸・東京七福神巡りで、谷中(やなか)七福神
を回りました。

 今日中にレポートをと思い、夕食後入力したのですが、
レポートがほぼ完成の時点で「投稿」ボタンをクリック
したところ、何らかのエラーが発生し、せっかくの入力
データが全部消えてしまいました。

 残り時間が不足なので、再入力後のレポートは明日
にさせていただきます。

 写真は、ゴールに近い上野不忍池(しのばずのいけ)
のひとつ、ボート池です。


 ところで、元旦の「大江戸元旦初歩き2008」(20㎞)
と、1月2日の第6回江戸・東京七福神巡り(10㎞)の
ウオーキングには、「TTR-003ウオーク&トラベル
ライトG」という、日本ウオーキング協会推奨のウオーキ
ング用靴下を履いて歩きました。

 下の写真がその靴下です。 



 ご覧のようにこの靴下は、普通の靴下のように左右
どちらにも履けるのではなく、右足には右用を、左足
には左用を履くようになっています。

 靴下の製法が、左右それぞれ足底から見ると親指側
を長くし、指の太い親指側は小指側に比べ、前面から
見ると厚くつくられているなど、足の形に合わせた編み
方になっています。

 そのため、履いてみると足全体に良くフィットし、とても
歩きやすい感じがしました。

 特に指と靴下がよくなじむので、指を抱え込むよう
な動作の時に、靴下の中で指と靴下がずれることなく、
スムースに踏み込めます。

 したがって長距離を歩いても、普通の靴下に比べて
足の疲労が少ないのではないかと思います。

 昨年実施した四国遍路のように、長期間毎日30㎞
前後、重い荷を背負って歩くような際には、このような
靴下がよいかもしれません。

 お値段は1,365円で、普通の靴下に比べると高い
(私が買うものに比べ)ので、耐久性がどうだろうかと
いうことは気になります。

 また、洗濯の際には、「裏返しにして目の細かい洗濯
ネットに入れて弱水流で洗う」とか、「乾燥は、履き口
を上にして裏返しのまま、風通しの良い場所で陰干し
に」とかの注意があり、毎回、その様なことを気にしな
がら洗えるかということも、ちょっと面倒ではあります。

 これからも何度か使ってみて、また使用感を報告
したいと思います。

 なお、このメーカーのWebは下記をご覧下さい。
 http://www.bigtoe-takeda.com
 

 

 

 

 

 

  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵野吉祥七福神めぐり

2007-01-10 21:53:20 | 七福神めぐり
 首都圏は今日、風もなく快晴の穏やかな1日でした。そこで、
今年2度目の七福神めぐりに出かけました。
 
 場所は、昨日18時10分からのNHK総合TV「首都圏ネット」で
紹介していた、『武蔵野吉祥(きっしょう)七福神めぐり』です。

 東京の武蔵野商工会議所が、武蔵野市内の寺社とともに企画
したもので、今年から始めた新しい七福神めぐりのコースです。

 元旦から今日10日までは、七福神めぐり特別バスも運行され
ましたが、私はもちろん、歩いて回ることにしました。

 スタートのJR中央線吉祥寺駅を、11時40分に出ました。南口
の丸井百貨店横から坂を下って井の頭恩賜公園に入ります。

 水中から数個の噴水が上がる井の頭池の橋を渡って、まず、
池の南西端にある大盛寺の井の頭弁財天に参拝します。

 この弁財天は、天慶年間(938~946)に始まった伝えられ、
神田上水水源の水神、福の神、音楽や芸能の守護神として、
江戸の人々に広く信仰されたとのことです。

 色鮮やかな朱に彩られた現在の社殿は、昭和2年(1927)に
再建されてものです。ここで、七福神の色紙を購入しました。
値段は2,000円、各寺社での朱印代も入っています。

 大盛寺本堂は池の南側を上がったところにありますが、門が
閉ざされていて入れませんでした。

 池の西側を上がって、吉祥寺駅西側を抜ける吉祥寺通りを北
に進むと、東西に走る五日市街道との交差点際に、大黒様の
武蔵野八幡宮があります。

 ケヤキやクスノキなどの保存樹に囲まれた緑豊富な境内の奥
に、やはり朱塗りのりっぱな神殿が建っています。

 大黒様は、別の小さな社殿に祭られていました。

 この神社は、789年、坂上田村麻呂が大分の宇佐八幡大神
の分霊を祭ったのが始まりと伝えられ、武蔵野の農民の氏神様
として信仰を集めてきたとのこと。

 境内には、「この辺りでは江戸時代後記の天保年間(1830~
44)ころから吉祥寺ウドと呼ぶ、ウドの栽培が盛んだった」と記さ
れていました。

 次の布袋尊の安養寺は、神社のすぐ東側です。開山は寛永
元年(1624)、吉祥寺四軒寺のひとつで、「多摩新四国八十八
ヶ所」第1番札所です。

 境内には、武蔵野市内にただ一つ現存するという、安永2年
(1773)奉納の梵鐘がありました。

 東に出て墓地の西側から北に向かい、女子大通りを越えて、
福禄寿の大法寺に行きました。

 大法寺は、徳川家光時代の寛永10年(1634)開山の禅寺。
開創当時は江戸麻布にあり、昭和7年(1932)にここに移転
してきたようです。

 境内にある石造の福禄寿は、石仏彫刻家、長岡和慶氏作。
長岡氏の代表作は、大英博物館に収蔵され、ほかに、延暦寺、
東大寺、高野山、永平寺、三井寺などに納めた石仏があるよう
です。

 西に回り吉祥通りに出て南へ、武蔵野八幡宮のある八幡宮前
交差点から西に、五日市街道を進みます。


 けやき並木の並ぶ成蹊大前を過ぎ、途中の中華料理店で昼食
後、武蔵野市民文化会館前を通過、第5小の北にある延命寺に
着きました。

 現在の本堂は近代的な建築様式ですが、関前村開村当時の
寛文10年(1670)に開山された密教寺院です。

 ここは、毘沙門天と寿老人の寺、いずれも石仏で、本堂前に並
んでいます。
 
 制作は大法寺と同じ、愛知県岡崎市の大仏師・長岡和慶氏で、
毘沙門天の裏面には、平成18年12月15日建立と彫られていま
したから、まだ真新しいものです。

 ここでは、甘酒のサービスがあったのでいただきました。

 昨日のNHKTVを見て来たのか。今日が色紙押印の最終日という
こともあるのか、各寺社ともかなりの参詣客で賑わっていました。

 五日市街道を少し先まで進み、サザンカの咲くグリーンパーク遊歩
道に入って南へ、境浄水場の東側で玉川上水の境大橋を渡ります。

 この辺りは、毎年5月の連休に開催される、ウオーキング大会、
東京国際スリーデーマーチで通過するところです。

 さらに、高架工事中のJR中央線の踏切を越えて南に回り、2つ目
の通りを西に進んで、武蔵境通に面した恵比寿神の杵築(きづき)
大社に入りました。

 江戸時代の初め、松江藩主松平直政により建てられ、開運厄除け、
縁結びの神として信仰を集めているとのことです。

 本殿前には、千本イチョウと呼ぶイチョウの大木が立ち、境内には
高さ10mの富士塚もあり、病気平癒願ってお参りする人が多いよう
です。

 ここで最後のご朱印をいただきました。


 これで七福神めぐりは終了、高架工事中で仮駅舎のJR武蔵境駅
に15時20分に着きました。

(距離 9km、地図(1/2.5万) 吉祥寺、歩行地 武蔵野市、歩数 
14,600)


 

 

 
 

 

 

 

 

  

 

 
 

 


 
 

 


 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸・東京七福神めぐり(下谷七福神)

2007-01-02 21:43:44 | 七福神めぐり
 今日も、ここ3年参加している東京都ウオーキング協会主催の
「第5回江戸・東京七福神めぐり」の、「寿老人コース・下谷七福神」
に参加しました。

 JR池袋駅から山手線外回りで上野駅に向かいます。今日、明日
は、『第83回東京箱根間往復大学駅伝競走』の日。

 ちょうど入って来た内回り電車は、その箱根駅伝の広告車両でした。

 集合は、昨日のゴール上野公園の入口、JR上野駅公園口近くです。
ほかに6コースがあり、参加者は予想より少な目の60~70人くらい。

 9時45分にスタートしました。

 昨日のゴール、大噴水の南から東京芸術大学横を通過、寛永寺に
入り、本堂にあたる根本中堂に参拝して北に抜けました。

 この根本中堂は、明治9年(1876)~12年にかけて、埼玉県川越
市にある喜多院の本地堂を移築したもので、寛永15年(1638)の
建造といわれているようです。

 JR山手線などの線路を越えて根岸2丁目に入り、七福神の最初、
寿老人の元三島神社へ。普通、七福神はお寺ですが、入谷七福神も
ここだけが神社です。

 茅の輪をくぐってお参りします。神社の周辺には風俗店が並んで
いました。

 さらに先に進むと、福禄寿の下谷鬼子母神があります。鬼子母神は
安産、子育ての神。狭い境内ですが、江戸末期から続く「入谷の朝顔
市」が毎年7月6日~8日に開催されることで知られています。


 入谷交差点から少し戻って北に入り、下谷2丁目にある大黒天の
英信寺へ。出世・開運・商売繁盛の神です。


 同じ町内に毘沙門天の法昌寺もありました。毘沙門天は、必勝祈願
の軍神とのこと。


 法信寺のそばに、ヒカンザクラが咲いていました。


 昭和通に出て北東に進み、東側の竜泉1丁目に入り、弁財天の弁天
院に行きました。

 備中松山城主・水谷伊勢守勝隆が寛永元年(1624)不忍池に弁財
天を建立と同時に、下屋敷だったこの地にも祭ったものです。境内に
テントが張られ、お茶の無料サービスをしていました。

 その先、国際通の東に進むと、恵比寿神の飛不動尊正宝院です。

 恵比寿様はもともと漁の神。豊漁は航海安全によりもたらされ、安全
航行は商売繁盛につながり、繁昌すれば笑顔(えびす顔)になるという
わけです。

 北に進んで三の輪1丁目にある、布袋尊の寿永寺に参りました。寿永
法尼という尼さんが、徳川2代将軍秀忠公の菩提をともらうため、建立
したものです。


 これで下谷七福神の全部を回りました。ひとつ東の通りを折り返して
南へ進むと、竜泉3丁目に、一葉記念館と一葉記念公園がありました。

 樋口一葉が一時期を過ごし、名作『たけくらべ』を書いた場所。
公園には記念碑が建っています。

 千束3丁目から浅草5丁目を経て、裏手から浅草寺に入り解散となり
ました。

 浅草観音で知られる浅草寺は、初もうでの人で身動きできないくらい
の人出です。その間に割り込んで、私もお参りしてきました。

 表参道にあたる仲見世通りも大変な人出。きゅうくつな空間を逆行
して雷門に出て、雷門1丁目のうどん店で昼食をしました。


 寿4交差点から西へ、地下鉄銀座線の走る通りを上野駅まで歩き、
JR山手線で帰途につきました。

 

 




 
  

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする