2018年5月10日(水)
今日は、今回の旅で一番の目的である源平倶利伽羅(げんぺいくりから)合戦の行われ
た倶利伽羅峠越えの歴史国道を歩くことにした。
昨年暮れ、カントリーウオークの仲間Kさんが歩かれた能登の文学者ゆかりの地を巡る
エッセイを読むため、周辺の観光パンフレットを入手した。
そのひとつに「源平倶利伽羅合戦地(歴史国道)」の紹介があり、興味を引かれて歩く
ことにしたのである。
木曽義仲は、私が育った埼玉県中部の隣町、嵐山町(らんざんまち)に生まれたとされ、
鎌形八幡神社に義仲産湯の清水があり、毎年11月の日本スリーデーマーチで何度も立ち
寄り、さらに中山道ウオークで木曽町や南木曽町で義仲ゆかりの寺社などを訪ねたことも
あり、昨年の旅では倶利伽羅駅も通過したことなどから、木曽義仲に一層興味を引かれた
のである。

宿泊した金沢市のビジネスホテルを7時20分頃出た。金沢駅7時40分発IRいしか
わ鉄道経由JR七尾線直通の七尾行きに乗る。

通勤通学時間帯なので、電車は予想外に長い6両編成だった。

7時59分に無人の中津幡(なかつばた)駅で降りる。近くに高校があるようで、下車
した高校生も多い。雨が降っていたので傘をさして8時5分にスタートした。


南西側の交差点を左折して県道218号に入り東へ、北陸道と思われる津幡集落の古く
からの家並みの間を進む。家並みが少なくなり南側に津幡川が近づく。


Y字路を右折して杉瀬集落を南東へ進むと、街道筋らしさを残す大きな民家が見られた。
次のY字路際にあった八幡神社境内に上がり、今日の行程の無事を祈る。社殿は小さな民
家風の素朴な造り。

社殿横から東北東へ緩やかに上がる道へ、その先は民家が途絶える。日本フィルター工
業の大きな建物があり、「熊出没‼注意」の立て札も現れた。近くにタニウツギが咲き、
この先でも数知れぬほどこの花が見られた。

送電線下を通過すると両側は津幡運動公園となり、右手に陸上競技場と野球場、左手に
は体育館やテニスコートなどが続く。

駐車場横から下り坂となり、行く手線路の向こうに道の駅らしい建物が見下ろせる。

運動公園の終端付近で近づいた線路下を抜けて「道の駅 倶利伽羅源平の里 竹橋口」に
入る。

最初の建物に観光コーナーがあり、開館直前だが開けてくれたので入館した。館内には
木曽義仲ゆかりの展示やパンフレットなどがあり、担当の方にこの先の歴史国道の様子を
聞き、分かりにくいところは無いようなので安心した。

ちなみに「歴史国道事業」では、昔の姿を残す道を建設省(現国土交通省)で保存・復
元し、町並み、遺跡、構造物、祭りなどとネットワークすることで、歴史と文化の香り高
い地域造りを目指しているとのこと。
館内のパネルには全国で24の歴史国道が紹介されていて、私が過去に歩いたところで
は、中山道「追分宿」、東海道「蒲原宿~由比宿」、中山道「落合宿・馬籠宿・妻籠宿」、
熊野古道(なかへちみち)が入っていた。
今日歩く歴史国道・北陸道「倶利伽羅峠」は、津幡町竹橋のこの道の駅から石川・富山
県境の倶利伽羅峠を越えて小矢部市(おやべし)桜町の国道8号バイパス沿いの道の駅
「めるへんおやべ」までの12.8㎞となっている。

道の駅にはほかに宿泊施設や入浴施設、売店、食堂などがあり、構内には和風建築の倶
利伽羅郵便局もあった。雨の心配は無くなったので傘をたたみ9時15分に道の駅を出た。



この先からが歴史国道となり、東南東に真っ直ぐに延びる北陸道竹橋宿の家並みの間を
通過する。道の駅で教えてもらった歴史国道の目印が電柱上部にあった。

道が右カーブし始めて竹橋宿が終わる辺りに、倶利伽羅峠三十三観音が祭られていた。


その先は民家が途絶え、300mほどで車道とも分かれてY字路を左への山道となる。


周辺にはたくさんのフジの花が雨に濡れて咲く。分岐点には、旧北陸道を紹介する掲示
があった。

しっとりした新緑にあふれる道は簡易舗装されていて歩きやすい。4体のお地蔵さんの
並ぶ先から緩斜面の上りとなり、丸太の階段になっている。


半円形の石柱が並ぶ先で車道に出て右へ少しで、再び山道に向かって上がる。ここにも
「熊出没‼注意」の看板がありチョット心配。


道は軽トラが通れるくらいの幅があり、未舗装だがよく踏み固められていて歩きやすい。



次第に高度が上がり、樹林の切れ目から谷を隔てた山並みや高圧送電線などが望まれる。
路傍にはキンポウゲ科と思われる黄色い花が咲き競い、ウグイスが間近で鳴いている。

送電線下から間もなく、右から上がってきた舗装路に合し、「道番人(みちばんにん)
屋敷跡」の説明板や歴史国道の案内図が立っていた。


北側の高台は城ヶ峰城址で、その南側に2戸の屋敷があり、加賀藩が寛文5(1665)
年から道番人を置き、給銀と屋敷を与えて街道の掃き掃除や砂入れ、水落し、並木の手入
れなどさせていたといわれていたようだ。

近くに「龍ヶ峰城跡」説明板と「龍ヶ峰城跡公園案内図」が立ち、公園に上る道もある
が、まだ道半ばにも達していないので上がるのは省き、そばの休憩舎で休憩した。なお、
ピークの城ヶ峰の標高は194.5mである。

その先は全て車道となり、分かりにくいところもなさそうなのででひと安心した。


タニウツギの咲く道を進むと「馬洗い場跡」の案内板がある。湧き水を利用して岩場を
掘って作った馬洗い場が、数10年前まで使われていたが、現在は湧水も確認できないよ
うだ。
倶利伽羅駅方面から上がってきた車道とのY字路際に、竹橋宿を出てから無かった民家
が現れた。

数戸が散在する山森集落で、路傍の湿地にクリンソウが咲き、何色かのツツジも咲き残
る。近くの斜面ではシャガが咲き競っていた。

500m余り進んで右カーブすると県境の倶利伽羅峠が近づき、津幡町最後の倶利伽羅
集落である。ムラサキモクレンの花が残り、車道はくねくねと曲がり急斜面の上りとなる。
この集落にもクリンソウが咲き、傍らにプリムラも咲く。

急坂を上がった倶利伽羅不動寺入口に六地蔵が並び、反対側のお堂には秀雅上人像が祭
られている。

秀雅上人は、天正年間(1573~92)の兵火で焼けて荒れた倶利伽羅山長楽寺(ち
ょうらくじ)の再興を発願し、慶長3(1598)年に住職に就任して前田公の信任を得
て、七堂伽藍(しちどうがらん)を造営して中興開山したという。

お堂の反対側石段を上がり、手向(たむけ)神社に参拝する。手向神社の石堂神殿は、
慶長19(1614)年に加賀藩3代藩主前田利常が、兄利長の病気平癒を祈願して寄進
した長楽寺不動堂で、のち護摩堂になった建物とか。お堂の横には「長楽寺跡」の説明板
があった。

神社の右手が、倶利伽羅不動寺の山頂堂である。倶利伽羅不動寺は、養老2(718)
年に元正天皇の勅願によりインドの高僧、善無畏蔵法師が、剣に巻き付いた黒龍姿の倶利
伽羅不動明王を彫刻して安置したのが始まりとのこと。

倶利伽羅とは、インドのサンスクリット語で福徳円満の黒い龍を意味するもので、その
名をとってこの山を倶利伽羅山と呼ぶようになったという。
現在は高野山別格本山で、千葉県の成田不動尊、神奈川県の大山不動尊とともに日本三
大不動とされている。


山頂堂の周辺には、大きな開運不動剣、新しい小ぶりの五重塔などが並び、五重塔そば
からは東方の展望が開けていた。



ここがコースの最高点で、標高276.7mの三角点があるようだが、確認は漏らした。

奈良県の長谷寺のような登廊(のぼりろう)を下る。向きの変わる中間に、水かけ不動
尊が祭られていた。


下ったところは倶利伽羅不動の駐車場だろうか。一隅に恵比寿様と大黒様が並ぶ。どう
やら倶利伽羅峠の先に下りたように思われ、右方向に進んでT字路をさらに右へ、西方に
向かって回り込む。

手向神社の石段下まで戻り、その南側周辺が津幡町の倶利伽羅公園だったことを再確認
する。そばの車道のピーク↓が倶利伽羅峠のようだが、峠の標示も県境の標識も無い。

ピークから、さらに高みの林間を上がる遊歩道があるのでその道を進むと、「北陸道不
動の茶屋」説明板があった。

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が文政11(1828)年刊行の「越中道ひざくり
毛」に、石動(いするぎ)から倶利伽羅峠を越えて加賀に向かう際、倶利伽羅不動前の茶
屋が賑わっていたと記され、そのことを詠(よ)んだ歌碑が傍らに立っていた。
近くには、室町時代最大の連歌の巨匠という飯尾宗祇(いいおそうぎ)の歌碑もある。

さらに、木曽義仲が寿永2(1183)年に平清盛軍と倶利伽羅山で戦って大勝利を挙
げた際、先陣を切った郷土の蟹谷次郞が酒宴を張り戦勝を祝い鳴らしたという「源氏太鼓
由来記」と、「蟹谷次郞由緒之地」碑や、平家軍の平為盛の供養のために建てられたと伝
わる「為盛塚五輪塔」もある。

その先には倶利伽羅合戦の両軍の戦没者を供養する、新しい源平供養塔が設けられてい
た。


供養塔から車道に下ると休憩舎と木造の展望台があり、そばに「倶利伽羅古道 散策案
内マップ」「倶利伽羅県定公園 展望図」「倶利伽羅合戦~平家滅亡の歴史的大転換の舞
台」説明板などが並んでいた。

展望台に上がり、倶利伽羅合戦の舞台だったという南側の谷間と、その向こうに広がる
山並みなどを眺めたが、雲が多く展望図に記された遠方の山は確認できなかった。


ちょうど正午なので、休憩舎に入り昼食とする。眼下の斜面に咲くトチや、たくさんの
フジの花が新緑に彩りを添えている。〈続く〉
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今日は、今回の旅で一番の目的である源平倶利伽羅(げんぺいくりから)合戦の行われ
た倶利伽羅峠越えの歴史国道を歩くことにした。
昨年暮れ、カントリーウオークの仲間Kさんが歩かれた能登の文学者ゆかりの地を巡る
エッセイを読むため、周辺の観光パンフレットを入手した。
そのひとつに「源平倶利伽羅合戦地(歴史国道)」の紹介があり、興味を引かれて歩く
ことにしたのである。
木曽義仲は、私が育った埼玉県中部の隣町、嵐山町(らんざんまち)に生まれたとされ、
鎌形八幡神社に義仲産湯の清水があり、毎年11月の日本スリーデーマーチで何度も立ち
寄り、さらに中山道ウオークで木曽町や南木曽町で義仲ゆかりの寺社などを訪ねたことも
あり、昨年の旅では倶利伽羅駅も通過したことなどから、木曽義仲に一層興味を引かれた
のである。

宿泊した金沢市のビジネスホテルを7時20分頃出た。金沢駅7時40分発IRいしか
わ鉄道経由JR七尾線直通の七尾行きに乗る。

通勤通学時間帯なので、電車は予想外に長い6両編成だった。

7時59分に無人の中津幡(なかつばた)駅で降りる。近くに高校があるようで、下車
した高校生も多い。雨が降っていたので傘をさして8時5分にスタートした。


南西側の交差点を左折して県道218号に入り東へ、北陸道と思われる津幡集落の古く
からの家並みの間を進む。家並みが少なくなり南側に津幡川が近づく。


Y字路を右折して杉瀬集落を南東へ進むと、街道筋らしさを残す大きな民家が見られた。
次のY字路際にあった八幡神社境内に上がり、今日の行程の無事を祈る。社殿は小さな民
家風の素朴な造り。

社殿横から東北東へ緩やかに上がる道へ、その先は民家が途絶える。日本フィルター工
業の大きな建物があり、「熊出没‼注意」の立て札も現れた。近くにタニウツギが咲き、
この先でも数知れぬほどこの花が見られた。

送電線下を通過すると両側は津幡運動公園となり、右手に陸上競技場と野球場、左手に
は体育館やテニスコートなどが続く。

駐車場横から下り坂となり、行く手線路の向こうに道の駅らしい建物が見下ろせる。

運動公園の終端付近で近づいた線路下を抜けて「道の駅 倶利伽羅源平の里 竹橋口」に
入る。

最初の建物に観光コーナーがあり、開館直前だが開けてくれたので入館した。館内には
木曽義仲ゆかりの展示やパンフレットなどがあり、担当の方にこの先の歴史国道の様子を
聞き、分かりにくいところは無いようなので安心した。

ちなみに「歴史国道事業」では、昔の姿を残す道を建設省(現国土交通省)で保存・復
元し、町並み、遺跡、構造物、祭りなどとネットワークすることで、歴史と文化の香り高
い地域造りを目指しているとのこと。
館内のパネルには全国で24の歴史国道が紹介されていて、私が過去に歩いたところで
は、中山道「追分宿」、東海道「蒲原宿~由比宿」、中山道「落合宿・馬籠宿・妻籠宿」、
熊野古道(なかへちみち)が入っていた。
今日歩く歴史国道・北陸道「倶利伽羅峠」は、津幡町竹橋のこの道の駅から石川・富山
県境の倶利伽羅峠を越えて小矢部市(おやべし)桜町の国道8号バイパス沿いの道の駅
「めるへんおやべ」までの12.8㎞となっている。

道の駅にはほかに宿泊施設や入浴施設、売店、食堂などがあり、構内には和風建築の倶
利伽羅郵便局もあった。雨の心配は無くなったので傘をたたみ9時15分に道の駅を出た。



この先からが歴史国道となり、東南東に真っ直ぐに延びる北陸道竹橋宿の家並みの間を
通過する。道の駅で教えてもらった歴史国道の目印が電柱上部にあった。

道が右カーブし始めて竹橋宿が終わる辺りに、倶利伽羅峠三十三観音が祭られていた。


その先は民家が途絶え、300mほどで車道とも分かれてY字路を左への山道となる。


周辺にはたくさんのフジの花が雨に濡れて咲く。分岐点には、旧北陸道を紹介する掲示
があった。


しっとりした新緑にあふれる道は簡易舗装されていて歩きやすい。4体のお地蔵さんの
並ぶ先から緩斜面の上りとなり、丸太の階段になっている。


半円形の石柱が並ぶ先で車道に出て右へ少しで、再び山道に向かって上がる。ここにも
「熊出没‼注意」の看板がありチョット心配。


道は軽トラが通れるくらいの幅があり、未舗装だがよく踏み固められていて歩きやすい。



次第に高度が上がり、樹林の切れ目から谷を隔てた山並みや高圧送電線などが望まれる。
路傍にはキンポウゲ科と思われる黄色い花が咲き競い、ウグイスが間近で鳴いている。

送電線下から間もなく、右から上がってきた舗装路に合し、「道番人(みちばんにん)
屋敷跡」の説明板や歴史国道の案内図が立っていた。


北側の高台は城ヶ峰城址で、その南側に2戸の屋敷があり、加賀藩が寛文5(1665)
年から道番人を置き、給銀と屋敷を与えて街道の掃き掃除や砂入れ、水落し、並木の手入
れなどさせていたといわれていたようだ。

近くに「龍ヶ峰城跡」説明板と「龍ヶ峰城跡公園案内図」が立ち、公園に上る道もある
が、まだ道半ばにも達していないので上がるのは省き、そばの休憩舎で休憩した。なお、
ピークの城ヶ峰の標高は194.5mである。

その先は全て車道となり、分かりにくいところもなさそうなのででひと安心した。


タニウツギの咲く道を進むと「馬洗い場跡」の案内板がある。湧き水を利用して岩場を
掘って作った馬洗い場が、数10年前まで使われていたが、現在は湧水も確認できないよ
うだ。
倶利伽羅駅方面から上がってきた車道とのY字路際に、竹橋宿を出てから無かった民家
が現れた。

数戸が散在する山森集落で、路傍の湿地にクリンソウが咲き、何色かのツツジも咲き残
る。近くの斜面ではシャガが咲き競っていた。

500m余り進んで右カーブすると県境の倶利伽羅峠が近づき、津幡町最後の倶利伽羅
集落である。ムラサキモクレンの花が残り、車道はくねくねと曲がり急斜面の上りとなる。
この集落にもクリンソウが咲き、傍らにプリムラも咲く。

急坂を上がった倶利伽羅不動寺入口に六地蔵が並び、反対側のお堂には秀雅上人像が祭
られている。

秀雅上人は、天正年間(1573~92)の兵火で焼けて荒れた倶利伽羅山長楽寺(ち
ょうらくじ)の再興を発願し、慶長3(1598)年に住職に就任して前田公の信任を得
て、七堂伽藍(しちどうがらん)を造営して中興開山したという。

お堂の反対側石段を上がり、手向(たむけ)神社に参拝する。手向神社の石堂神殿は、
慶長19(1614)年に加賀藩3代藩主前田利常が、兄利長の病気平癒を祈願して寄進
した長楽寺不動堂で、のち護摩堂になった建物とか。お堂の横には「長楽寺跡」の説明板
があった。

神社の右手が、倶利伽羅不動寺の山頂堂である。倶利伽羅不動寺は、養老2(718)
年に元正天皇の勅願によりインドの高僧、善無畏蔵法師が、剣に巻き付いた黒龍姿の倶利
伽羅不動明王を彫刻して安置したのが始まりとのこと。

倶利伽羅とは、インドのサンスクリット語で福徳円満の黒い龍を意味するもので、その
名をとってこの山を倶利伽羅山と呼ぶようになったという。
現在は高野山別格本山で、千葉県の成田不動尊、神奈川県の大山不動尊とともに日本三
大不動とされている。


山頂堂の周辺には、大きな開運不動剣、新しい小ぶりの五重塔などが並び、五重塔そば
からは東方の展望が開けていた。



ここがコースの最高点で、標高276.7mの三角点があるようだが、確認は漏らした。

奈良県の長谷寺のような登廊(のぼりろう)を下る。向きの変わる中間に、水かけ不動
尊が祭られていた。


下ったところは倶利伽羅不動の駐車場だろうか。一隅に恵比寿様と大黒様が並ぶ。どう
やら倶利伽羅峠の先に下りたように思われ、右方向に進んでT字路をさらに右へ、西方に
向かって回り込む。

手向神社の石段下まで戻り、その南側周辺が津幡町の倶利伽羅公園だったことを再確認
する。そばの車道のピーク↓が倶利伽羅峠のようだが、峠の標示も県境の標識も無い。

ピークから、さらに高みの林間を上がる遊歩道があるのでその道を進むと、「北陸道不
動の茶屋」説明板があった。

十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が文政11(1828)年刊行の「越中道ひざくり
毛」に、石動(いするぎ)から倶利伽羅峠を越えて加賀に向かう際、倶利伽羅不動前の茶
屋が賑わっていたと記され、そのことを詠(よ)んだ歌碑が傍らに立っていた。
近くには、室町時代最大の連歌の巨匠という飯尾宗祇(いいおそうぎ)の歌碑もある。


さらに、木曽義仲が寿永2(1183)年に平清盛軍と倶利伽羅山で戦って大勝利を挙
げた際、先陣を切った郷土の蟹谷次郞が酒宴を張り戦勝を祝い鳴らしたという「源氏太鼓
由来記」と、「蟹谷次郞由緒之地」碑や、平家軍の平為盛の供養のために建てられたと伝
わる「為盛塚五輪塔」もある。

その先には倶利伽羅合戦の両軍の戦没者を供養する、新しい源平供養塔が設けられてい
た。


供養塔から車道に下ると休憩舎と木造の展望台があり、そばに「倶利伽羅古道 散策案
内マップ」「倶利伽羅県定公園 展望図」「倶利伽羅合戦~平家滅亡の歴史的大転換の舞
台」説明板などが並んでいた。

展望台に上がり、倶利伽羅合戦の舞台だったという南側の谷間と、その向こうに広がる
山並みなどを眺めたが、雲が多く展望図に記された遠方の山は確認できなかった。


ちょうど正午なので、休憩舎に入り昼食とする。眼下の斜面に咲くトチや、たくさんの
フジの花が新緑に彩りを添えている。〈続く〉


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