2018年5月11日(金)
最終日は、散居村(さんきょそん)で知られた砺波(となみ)平野(富山県)の南端に
あり、古い町並みの残る日本一の木彫りのまち、井波(いなみ)を訪ねることにした。
今朝は快晴になり、宿泊したJR北陸新幹線新高岡駅前のビジネスホテルの部屋からは、
西方に白山(はくさん)らしい残雪の山並みが望まれる。
新高岡駅南口から8時54分発小牧堰堤行きバスに乗る。少し西進して国道156号線
に入り南南西へ、途中JR城端線の中間の主要駅、砺波駅前を通過する。
左右に広がる散居村の風景を眺めながらさらに南南東に進み、予定より10分余り遅れ
て10時7分に井波中央バス停で下りた。
そばの変速五差路交差点の南西側は交通広場で、「花鳥の塔」と呼ぶ木彫の塔が目につ
く。広場には観光協会があり貸し自転車も用意されている。
南側の八日町広場と呼ぶ小公園には湧水があり、白壁には透かし彫りの木彫が並ぶ。
その横から、町の中心部を南に真っ直ぐに伸びる石畳の八日町通りに入った。
通りの両側には幾つもの彫刻工房が並び、作業の様子を見られる工房もあり、木彫品の
直売もしている。
通りにある酒店など古くからの建物や柱などには様々な彫刻が見られ、バスの標識や木
彫りの表札、七福神など、いたるところで木彫りの製品が目に入る。
古い洋館の富山銀行井波支店の横の路地を入ると、突き当たりが黒髪庵(くろかみあん)
と翁塚(おきなづか)のある浄蓮寺である。
黒髪庵は、越中の俳人数百人の寄進により文化7(1810)年に建てられたとか。境
内のかやぶき屋根は芭蕉堂で、町の俳人により明治15(1882)年建立のよう。
傍らに、これから行く瑞泉寺の11代で芭蕉の門弟だった浪化(ろうか)上人が、近江
の義仲寺(ぎちゅうじ)にある芭蕉の墓から小石3個を持ち帰り建てた翁塚があり、その
後遺髪も納められたという。
六日町通りの中ほどに、井波美術館があったので入館する。建物は、大正13(1924)
年に県下初の鉄筋コンクリート造りで建てられた旧中越銀行井波支店。
井波は木彫りの町であるとともに、多くの芸術家が集う美術の町でもあるようで、館内
には彫塑、現代工芸、造形など地元作家の現代美術品が展示されていた(無料)。
美術館前の公衆電話ボックスにも木彫が施され、入口横には「倒立」と題する木彫の彫
刻もある。
少し先で、公開されていた国登録有形文化財の斎賀家住宅に入る。軒の出の大きい屋根
を支える登梁出桁(のぼりばりだしげた)造りで、間口4間・奥行8間の木造2階建て主
屋は江戸時代末期の建築と考えられるとか。
道路側のミセには衣類物などが並び、右手の石敷の土間を進むと吹き抜けの一角もあり、
廊下の奥には昭和13(1938)年建築の土蔵がある。
さらに緩やかな上り坂の通りを木彫の看板や七福神など見ながら進む。
上がりきった正面が、真宗大谷派井波別院の瑞泉寺(ずいせんじ)である。
瑞泉寺は、明徳元(1390)年に本願寺5代棹如(しゃくにょ)上人により開創され
た寺院で、北陸地方の真宗木造建築の寺院では最も大きな建物のよう。
寺は一時、越中一向一揆(えっちゅういっこういっき)の拠点になるなどして興亡の時
を迎えたが法灯を守り続け、秀吉の保護を得て勢力を復旧したという。
豪壮な山門は、江戸後期の文化6(1809)年に地元井波の大工により完成したもの。
山門の各所には数々の優れた彫刻や文様が施され、総ケヤキ重層入母屋造りの建物は県指
定重要文化財である。
正面の本堂は明治16(1883)年の再建で、単層入母屋造りの建物は北陸随一の大
伽藍(だいがらん)とか。
境内右手には昭和9(1936)年建立の瑞泉会館があり、近くのフジ棚に古木の白フ
ジが咲き残り、別のフジ棚のムラサキのフジもわずかに花を残していた。
本堂前から振り返る山門
本堂に上がって内部を拝観し、渡り廊下で結ばれた太子堂にも参拝する(各々撮影禁止)。
本堂上部の木彫。
太子堂
太子堂側面上方の蟇股(かえるまた)などには、井波彫刻の粋を示す精巧な木彫が随所
に施されていた。
境内は緑が多く、ツツジなども咲き新緑がみずみずしい。
太子堂の前の鐘楼堂や、山門の右手にある勅使門とも呼ばれる瑞泉寺式台門などにも、
井波彫刻の素晴らしい木彫が目につく。
なお、鐘楼堂の大梵鐘は口径1.24m、重さ3.372トンあり、北陸随一という。
11時30分過ぎに瑞泉寺を後にする。八日町通りの様々な木彫を探しながら八日町広
場近くまで戻り、蕎麦懐石の松屋に入り昼食にした。
注文した田舎そば(1100円)。
〈続く〉
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最終日は、散居村(さんきょそん)で知られた砺波(となみ)平野(富山県)の南端に
あり、古い町並みの残る日本一の木彫りのまち、井波(いなみ)を訪ねることにした。
今朝は快晴になり、宿泊したJR北陸新幹線新高岡駅前のビジネスホテルの部屋からは、
西方に白山(はくさん)らしい残雪の山並みが望まれる。
新高岡駅南口から8時54分発小牧堰堤行きバスに乗る。少し西進して国道156号線
に入り南南西へ、途中JR城端線の中間の主要駅、砺波駅前を通過する。
左右に広がる散居村の風景を眺めながらさらに南南東に進み、予定より10分余り遅れ
て10時7分に井波中央バス停で下りた。
そばの変速五差路交差点の南西側は交通広場で、「花鳥の塔」と呼ぶ木彫の塔が目につ
く。広場には観光協会があり貸し自転車も用意されている。
南側の八日町広場と呼ぶ小公園には湧水があり、白壁には透かし彫りの木彫が並ぶ。
その横から、町の中心部を南に真っ直ぐに伸びる石畳の八日町通りに入った。
通りの両側には幾つもの彫刻工房が並び、作業の様子を見られる工房もあり、木彫品の
直売もしている。
通りにある酒店など古くからの建物や柱などには様々な彫刻が見られ、バスの標識や木
彫りの表札、七福神など、いたるところで木彫りの製品が目に入る。
古い洋館の富山銀行井波支店の横の路地を入ると、突き当たりが黒髪庵(くろかみあん)
と翁塚(おきなづか)のある浄蓮寺である。
黒髪庵は、越中の俳人数百人の寄進により文化7(1810)年に建てられたとか。境
内のかやぶき屋根は芭蕉堂で、町の俳人により明治15(1882)年建立のよう。
傍らに、これから行く瑞泉寺の11代で芭蕉の門弟だった浪化(ろうか)上人が、近江
の義仲寺(ぎちゅうじ)にある芭蕉の墓から小石3個を持ち帰り建てた翁塚があり、その
後遺髪も納められたという。
六日町通りの中ほどに、井波美術館があったので入館する。建物は、大正13(1924)
年に県下初の鉄筋コンクリート造りで建てられた旧中越銀行井波支店。
井波は木彫りの町であるとともに、多くの芸術家が集う美術の町でもあるようで、館内
には彫塑、現代工芸、造形など地元作家の現代美術品が展示されていた(無料)。
美術館前の公衆電話ボックスにも木彫が施され、入口横には「倒立」と題する木彫の彫
刻もある。
少し先で、公開されていた国登録有形文化財の斎賀家住宅に入る。軒の出の大きい屋根
を支える登梁出桁(のぼりばりだしげた)造りで、間口4間・奥行8間の木造2階建て主
屋は江戸時代末期の建築と考えられるとか。
道路側のミセには衣類物などが並び、右手の石敷の土間を進むと吹き抜けの一角もあり、
廊下の奥には昭和13(1938)年建築の土蔵がある。
さらに緩やかな上り坂の通りを木彫の看板や七福神など見ながら進む。
上がりきった正面が、真宗大谷派井波別院の瑞泉寺(ずいせんじ)である。
瑞泉寺は、明徳元(1390)年に本願寺5代棹如(しゃくにょ)上人により開創され
た寺院で、北陸地方の真宗木造建築の寺院では最も大きな建物のよう。
寺は一時、越中一向一揆(えっちゅういっこういっき)の拠点になるなどして興亡の時
を迎えたが法灯を守り続け、秀吉の保護を得て勢力を復旧したという。
豪壮な山門は、江戸後期の文化6(1809)年に地元井波の大工により完成したもの。
山門の各所には数々の優れた彫刻や文様が施され、総ケヤキ重層入母屋造りの建物は県指
定重要文化財である。
正面の本堂は明治16(1883)年の再建で、単層入母屋造りの建物は北陸随一の大
伽藍(だいがらん)とか。
境内右手には昭和9(1936)年建立の瑞泉会館があり、近くのフジ棚に古木の白フ
ジが咲き残り、別のフジ棚のムラサキのフジもわずかに花を残していた。
本堂前から振り返る山門
本堂に上がって内部を拝観し、渡り廊下で結ばれた太子堂にも参拝する(各々撮影禁止)。
本堂上部の木彫。
太子堂
太子堂側面上方の蟇股(かえるまた)などには、井波彫刻の粋を示す精巧な木彫が随所
に施されていた。
境内は緑が多く、ツツジなども咲き新緑がみずみずしい。
太子堂の前の鐘楼堂や、山門の右手にある勅使門とも呼ばれる瑞泉寺式台門などにも、
井波彫刻の素晴らしい木彫が目につく。
なお、鐘楼堂の大梵鐘は口径1.24m、重さ3.372トンあり、北陸随一という。
11時30分過ぎに瑞泉寺を後にする。八日町通りの様々な木彫を探しながら八日町広
場近くまで戻り、蕎麦懐石の松屋に入り昼食にした。
注文した田舎そば(1100円)。
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