2019年12月23日(月)
定期購読している月刊誌「地図中心」の発行元・日本地図センターで来年の地図関連カ
レンダーの無料配布をするというので、2日目の今日出かけた。
JR山手線渋谷駅西口を10時37分にスタートする。国道246号線と道玄坂に挟ま
れた細い通りの急坂を上がり、合流点近くで国道に合する。歩道のイチョウがまだ葉を残
していた。
旧山手通りを横断し、急坂の大坂を下った山手通りに面した左手が、日本地図センター
である。
昨日も地図配布があり残りは少ないが、世界地図、日本地図などの大判カレンダー4枚
をもらう。さらに売店で最近発売の2万5千分の1地形図2枚を購入し、11時10分に
日本地図センターを出た。
この後は、探しておいた周辺のポイントを幾つか回ることにする。
国道246号を南西にすぐ、上を走る首都高3号線の大橋ジャンクション下へ。
国道をこ道橋で横断してエレベーターで上がり、一周約400mのジャンクション屋上
に設けられた「目黒天空庭園(めぐろてんくうていえん)」に入る。
高速道路ジャンクション屋上の公園は全国初のようで、約7千㎡のエリアには、四季折
々の自然や和の文化を楽しめる回遊式の和風庭園が整備されている。
管理棟↑を出ると、反時計回りの緩やかな上り傾斜に沿って季節の花の咲く花壇、芝生地
と種々の植栽が続き、両側に遊歩道と階段があり、どちらを上がってもよい。
ところどころに色づいた葉も残り、常緑広葉樹の葉も昨日の雨でみずみずしい。
周辺のビルや住宅群なども望みながら少しずつ上がる。途中には休憩用の東屋やベンチ
もあり、いくつかの石灯籠も配置されている。
大きな盆栽の松や植え込みの松、彩りの残るモミジなど見ながら最上部まで上がった。
西側のビル群、この中央部辺りから富士山が見えるというが、今日は雲があり望めない。
赤い実がたわわに実るクロガネモチやモミジなど眺め、一巡し終えたので退出すること
にした。
北東側、目黒区立大橋図書館などのある42階建て超高層ビル・クロスエアタワー↑の
9階に入り、エレベーターで1階に下りた。
国道を南西にすぐで目黒川を渡り、ソメイヨシノの並木の続く右岸沿いへ。
小さな水車小屋があり、二つ目の橋で川を離れて南西に進み、東山公園内を北東から南
西へと広い芝生地を抜ける。
東山小グランドの北西側の交差点際に標高31.1m水準点マークがあったので探した
ら、サクラの古木下にすぐに見つかった。しかも「一等水準点 第一一〇二五号」の説明
板もある。
国道でもないのに一等水準点とはと思ったが、そばに「国土地理院跡地記念碑」もあり、
ここに昭和54(1979)年まで国土地理院があったことなどが記されていた。
国土地理院は現在のつくば市に移る以前はここにあったのだったと、来たことはないが
うろ覚えの知識ながら思い出す。背後の一帯は公園として整備されていた。
落葉したイチョウの街路樹の続く通りを少し進み、世田谷公園の北東端に出た。北側は
サッカー場とテニスコートで、その南側一帯に公園としての種々の設備や豊富な木々が目
に入る。
テニスコートの南側には、SLのD51272号とヨ14740号貨車が保存公開され
ていた。
D51272号は昭和14(1939)年の製造。昭和47(1972)年に山口県厚
(あさ)機関区で廃車されるまで、主に九州や広島方面で貨車輸送専門に活躍し、走行距
離は地球約61周の約245万8千㎞になるという。
公園の中央部には六角形の池があり、大きな噴水がきれいな弧を描いていた。
池の北側には「平和の灯」と呼ぶモニュメントが立つ。昭和60(1985)年に世田
谷区が「平和都市宣言」を行った5年後に設置したもの。製作は区内在住の彫刻家・向井
良吉氏だという。
池の南側はソメイヨシノの多い「さくら広場」。
その南側のカエデ広場を囲んでミニSLの走行するレールが楕円形で大きく一周し、そ
れら一帯を囲んで豊富な樹林がよい緑陰を構成している。
公園の南東端から出て、池尻特別支援学校前を東へ、右左折して「蛇崩(じゃくずれ)」
という珍しい名の交差点に出た。地形図では、東に向かう緩やかなカーブの緑道らしいの
があるのでその道を進むことにした。
入口に「蛇崩下橋」の橋桁があり、流れが走っていたことが分かる。少し先に居られた
奥さんに聞くと、やはりこの下は蛇崩川の流れとのこと。50年くらい前に奥さんが来ら
れた頃には周辺に蛇がいて、「東京なのに蛇がいるとは」と驚いたことも話してくれた。
ちなみに、蛇崩川は世田谷区弦巻付近から東流し、中目黒付近で目黒川に合流する全長
約5㎞で、昭和48(1973)年に暗渠化され、蛇崩川緑道としてサクラ、フジ、サツ
キ、アジサイ、クチナシなどが植えられているとのこと(「東京の川を歩く」飯野頼治著)。
住宅地の間を縫う緑道で、両側の樹木や花、紅葉、柿の実をついばむ鳥など見ながら進
み、上目黒五丁目のキリスト兄弟団目黒教会際の交差点へ。
緑道を離れて北側の区道に回り、住宅に挟まれた西照寺に入るが、境内は狭くて由緒な
どもなく、変わった鬼瓦だけが目につく。
東側近くには烏森稲荷神社が祭られ、ほぼ葉の落ちたイチョウの古木が2本立っていた。
すぐ先、蛇崩川緑道の諏訪山橋で緑道に戻るが、その先は車道と並走するので緑道幅は
狭まる。
ソメイヨシノが数本並ぶ先で東急東横線の高架に突き当たり、北側のガードをくぐる。
南東に緩やかに上がり、大きなビルの目黒区役所に13時半近くに入り、1階奥のレス
トランで昼食とした。
遅いので主なメニューは売り切れ。注文したのは牛丼のような丼ランチ(560円)だ
った。
食堂の東側には池があり、植栽も少しあって区役所としては珍しい造りである。
珍しいといえば、ここに来た目的は屋上庭園を見ること。エレベーターでR階まで上が
って屋上に出ると、「目黒十五庭(とうごてい)」と呼ぶ屋上庭園がある。
都市部のヒートアイランド現象を緩和する一助として、目黒区では屋上や壁面緑化の助
成制度を平成14(2002)年からスタートしたが、その情報発信基地として東京農大
の全面協力を得て総合庁舎屋上に庭園を整備したもの。
この総合庁舎は、平成13(2001)年まで生命保険会社として使われていたとか。
建築家村野藤吾(むらのとうご)氏の名建築として評価されているところから、屋上庭
園の作庭にあたり屋上緑化への「十五の思い」と村野藤吾氏の名前にちなみ、「目黒十五
庭」と名付けたという。
面積は1,120㎡あり、中高木約20種140本、低木など約30種1,700株、地
被植物約50種2,000ポット、コウライシバなどで構成されているとか。
横長の屋上庭園の数々の植栽や芝生、咲き出したアセビ、野菜畑などの間を一巡した。
期待したほどびっしり植栽に覆われてはいないが、地球温暖化に対する区の取り組みの
ひとつとして貴重な場所と思われた。
1階に下りて長い廊下を回り、入ったのとは反対の駒沢通りに面した東口から区役所を
後にした。
区役所のすぐ南側に、「中目黒しぜんとなかよし公園」と呼ぶ小緑地がある。豊富な樹
林の中に、モミジやクヌギなどの紅葉が明るい彩りを見せる。
区役所寄りの一角には「平和の石」がある。原子爆弾で被爆した広島市旧庁舎の階段の
石で、同庁舎建て替えの際、平和の使者として目黒区民に寄贈されたものとか。
そういえば、わが所沢市役所にも、同様に広島市から寄贈された平和の石があった。
駒沢通りを南西に少しで、天祖神社に参拝する。境内にはケヤキやイチョウの高木があ
り、左手背後の児童遊園地のモミジがよい彩りを見せていた。
拝殿左手前の小さい覆い屋に2基の庚申塔が祭られていた。
右は享保元(1716)年の建立、道標を兼ねていて区内の道標碑では最古のもののよ
う。左は宝永5(1708)年の建立である。
さらに駒沢通りを300mほどで、板塀に囲まれた祐天寺(ゆうてんじ)の表門前に着
いた。
浄土宗祐天寺は、享保3(1718)年に祐天上人を開山と仰ぎ、その高弟祐海上人が
創建した寺院。将軍吉宗から特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄え
てきたとか。
広い境内にある本堂、書院、地蔵堂、地蔵堂門、表門、水屋、それに鐘楼の7つの建造
物が登録有形文化財である。
明治初期建造の表門を入ると、正面に享保20(1735)年建立の仁王門があり、5
代将軍綱吉の息女竹姫の寄進という。表門を入った右手の地蔵堂に、「子まもり地蔵尊」
が祭られている。
左手の地蔵堂門は嘉永4(1851)年建立、奥の地蔵堂は天明8(1788)年建立
で、その前の手水鉢には「え組」と刻まれていた。
近代建築の精進堂を挟んで南側は阿弥陀堂で、享保9(1724)年の上棟。仁王門と
同じ綱吉の息女竹姫の寄進のよう。
正面の本堂は万延元(1860)年の建立。賽銭箱にはたくさんの鳶(とび)組の組紋
章が記されていた。
本堂前左手の掲示板にはこのようなことばがあり、右手前の大きなドウダンツツジの紅
葉が見ごろ。
本堂左手は近年再建らしい新しい仏舎利殿で、前面に祐天上人などの描かれた大きな絵
馬が掲示されている。
本堂右手は寺務所の祐光殿で、その前に格好良い赤松が2本ある。
仁王門右手の鐘楼は、享保14(1729)年の建立。下がる梵鐘は6代将軍家宣(い
えのぶ)の17回忌追善供養のため、正室の天英院(てんえいいん)(近衛煕子(このえ
ひろこ))が発願したものとか。
鐘の上部には徳川家家紋の三葉葵(みつばあおい)、門部には近衛家の家紋の牡丹が記
されていて、徳川家と祐天寺の関係を示す貴重な資料という。
元文3(1738)年の27回忌追善を機に時の鐘として撞(つ)かれることになり、
現在も朝6時と正午に撞かれているという。
鐘楼の北側には累塚(かさねづか)がある。
文政年間(1818~30)に鶴屋南北が脚色上演した累一族の怨霊にかかる歌舞伎の
名作にちなみ、大正15(1926)年に6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、5世清元
延寿太夫などが施主になり建立したもの。
以来、歌舞伎や清元の上演者は必ず詣でる慣習になっているという。
境内中央部左手にある五社神社の横を進んで、東側の墓地へ。中央部近くに大正天皇の
生母、柳原一位局(愛子)の墓があるが、東日本大震災の影響だろうか、少し右に傾いて
いた。
その先には、東京都指定旧跡・祐天上人墓がある。
祐天上人は、江戸中期に活躍した浄土宗の高僧。桂昌院の帰依を得て将軍綱吉との関係
を深め、正徳3(1711)年に将軍家宣から芝増上寺住持を命ぜられて36世になり、
多数の寺院の復興などを行ったとか。
祐天寺は、祐天上人の遺言により、高弟祐海が念仏道場を建立したのが始まりで、祐天
を開山とし、祐海は2世となったという。
ほかに、表門を入り左手にある2基の海難供養碑、目黒区区発展の功労者で寺の興隆に
尽力した島崎七郎翁之像などを見て、表門から寺を出た。
寺の斜向かいの目黒高の先の交差点を右折して駅前商店街を進み、15時28分に東急
東横線の祐天寺駅に着いた。間もなくの渋谷行き上り電車で帰途につく。
ほとんど下調べもせずに回ったが、歩いてみると初めて知る場所や、祐天寺と徳川家と
の関係など興味深いことなども分かり、充実したウオーキングとなった。
(天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、歩行地 渋谷区、目黒区、
世田谷区、歩数17,500)
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レンダーの無料配布をするというので、2日目の今日出かけた。
JR山手線渋谷駅西口を10時37分にスタートする。国道246号線と道玄坂に挟ま
れた細い通りの急坂を上がり、合流点近くで国道に合する。歩道のイチョウがまだ葉を残
していた。
旧山手通りを横断し、急坂の大坂を下った山手通りに面した左手が、日本地図センター
である。
昨日も地図配布があり残りは少ないが、世界地図、日本地図などの大判カレンダー4枚
をもらう。さらに売店で最近発売の2万5千分の1地形図2枚を購入し、11時10分に
日本地図センターを出た。
この後は、探しておいた周辺のポイントを幾つか回ることにする。
国道246号を南西にすぐ、上を走る首都高3号線の大橋ジャンクション下へ。
国道をこ道橋で横断してエレベーターで上がり、一周約400mのジャンクション屋上
に設けられた「目黒天空庭園(めぐろてんくうていえん)」に入る。
高速道路ジャンクション屋上の公園は全国初のようで、約7千㎡のエリアには、四季折
々の自然や和の文化を楽しめる回遊式の和風庭園が整備されている。
管理棟↑を出ると、反時計回りの緩やかな上り傾斜に沿って季節の花の咲く花壇、芝生地
と種々の植栽が続き、両側に遊歩道と階段があり、どちらを上がってもよい。
ところどころに色づいた葉も残り、常緑広葉樹の葉も昨日の雨でみずみずしい。
周辺のビルや住宅群なども望みながら少しずつ上がる。途中には休憩用の東屋やベンチ
もあり、いくつかの石灯籠も配置されている。
大きな盆栽の松や植え込みの松、彩りの残るモミジなど見ながら最上部まで上がった。
西側のビル群、この中央部辺りから富士山が見えるというが、今日は雲があり望めない。
赤い実がたわわに実るクロガネモチやモミジなど眺め、一巡し終えたので退出すること
にした。
北東側、目黒区立大橋図書館などのある42階建て超高層ビル・クロスエアタワー↑の
9階に入り、エレベーターで1階に下りた。
国道を南西にすぐで目黒川を渡り、ソメイヨシノの並木の続く右岸沿いへ。
小さな水車小屋があり、二つ目の橋で川を離れて南西に進み、東山公園内を北東から南
西へと広い芝生地を抜ける。
東山小グランドの北西側の交差点際に標高31.1m水準点マークがあったので探した
ら、サクラの古木下にすぐに見つかった。しかも「一等水準点 第一一〇二五号」の説明
板もある。
国道でもないのに一等水準点とはと思ったが、そばに「国土地理院跡地記念碑」もあり、
ここに昭和54(1979)年まで国土地理院があったことなどが記されていた。
国土地理院は現在のつくば市に移る以前はここにあったのだったと、来たことはないが
うろ覚えの知識ながら思い出す。背後の一帯は公園として整備されていた。
落葉したイチョウの街路樹の続く通りを少し進み、世田谷公園の北東端に出た。北側は
サッカー場とテニスコートで、その南側一帯に公園としての種々の設備や豊富な木々が目
に入る。
テニスコートの南側には、SLのD51272号とヨ14740号貨車が保存公開され
ていた。
D51272号は昭和14(1939)年の製造。昭和47(1972)年に山口県厚
(あさ)機関区で廃車されるまで、主に九州や広島方面で貨車輸送専門に活躍し、走行距
離は地球約61周の約245万8千㎞になるという。
公園の中央部には六角形の池があり、大きな噴水がきれいな弧を描いていた。
池の北側には「平和の灯」と呼ぶモニュメントが立つ。昭和60(1985)年に世田
谷区が「平和都市宣言」を行った5年後に設置したもの。製作は区内在住の彫刻家・向井
良吉氏だという。
池の南側はソメイヨシノの多い「さくら広場」。
その南側のカエデ広場を囲んでミニSLの走行するレールが楕円形で大きく一周し、そ
れら一帯を囲んで豊富な樹林がよい緑陰を構成している。
公園の南東端から出て、池尻特別支援学校前を東へ、右左折して「蛇崩(じゃくずれ)」
という珍しい名の交差点に出た。地形図では、東に向かう緩やかなカーブの緑道らしいの
があるのでその道を進むことにした。
入口に「蛇崩下橋」の橋桁があり、流れが走っていたことが分かる。少し先に居られた
奥さんに聞くと、やはりこの下は蛇崩川の流れとのこと。50年くらい前に奥さんが来ら
れた頃には周辺に蛇がいて、「東京なのに蛇がいるとは」と驚いたことも話してくれた。
ちなみに、蛇崩川は世田谷区弦巻付近から東流し、中目黒付近で目黒川に合流する全長
約5㎞で、昭和48(1973)年に暗渠化され、蛇崩川緑道としてサクラ、フジ、サツ
キ、アジサイ、クチナシなどが植えられているとのこと(「東京の川を歩く」飯野頼治著)。
住宅地の間を縫う緑道で、両側の樹木や花、紅葉、柿の実をついばむ鳥など見ながら進
み、上目黒五丁目のキリスト兄弟団目黒教会際の交差点へ。
緑道を離れて北側の区道に回り、住宅に挟まれた西照寺に入るが、境内は狭くて由緒な
どもなく、変わった鬼瓦だけが目につく。
東側近くには烏森稲荷神社が祭られ、ほぼ葉の落ちたイチョウの古木が2本立っていた。
すぐ先、蛇崩川緑道の諏訪山橋で緑道に戻るが、その先は車道と並走するので緑道幅は
狭まる。
ソメイヨシノが数本並ぶ先で東急東横線の高架に突き当たり、北側のガードをくぐる。
南東に緩やかに上がり、大きなビルの目黒区役所に13時半近くに入り、1階奥のレス
トランで昼食とした。
遅いので主なメニューは売り切れ。注文したのは牛丼のような丼ランチ(560円)だ
った。
食堂の東側には池があり、植栽も少しあって区役所としては珍しい造りである。
珍しいといえば、ここに来た目的は屋上庭園を見ること。エレベーターでR階まで上が
って屋上に出ると、「目黒十五庭(とうごてい)」と呼ぶ屋上庭園がある。
都市部のヒートアイランド現象を緩和する一助として、目黒区では屋上や壁面緑化の助
成制度を平成14(2002)年からスタートしたが、その情報発信基地として東京農大
の全面協力を得て総合庁舎屋上に庭園を整備したもの。
この総合庁舎は、平成13(2001)年まで生命保険会社として使われていたとか。
建築家村野藤吾(むらのとうご)氏の名建築として評価されているところから、屋上庭
園の作庭にあたり屋上緑化への「十五の思い」と村野藤吾氏の名前にちなみ、「目黒十五
庭」と名付けたという。
面積は1,120㎡あり、中高木約20種140本、低木など約30種1,700株、地
被植物約50種2,000ポット、コウライシバなどで構成されているとか。
横長の屋上庭園の数々の植栽や芝生、咲き出したアセビ、野菜畑などの間を一巡した。
期待したほどびっしり植栽に覆われてはいないが、地球温暖化に対する区の取り組みの
ひとつとして貴重な場所と思われた。
1階に下りて長い廊下を回り、入ったのとは反対の駒沢通りに面した東口から区役所を
後にした。
区役所のすぐ南側に、「中目黒しぜんとなかよし公園」と呼ぶ小緑地がある。豊富な樹
林の中に、モミジやクヌギなどの紅葉が明るい彩りを見せる。
区役所寄りの一角には「平和の石」がある。原子爆弾で被爆した広島市旧庁舎の階段の
石で、同庁舎建て替えの際、平和の使者として目黒区民に寄贈されたものとか。
そういえば、わが所沢市役所にも、同様に広島市から寄贈された平和の石があった。
駒沢通りを南西に少しで、天祖神社に参拝する。境内にはケヤキやイチョウの高木があ
り、左手背後の児童遊園地のモミジがよい彩りを見せていた。
拝殿左手前の小さい覆い屋に2基の庚申塔が祭られていた。
右は享保元(1716)年の建立、道標を兼ねていて区内の道標碑では最古のもののよ
う。左は宝永5(1708)年の建立である。
さらに駒沢通りを300mほどで、板塀に囲まれた祐天寺(ゆうてんじ)の表門前に着
いた。
浄土宗祐天寺は、享保3(1718)年に祐天上人を開山と仰ぎ、その高弟祐海上人が
創建した寺院。将軍吉宗から特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄え
てきたとか。
広い境内にある本堂、書院、地蔵堂、地蔵堂門、表門、水屋、それに鐘楼の7つの建造
物が登録有形文化財である。
明治初期建造の表門を入ると、正面に享保20(1735)年建立の仁王門があり、5
代将軍綱吉の息女竹姫の寄進という。表門を入った右手の地蔵堂に、「子まもり地蔵尊」
が祭られている。
左手の地蔵堂門は嘉永4(1851)年建立、奥の地蔵堂は天明8(1788)年建立
で、その前の手水鉢には「え組」と刻まれていた。
近代建築の精進堂を挟んで南側は阿弥陀堂で、享保9(1724)年の上棟。仁王門と
同じ綱吉の息女竹姫の寄進のよう。
正面の本堂は万延元(1860)年の建立。賽銭箱にはたくさんの鳶(とび)組の組紋
章が記されていた。
本堂前左手の掲示板にはこのようなことばがあり、右手前の大きなドウダンツツジの紅
葉が見ごろ。
本堂左手は近年再建らしい新しい仏舎利殿で、前面に祐天上人などの描かれた大きな絵
馬が掲示されている。
本堂右手は寺務所の祐光殿で、その前に格好良い赤松が2本ある。
仁王門右手の鐘楼は、享保14(1729)年の建立。下がる梵鐘は6代将軍家宣(い
えのぶ)の17回忌追善供養のため、正室の天英院(てんえいいん)(近衛煕子(このえ
ひろこ))が発願したものとか。
鐘の上部には徳川家家紋の三葉葵(みつばあおい)、門部には近衛家の家紋の牡丹が記
されていて、徳川家と祐天寺の関係を示す貴重な資料という。
元文3(1738)年の27回忌追善を機に時の鐘として撞(つ)かれることになり、
現在も朝6時と正午に撞かれているという。
鐘楼の北側には累塚(かさねづか)がある。
文政年間(1818~30)に鶴屋南北が脚色上演した累一族の怨霊にかかる歌舞伎の
名作にちなみ、大正15(1926)年に6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、5世清元
延寿太夫などが施主になり建立したもの。
以来、歌舞伎や清元の上演者は必ず詣でる慣習になっているという。
境内中央部左手にある五社神社の横を進んで、東側の墓地へ。中央部近くに大正天皇の
生母、柳原一位局(愛子)の墓があるが、東日本大震災の影響だろうか、少し右に傾いて
いた。
その先には、東京都指定旧跡・祐天上人墓がある。
祐天上人は、江戸中期に活躍した浄土宗の高僧。桂昌院の帰依を得て将軍綱吉との関係
を深め、正徳3(1711)年に将軍家宣から芝増上寺住持を命ぜられて36世になり、
多数の寺院の復興などを行ったとか。
祐天寺は、祐天上人の遺言により、高弟祐海が念仏道場を建立したのが始まりで、祐天
を開山とし、祐海は2世となったという。
ほかに、表門を入り左手にある2基の海難供養碑、目黒区区発展の功労者で寺の興隆に
尽力した島崎七郎翁之像などを見て、表門から寺を出た。
寺の斜向かいの目黒高の先の交差点を右折して駅前商店街を進み、15時28分に東急
東横線の祐天寺駅に着いた。間もなくの渋谷行き上り電車で帰途につく。
ほとんど下調べもせずに回ったが、歩いてみると初めて知る場所や、祐天寺と徳川家と
の関係など興味深いことなども分かり、充実したウオーキングとなった。
(天気 晴、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、歩行地 渋谷区、目黒区、
世田谷区、歩数17,500)
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