2008年1月2日(水)、NPO東京都ウオーキング
協会が主催した、東京七福神巡りのひとつ、弁財天
コースの「谷中(やなか)七福神」に参加した。

集合はJR山手線・京浜東北線田端駅北口にある
「希望の鐘」と呼ぶ時計塔付近。
9時半頃開会式となり、まず東京都ウオーキング
協会副会長の挨拶がある。

コース説明や抽選会の後、ストレッチ体操をして、
9時45分にスタートした。
西側の田端5丁目の住宅地に上がり、南東に進ん
で最初の七福神は、田端2丁目にある福禄寿の東
覚寺。

りっぱな本堂の裏手に回ると、斜面を生かした広
い日本庭園があり、その上部に金色の福禄寿が祭
られていた。池を巡る回遊式庭園も見応えがする。
道路際右手には、赤紙を体いっぱいに貼られた
赤紙仁王尊が2体立つ。

寛永18年(1641)8月21日銘があるとか。
当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために
建立されたものらしい。
西日暮里4丁目を経て南東の西日暮里3丁目に入
り、2つ目は西日暮里駅のすぐ西になる恵比寿天の
青雲寺。

宝暦年間(1751~64)中興の寺とのこと。本堂前
にしだれ桜が2本ある。
本堂左手に文化6年(1809)の「滝沢馬琴筆塚の
碑」があり、丸く刈り込んだマキの木の間には大きな
硯(すずり)石が立っていた。
少し先、同じ西日暮里3丁目にある布袋尊の修正
院に入る。墓地を囲む塀には、タイルに描かれたカラ
ーの布袋様が幾つも埋め込まれていた。

本堂はコンクリート製。境内にはりっぱなシダレ桜が
あり、大きな布袋尊は本堂内左手に鎮座していた。

少し南に進み、東の日暮里駅方向に富士見坂を上
がる。上部から振りかえると、ビルの間にわずかに
富士山の右上だけが望まれた(写真の中央)。

朝倉彫塑館(ちょうそかん)などのある谷中5丁目の
古い家並みの間を進み、4番目は寿老人の長安寺。

狭い境内の右手に本堂があり、その前にりっぱな
アカマツが立つ。寿老人は本堂内左手に祭られて
いる。
本堂南側の墓地には立錐の余地が無いほど墓石
が並び、その一角に明治初期の日本画家・狩野芳
崖の墓もある。

東に向かい、谷中霊園に入って交番付近でトイレ
休憩。そばに幸田露伴の「五重塔」で知られる天王
寺五重塔の礎石が残っていた。

寛政3年(1791)に再建の五重塔は、高さ34.18m
あり、関東で1番高い塔だったというが、昭和32年
(1957)7月、放火により焼失した。
両側にりっぱな墓地の並ぶ霊園内、古木の桜並木
の通りを北に進み、谷中7丁目にあるその天王寺へ。
北側のがけ下は日暮里駅である。

室町時代の応永年間(1394~1427)頃の創建
といわれ、都内では有数の古寺。歴史を感じさせる
独特の山門をくぐると、境内は広い。毘沙門天々は
山門右手にあった。
谷中墓地を南に抜け、さらに古い家並みの残る通
りを進む。谷中6交差点の東北際に、旧吉田屋酒店
があった。

明治43年(1910)築造で、通の西側の谷中6丁目
から移築復元されたものという。
言問通の南側に進み右折してすぐ、6番目は大黒
天の護国院。場所は上野公園10番になる。

北側の通りに面した大きな本堂は釈迦堂とも呼ば
れ、享保7年(1722)の再建。堂内の大黒天像は、
3代将軍徳川家光から送られたものと伝えられると
いう。
境内はかなりの参拝者で賑わっていた。
上野高校や上野動物園の西側を回って不忍(しの
ばず)通りに出て、不忍池のひとつボート池の西北
端に入った。

池にはたくさんの水鳥が泳いでいるがボートはひとつ
だけ。
ボート池の北側に沿って進み、裏手から最後の弁
天堂に回る。正面の階段に多くの参拝客が並び、
その後について参拝した。

弁天堂の前が今日のゴール、11時45分に着く。流
れ解散となり、途中同行したSさんと不忍池の東から
南側に回って分かれ、東京メトロ御茶ノ水駅から丸ノ
内線で池袋駅に向かった。
参加者は79名、役員6名と合わせて85名がこの
コースを巡った人数である。
協会が主催した、東京七福神巡りのひとつ、弁財天
コースの「谷中(やなか)七福神」に参加した。
集合はJR山手線・京浜東北線田端駅北口にある
「希望の鐘」と呼ぶ時計塔付近。
9時半頃開会式となり、まず東京都ウオーキング
協会副会長の挨拶がある。

コース説明や抽選会の後、ストレッチ体操をして、
9時45分にスタートした。
西側の田端5丁目の住宅地に上がり、南東に進ん
で最初の七福神は、田端2丁目にある福禄寿の東
覚寺。

りっぱな本堂の裏手に回ると、斜面を生かした広
い日本庭園があり、その上部に金色の福禄寿が祭
られていた。池を巡る回遊式庭園も見応えがする。
道路際右手には、赤紙を体いっぱいに貼られた
赤紙仁王尊が2体立つ。

寛永18年(1641)8月21日銘があるとか。
当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために
建立されたものらしい。
西日暮里4丁目を経て南東の西日暮里3丁目に入
り、2つ目は西日暮里駅のすぐ西になる恵比寿天の
青雲寺。

宝暦年間(1751~64)中興の寺とのこと。本堂前
にしだれ桜が2本ある。
本堂左手に文化6年(1809)の「滝沢馬琴筆塚の
碑」があり、丸く刈り込んだマキの木の間には大きな
硯(すずり)石が立っていた。
少し先、同じ西日暮里3丁目にある布袋尊の修正
院に入る。墓地を囲む塀には、タイルに描かれたカラ
ーの布袋様が幾つも埋め込まれていた。

本堂はコンクリート製。境内にはりっぱなシダレ桜が
あり、大きな布袋尊は本堂内左手に鎮座していた。

少し南に進み、東の日暮里駅方向に富士見坂を上
がる。上部から振りかえると、ビルの間にわずかに
富士山の右上だけが望まれた(写真の中央)。

朝倉彫塑館(ちょうそかん)などのある谷中5丁目の
古い家並みの間を進み、4番目は寿老人の長安寺。

狭い境内の右手に本堂があり、その前にりっぱな
アカマツが立つ。寿老人は本堂内左手に祭られて
いる。
本堂南側の墓地には立錐の余地が無いほど墓石
が並び、その一角に明治初期の日本画家・狩野芳
崖の墓もある。

東に向かい、谷中霊園に入って交番付近でトイレ
休憩。そばに幸田露伴の「五重塔」で知られる天王
寺五重塔の礎石が残っていた。

寛政3年(1791)に再建の五重塔は、高さ34.18m
あり、関東で1番高い塔だったというが、昭和32年
(1957)7月、放火により焼失した。
両側にりっぱな墓地の並ぶ霊園内、古木の桜並木
の通りを北に進み、谷中7丁目にあるその天王寺へ。
北側のがけ下は日暮里駅である。

室町時代の応永年間(1394~1427)頃の創建
といわれ、都内では有数の古寺。歴史を感じさせる
独特の山門をくぐると、境内は広い。毘沙門天々は
山門右手にあった。
谷中墓地を南に抜け、さらに古い家並みの残る通
りを進む。谷中6交差点の東北際に、旧吉田屋酒店
があった。

明治43年(1910)築造で、通の西側の谷中6丁目
から移築復元されたものという。
言問通の南側に進み右折してすぐ、6番目は大黒
天の護国院。場所は上野公園10番になる。

北側の通りに面した大きな本堂は釈迦堂とも呼ば
れ、享保7年(1722)の再建。堂内の大黒天像は、
3代将軍徳川家光から送られたものと伝えられると
いう。
境内はかなりの参拝者で賑わっていた。
上野高校や上野動物園の西側を回って不忍(しの
ばず)通りに出て、不忍池のひとつボート池の西北
端に入った。

池にはたくさんの水鳥が泳いでいるがボートはひとつ
だけ。
ボート池の北側に沿って進み、裏手から最後の弁
天堂に回る。正面の階段に多くの参拝客が並び、
その後について参拝した。

弁天堂の前が今日のゴール、11時45分に着く。流
れ解散となり、途中同行したSさんと不忍池の東から
南側に回って分かれ、東京メトロ御茶ノ水駅から丸ノ
内線で池袋駅に向かった。
参加者は79名、役員6名と合わせて85名がこの
コースを巡った人数である。