2008年1月27日(日)
![](http://clip.alpslab.jp/bin/map?pos=36/19/57.704,139/26/46.696&scale=70000)
栃木県足利市は、古来から織物の町として栄え、毛野
国(現在の栃木・群馬県)の政治、文化の中心地だった
といわれ、多くの史蹟と豊かな自然に恵まれている。
このような歴史風土の中で、町の繁栄と家運隆盛、健
康増進を祈って昭和62年(1987)1月、半世紀ぶりに
七福神めぐりが復活したという。
コースの全長は43.8㎞あるが、全11社寺中の最短
距離で巡れる、市街地の8社寺を巡ることにした。
東武伊勢崎線足利市駅に10時20分に下車する。
駅構内の観光協会に寄った後、すぐ北を流れる渡良瀬
川の中橋際に出て、左岸堤防を上流に進む。
堤防上は北風が冷たく吹きつけ、渡良瀬橋の向こうに
雪を被った日光連山が望める。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/df/d19fcec7768b25a6ceab602c2a2e129f.jpg)
その渡良瀬橋を渡って細い通りの旧道へ。JR両毛
線の踏切を渡ってすぐに左折、特養老人ホームや示現
稲荷神社前を抜け、料理店鳥つねの横で広い通りに
出た。
すぐ南の交差点を渡って真っ直ぐ進み、石段を上れ
ば布袋尊の福厳寺(ふくごんじ)である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/06/df0bbfa9823bb94f47a90a68d5580293.jpg)
福厳寺は、寿永元年(1128)、藤姓足利の4代目
忠綱が母の菩提と父の供養のため創建したという。
本堂前にしだれ桜があり、境内にはモミジの古木も
立つ。布袋尊は、本堂左手のイチョウの下で立って
いた。
そばに数体の地蔵が並ぶ地蔵堂と、延命地蔵尊を
祭り、セキ止めに効験があるといわれるるセキ地蔵堂
もある。
本堂左手の墓地の間の階段を上がって足利公園に
出た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d4/9f798bbd17fe367d6371f9ddd10d5681.jpg)
市街地の展望が良く、公園内には近代日本で初め
て古墳の学術調査が行われたという10基の古墳群が、
桜や松、ケヤキ、ツツジなどの下に残されている。
車も通れる園路を南に下ると、JR両毛線の線路際
に草雲(そううん)美術館があった。
足利が生んで幕末の勤王画家・田崎早雲の遺作・遺品
を展示しているようだが、今日の目的からは外れるので
入館は省略する。
公園の下側を東に回り、足利六十六郷の総鎮守と
いう八雲神社に参拝。貞観年間(859~876)創建と
伝えられる古社。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/95/22ce1e6dd3a544907e7821913f3ce7cd.jpg)
社殿は再建して新しく、境内はそう広くないが、神木
のケヤキの古木が枯れ枝を大きく広げていた。
福厳寺前に戻り、水の枯れたところもある柳原用水
沿いの旧道を北東に向かう。交通量の多い県道67号
に出ると、北側の山すそが毘沙門天の常念寺。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/69/13469d8a113644a613b53bbcedc2aba8.jpg)
平安末期の康治2年(1143)の創建と伝えられる
時宗の寺。昭和61年(1986)新築という鉄筋のどっ
しりした本堂横に、幼稚園を併設している。
そのため境内はほとんど無く、県道寄りに一遍上人
像が立つていた。
さらに柳原上水沿いの旧道を進む。三宝院の先で、
用水は東向きにカーブし、廃校になった旧西小付近
からは暗きょとなり、そのうえに幅広い歩道ができて
いた。
すぐ先の交差点の南側に、赤い鳥居と赤い柱の小
ぶりな社殿が目につく。弁財天の厳島神社、長尾弁
天である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/95/1139940846222f988b406c97da856eb1.jpg)
もとは北側の長林寺境内に、足利城主・長尾景長
が祭ったと伝えられ、明治元年(1868)の神仏分離
令で、現在地に遷座したという。
社殿前に机を出し、七福神巡りの人のためにお守り
や資料などを並べていて、甘酒と日本茶のお接待をい
ただいた。
交差点を北へ、旧道に入って山すそを右に回り込み、
長い境内を進んで福禄寿の長林寺へ。山門の手前に
ある池には厚い氷が張っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/e0/185557973a2b0269060c5c2a91813787.jpg)
長林寺は、文安5年(1448)、足利領主・長尾景人
により創建した竜沢寺がはじまり。元禄時代に伽藍
(がらん)を整備し、明治維新まで修行道場として
人材育成の場だったという。
豊富な樹林に囲まれた墓地の一角に、戦国時代に
上杉方の勇将として活躍した足利長尾氏歴代の墓地
や、江戸末期の足利藩絵師で、明治22年(1889)の
パリ万国博で名誉賞を受賞した田崎早雲の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/0d/8c25d842ecd1cdf29d86ef3d88e7982e.jpg)
旧道に戻ってさらに北に進み、足利工高の東側山腹
の石段を114段、恵比寿神の西宮神社に上がる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/18/8f76ce1fec25a9fae5a2a481a358d703.jpg)
江戸開府の慶長8年(1603)、代官・小林重郎左衛
門が、領地繁栄のため摂津(兵庫県)の西宮神社を勧
請して創建、「福の神」として関東一円の崇敬を集めた
という。
杉や松木立に囲まれた境内には、本殿のほか、秋葉、
稲荷、八坂、山神社などの社殿があり、恵比寿神は、
奥の神明殿に祭られていた。
もとの道を長尾弁天そばの交差点まで戻り、暗きょ
上の歩道を東に進んで織姫神社下まで行く。
南側に社殿の彫刻がみごとな神社が見えたので、ひ
とつ南側の通りの鳥居の方に回る。
八雲神社で、鳥居のそばに高さ25mという大イチョ
ウがあった。市の天然記念物になっていて、ギンナン
もたくさん実るようだ。
本殿の背後にある社殿に精巧な木彫が施されている
が、本殿を含め周囲を石の柵で囲ってあり、そばで拝
観することはできなかった。
織姫神社下に戻り、229段の石段を上がって織姫
神社に参拝する。足利織姫神社は、奈良時代初期の
和銅6年(713)の文献が残り、足利織物の守り神と
して創建されたもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/c3/5061a7c3fc9ad64641e6acfab027e429.jpg)
明治13年(1890)9月の火災で消失後、昭和12
年(1937)朱塗りの現社殿が造営され、鉄筋コンク
リート造りながら、日本古来の寝殿造りを再現し、国
の有形文化財に指定されている。
境内からは足利市街の展望が良い。
東側から北の両崖山へ向かうハイキングコースがあ
るが、石段下に戻り、再び現れた柳原用水沿いを北東
に向かう。
足利赤十字病院下から徳正寺付近まで進むと、落ち
着いた住宅地となる。樹覚寺前で歩道が終わって広い
通りへ。間もなく2つめの弁財天、明石弁天がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/df/0d5dadf79af9a04680441cb2fff7399c.jpg)
昔この地に清らかな湧水の池があり、弁財天を祭っ
たと伝えられ、現在の社殿は寛政5年(1793)建立
だという。
松とケヤキ1本ずつの境内には、美人弁天を祭る朱
塗りで緑屋根の弁天堂もある。氏子の方2人がおられ、
お茶のお接待をいただいた。
広い道路をそのまま進む。小さい峠を下ったところに
あるのが次の心通院かと思ったら、善徳寺墓苑。寿老
人の心通院は、墓苑前を東に進んだ右手にあった。
心通院に入る前にそばに、近くの中華料理店で遅い
昼食をする。
心通院は、永禄9年(1566)、足利長尾5代の政長が、
両親の菩提のために創建したのだという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/43/7ac1d03756ef12a489b4932534eb94f1.jpg)
現在の鉄筋八角形の社殿は、昭和38年(1963)の
再建とか、両崖山を背にして独特の景観を見せている。
第二中の南西側付近から、南南西に直線に延びる
道路を1㎞ほど進み、最後の鑁阿寺(ばんなじ)に北門
から入る。
建久7年(1196)、源姓足利氏2代義兼が建立し、
大日如来を祭ったのが始まり。3代義氏が堂塔伽藍を
建立し、足利一門の氏寺として隆盛したという。
周囲に土塁を巡らし広さ約4万㎡という広大な境内、
大黒天は、境内北側にある校倉造りの大黒堂に祭ら
れていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/8a/7d99857ea429cbbb99708697c836244c.jpg)
境内には、本堂にあたる大御堂や、鐘楼、一切経
堂が国の重文、はかに楼門、多宝塔、御霊屋敷、屋
根付太鼓橋などが県の文化財に指定され、大御堂の
そばには、樹齢約550年、縁結びのご神木といわ
れる見事な大イチョウが立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/d1/e9376216214fdd2c5e08cbc96086d4d3.jpg)
南門に出て太鼓橋を渡り、大門通の途中から東に
回って、日本最古の学校、足利学校も訪ねる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/e9/b8a7dfaec99f489adb3707f517e8ca94.jpg)
16時の受付時刻を過ぎ、急ぎ一回りして閉門後の
木戸から出る。
電線、電柱を地中化した足利氏の中心街、県道67
号を通2交差点まで進み、渡良瀬川の中橋を渡って、
16時27分に足利市駅に戻った。
快晴ながら1日中風が冷たく、地図を見るのもおっ
くうになる寒さだった。
鑁阿寺と足利学校については、別途紹介することに
する。
(天気 快晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、
足利北部、歩行地 栃木県足利市、歩数 19300)
栃木県足利市は、古来から織物の町として栄え、毛野
国(現在の栃木・群馬県)の政治、文化の中心地だった
といわれ、多くの史蹟と豊かな自然に恵まれている。
このような歴史風土の中で、町の繁栄と家運隆盛、健
康増進を祈って昭和62年(1987)1月、半世紀ぶりに
七福神めぐりが復活したという。
コースの全長は43.8㎞あるが、全11社寺中の最短
距離で巡れる、市街地の8社寺を巡ることにした。
東武伊勢崎線足利市駅に10時20分に下車する。
駅構内の観光協会に寄った後、すぐ北を流れる渡良瀬
川の中橋際に出て、左岸堤防を上流に進む。
堤防上は北風が冷たく吹きつけ、渡良瀬橋の向こうに
雪を被った日光連山が望める。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/df/d19fcec7768b25a6ceab602c2a2e129f.jpg)
その渡良瀬橋を渡って細い通りの旧道へ。JR両毛
線の踏切を渡ってすぐに左折、特養老人ホームや示現
稲荷神社前を抜け、料理店鳥つねの横で広い通りに
出た。
すぐ南の交差点を渡って真っ直ぐ進み、石段を上れ
ば布袋尊の福厳寺(ふくごんじ)である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/06/df0bbfa9823bb94f47a90a68d5580293.jpg)
福厳寺は、寿永元年(1128)、藤姓足利の4代目
忠綱が母の菩提と父の供養のため創建したという。
本堂前にしだれ桜があり、境内にはモミジの古木も
立つ。布袋尊は、本堂左手のイチョウの下で立って
いた。
そばに数体の地蔵が並ぶ地蔵堂と、延命地蔵尊を
祭り、セキ止めに効験があるといわれるるセキ地蔵堂
もある。
本堂左手の墓地の間の階段を上がって足利公園に
出た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/d4/9f798bbd17fe367d6371f9ddd10d5681.jpg)
市街地の展望が良く、公園内には近代日本で初め
て古墳の学術調査が行われたという10基の古墳群が、
桜や松、ケヤキ、ツツジなどの下に残されている。
車も通れる園路を南に下ると、JR両毛線の線路際
に草雲(そううん)美術館があった。
足利が生んで幕末の勤王画家・田崎早雲の遺作・遺品
を展示しているようだが、今日の目的からは外れるので
入館は省略する。
公園の下側を東に回り、足利六十六郷の総鎮守と
いう八雲神社に参拝。貞観年間(859~876)創建と
伝えられる古社。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/95/22ce1e6dd3a544907e7821913f3ce7cd.jpg)
社殿は再建して新しく、境内はそう広くないが、神木
のケヤキの古木が枯れ枝を大きく広げていた。
福厳寺前に戻り、水の枯れたところもある柳原用水
沿いの旧道を北東に向かう。交通量の多い県道67号
に出ると、北側の山すそが毘沙門天の常念寺。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/69/13469d8a113644a613b53bbcedc2aba8.jpg)
平安末期の康治2年(1143)の創建と伝えられる
時宗の寺。昭和61年(1986)新築という鉄筋のどっ
しりした本堂横に、幼稚園を併設している。
そのため境内はほとんど無く、県道寄りに一遍上人
像が立つていた。
さらに柳原上水沿いの旧道を進む。三宝院の先で、
用水は東向きにカーブし、廃校になった旧西小付近
からは暗きょとなり、そのうえに幅広い歩道ができて
いた。
すぐ先の交差点の南側に、赤い鳥居と赤い柱の小
ぶりな社殿が目につく。弁財天の厳島神社、長尾弁
天である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/95/1139940846222f988b406c97da856eb1.jpg)
もとは北側の長林寺境内に、足利城主・長尾景長
が祭ったと伝えられ、明治元年(1868)の神仏分離
令で、現在地に遷座したという。
社殿前に机を出し、七福神巡りの人のためにお守り
や資料などを並べていて、甘酒と日本茶のお接待をい
ただいた。
交差点を北へ、旧道に入って山すそを右に回り込み、
長い境内を進んで福禄寿の長林寺へ。山門の手前に
ある池には厚い氷が張っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/e0/185557973a2b0269060c5c2a91813787.jpg)
長林寺は、文安5年(1448)、足利領主・長尾景人
により創建した竜沢寺がはじまり。元禄時代に伽藍
(がらん)を整備し、明治維新まで修行道場として
人材育成の場だったという。
豊富な樹林に囲まれた墓地の一角に、戦国時代に
上杉方の勇将として活躍した足利長尾氏歴代の墓地
や、江戸末期の足利藩絵師で、明治22年(1889)の
パリ万国博で名誉賞を受賞した田崎早雲の墓がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/0d/8c25d842ecd1cdf29d86ef3d88e7982e.jpg)
旧道に戻ってさらに北に進み、足利工高の東側山腹
の石段を114段、恵比寿神の西宮神社に上がる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/18/8f76ce1fec25a9fae5a2a481a358d703.jpg)
江戸開府の慶長8年(1603)、代官・小林重郎左衛
門が、領地繁栄のため摂津(兵庫県)の西宮神社を勧
請して創建、「福の神」として関東一円の崇敬を集めた
という。
杉や松木立に囲まれた境内には、本殿のほか、秋葉、
稲荷、八坂、山神社などの社殿があり、恵比寿神は、
奥の神明殿に祭られていた。
もとの道を長尾弁天そばの交差点まで戻り、暗きょ
上の歩道を東に進んで織姫神社下まで行く。
南側に社殿の彫刻がみごとな神社が見えたので、ひ
とつ南側の通りの鳥居の方に回る。
八雲神社で、鳥居のそばに高さ25mという大イチョ
ウがあった。市の天然記念物になっていて、ギンナン
もたくさん実るようだ。
本殿の背後にある社殿に精巧な木彫が施されている
が、本殿を含め周囲を石の柵で囲ってあり、そばで拝
観することはできなかった。
織姫神社下に戻り、229段の石段を上がって織姫
神社に参拝する。足利織姫神社は、奈良時代初期の
和銅6年(713)の文献が残り、足利織物の守り神と
して創建されたもの。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/c3/5061a7c3fc9ad64641e6acfab027e429.jpg)
明治13年(1890)9月の火災で消失後、昭和12
年(1937)朱塗りの現社殿が造営され、鉄筋コンク
リート造りながら、日本古来の寝殿造りを再現し、国
の有形文化財に指定されている。
境内からは足利市街の展望が良い。
東側から北の両崖山へ向かうハイキングコースがあ
るが、石段下に戻り、再び現れた柳原用水沿いを北東
に向かう。
足利赤十字病院下から徳正寺付近まで進むと、落ち
着いた住宅地となる。樹覚寺前で歩道が終わって広い
通りへ。間もなく2つめの弁財天、明石弁天がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/df/0d5dadf79af9a04680441cb2fff7399c.jpg)
昔この地に清らかな湧水の池があり、弁財天を祭っ
たと伝えられ、現在の社殿は寛政5年(1793)建立
だという。
松とケヤキ1本ずつの境内には、美人弁天を祭る朱
塗りで緑屋根の弁天堂もある。氏子の方2人がおられ、
お茶のお接待をいただいた。
広い道路をそのまま進む。小さい峠を下ったところに
あるのが次の心通院かと思ったら、善徳寺墓苑。寿老
人の心通院は、墓苑前を東に進んだ右手にあった。
心通院に入る前にそばに、近くの中華料理店で遅い
昼食をする。
心通院は、永禄9年(1566)、足利長尾5代の政長が、
両親の菩提のために創建したのだという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/43/7ac1d03756ef12a489b4932534eb94f1.jpg)
現在の鉄筋八角形の社殿は、昭和38年(1963)の
再建とか、両崖山を背にして独特の景観を見せている。
第二中の南西側付近から、南南西に直線に延びる
道路を1㎞ほど進み、最後の鑁阿寺(ばんなじ)に北門
から入る。
建久7年(1196)、源姓足利氏2代義兼が建立し、
大日如来を祭ったのが始まり。3代義氏が堂塔伽藍を
建立し、足利一門の氏寺として隆盛したという。
周囲に土塁を巡らし広さ約4万㎡という広大な境内、
大黒天は、境内北側にある校倉造りの大黒堂に祭ら
れていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/8a/7d99857ea429cbbb99708697c836244c.jpg)
境内には、本堂にあたる大御堂や、鐘楼、一切経
堂が国の重文、はかに楼門、多宝塔、御霊屋敷、屋
根付太鼓橋などが県の文化財に指定され、大御堂の
そばには、樹齢約550年、縁結びのご神木といわ
れる見事な大イチョウが立っていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/d1/e9376216214fdd2c5e08cbc96086d4d3.jpg)
南門に出て太鼓橋を渡り、大門通の途中から東に
回って、日本最古の学校、足利学校も訪ねる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/e9/b8a7dfaec99f489adb3707f517e8ca94.jpg)
16時の受付時刻を過ぎ、急ぎ一回りして閉門後の
木戸から出る。
電線、電柱を地中化した足利氏の中心街、県道67
号を通2交差点まで進み、渡良瀬川の中橋を渡って、
16時27分に足利市駅に戻った。
快晴ながら1日中風が冷たく、地図を見るのもおっ
くうになる寒さだった。
鑁阿寺と足利学校については、別途紹介することに
する。
(天気 快晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、
足利北部、歩行地 栃木県足利市、歩数 19300)